アニメ「怪物事変」3話まで感想~【少年マンガ】というより、【少年ペロペロしたいマンガ】じゃないだろうか(褒め言葉)~

原作未読かつアニメ3話しか書いてないおっさんが書き飛ばした雑な暴論になりますので、以下、適当に読んでいただければ幸いです。

さて私のいいたいことはタイトルでも書いたとおり、
「少年マンガ」というより「少年ペロペロしたいマンガ」と思えるほど「少年」に対する独特のフェティシズムを感じる作品だということです。

なお作者「藍本松」氏は女性なのかなぁと思って見ていたのですが、調べてみるとやはり女性作家とのことでした。そこに対して是非をいっているのではなくて「少年」というものに対する捉え方がやはり男性である自分とは違う捉え方をしているのでその前提をご理解いただければ幸いです。(主語がでかいので気を悪くされたらすみません。私と作者の違いというだけということで許してください。)

男性視点の自分からみて、特に小中学生あたりの【少年らしさ】というと

・やたら頭が悪い
・やたらエロい(が恥ずかしがる)
・やたら勝負に勝ちたい
・やたらキョドる
・やたら好きなものに熱中

といった点が「少年らしさ」かなあと思っています。
伝わりづらいですがドラえもんののび太とか、電脳コイルの大地とかデンパとかナメッチとかのイメージです。(そういう意味でいうと鬼滅の刃の炭治郎はあまり少年ぽくない)

しかし本作の主人公「夏羽」はその要素がむしろ排除された真逆の存在としての「少年像」が描かれています。これがある意味、本作において理想化された「少年」だと考えられます。また、友達の「蓼丸」は少年間の友情を象徴として対となっており、「晶」は少年グループの中で女性性を排除されるために配置されている存在と考えられます。(「晶」がいるので本来女性キャラを入れる必要はない)

本作はこの「夏羽」「蓼丸」「晶」の関係はその中で理想化された「少年」として完結されており、その意味ではこの理想化された「少年」を良き大人役「隠神」によって守られているという一種のBL的な世界観として閉じたものでもよかったかもしれません。しかし、3話までみたところ、本作はそうではないようです。

というのは3話で登場した狐サイドのメンバーの存在がその世界観へ侵入を試みている描写があるからです。「飯生妖子」は少年をペロペロしたいという願望の象徴として存在し、そのアダプターである「紺」は少年ではなく、少女として「夏羽」に接触する疑似餌的な存在として遣わされます。

作中、裏稼業の探偵である「隠神」のいうところによると、自分たちは裏の存在として妖怪(半妖)を守り、警察の「飯生妖子」が表から守るというようなセリフがありますが、実際は逆で一般的なモラルからすると少年を普通に保護している「隠神」が表であり、ペロペロしたいという「飯生妖子」が裏の欲望を示しているという構図になっています。このあたりの倒錯加減も見どころの一つです。

また「命結石」とはこの理想化された「少年」を大人にせずに「少年」のまま留める力(ある意味、創作世界のシンボル)として配置されており、「飯生妖子」が「命結石」を複製してバラマキたいという願望は、メタ的にみると作者が少年を合法的にペロペロできるというこの作品自体を表現したい願望そのものを意味してると考えられます。言い替えれば本作は「少年をペロペロしたい存在」=「人間ではないもの(怪物)」の生存に関わるテーマが内在しているといえます。

まとめ

つまり作者のは「少年」の閉じた世界観を愛でつつも、そこに「ワンチャン、ペロペロできるのではないか?」という欲望の存在も同時に描いており、しかし「それ自体が許されるかどうか?」という葛藤をテーマとしてメタ的に描いた文学性の高い作品になっていると言えると思います。


今後の見どころ

以上の暴論を踏まえて今後の見どころを考えると

・疑似餌である「紺」の少女としての描写
・ところどころに漏れ出てくるペロペロしたい願望の発露
・理想化された「少年」の「夏羽」成長?によって変化するのか?
・はたして「夏羽」はペロペロされてしまうのか?
・いまだでてきてないキャラは何を意味するのか?
・「晶」のフェチ度の高い腰のクネクネ

といった点を注目したいと思います。

注意書き

一応フォローとして書いておきますが、「ペロペロしたい」という言い方は変態チックで作品を貶しているようですが、意図としてはそうではなく、名作と呼ばれる文学作品を考えるとむしろそういったことこそが普通のテーマだと考えています。私がいいたいのはそれだけの深みがこの作品にあるかもしれないということを一番に言いたいということでご理解頂けると幸いです。


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