【ワンダーエッグ・プライオリティ】9話まで感想

美しくみずみずしい作品。野島伸司脚本ということで、脚本に注目しつつも映像全般も美しい。そして「美しいもの」ともうひとつ「美しくないもの」を明確に描いている。それは本作では「少女」と「少女を少女でなくするもの」として描かれている。少女が少女であり続ける「キーワード」としてこの作品では「自殺」が大きく取り上げられている。ワンダーエッグからは「自殺」したなぜか少女が孵り、それとともに少女の自殺へと追い込むトラウマが敵対するボスとして現れる。主人公の4人の少女はそれぞれがかつて身近にいた自殺した少女を取り戻すために、卵の世界で少女を守りボスと戦うことになる。そのことにより、失った身近な少女を少しずつ生き返らせるというのがこの世界のルールである。5話に出てくるサングラスの少女?はまさに「少女を少女でなくするもの」少女であり続けるために自らも死を選び、ねいるに対して「死への誘惑」を語る。そしてサングラスの少女はその呪いに似た想いゆえに自分自身が倒すべきモンスターと一体となっている特殊な存在であった。

オリジナルアニメのためこのストーリーの展開や世界の設定はまだよくわからないのでこのあとは自分なりの考察を。(9話まで鑑賞済み)

9話ではねいるの秘書の田辺がアカ、裏アカと意味深な会話をしているシーンが展開される。

(アカ)「少女たちの自殺。本当の理由をいったら彼女たちは誰も戦わない」(裏アカ)「ああ、元々の原因が俺たち二人にあったと知ったらな」(田辺)「そうでしょうか。私は逆に立ち向かってくれると思うんです。少女だから。同じ少女の悲しみを理解して」
~第9話より~

「あどけない悲しみ」少女の持つ悲しみとは少女でなくなること。それに立ち向かう目的は永遠に少女であり続けること。ワンダーエッグは少女を少女として閉じ込める装置なのかもしれない。ワンダーエッグから出てくる少女は一体どこからくるのだろうか。ある意味死者のたましいを呼び出して、ボスを倒すことによって成仏させるような戦いをアイたちはしているのだろうか。しかし、たましいを呼び出すようなことができるならば、アイ達が戦いつづけ少しずつ銅像に生命を吹き込む行為はまどろっこしい。仮説として考えるならば、エッグの中の少女も別のだれかによって銅像から開放された存在かもしれない。つまりアイたちの行為はエッグとなる少女を作り上げる行為なのかもしれない。

電脳コイルというアニメでは電脳的異世界の存在イリーガルとして交通事故でなくなった少女があらわれる。その少女は本当に死んだ少女そのものなのか?監督の磯光雄はインタビューで以下のように答えている。

私が自分で考えた造語に「雌型の実在」というものがあります。もし死者の意識がどこかで再現されるとするなら、それは周囲の人々の意識の中にあるその人物の輪郭、雌型の断片が重ね合わさったときではないか、という考えです。故人を知る人々がその輪郭の断片を持ち寄ってイメージした時、故人は一瞬だけ生命を取り戻すのではないか。
~「ロマンアルバム 電脳コイル」P99より~

9話でねいるはコトブキが死に至った場所にいって彫像になった彼女を再生させるという。コトブキは答えていう「死に至るビジョンはあなたは見ていない。抽象的な場所にいくことは不可能よ」と。

仮説としてアイ達が選ばれた資格として、自殺した少女の「雌型の実在」を再生できる「死に至るビジョン」を持ち、なおかつ自分達自身が「あどけない悲しみ」を理解できる少女であることがあるのではないだろうか。(さきほどの電脳コイルでいえば少年期から青年期の狭間におり、特殊な傷をおった少年・少女たちが「イマーゴ」と呼ばれ電脳の異界にアクセスできる権利をもっていたのににているかもしれない)

アカはいう「エッグの中には君の欲しい物が入っている。友達さ。」少女たちは「欲しい物のため」に、ワンダーエッグを割って戦い、戦いのなかで雌型の断片を少しずつ集める儀式はAIの機械学習のようにも思える。そして「雌型の実在」としてタマシイを取り戻した友達は一瞬出会うことと引き換えにエッグとして永遠の少女となる。しかし、ここで疑問が残る。彫像を回復しなくてもすでにアイ達4人は既に友達同士であり欲しい物は手に入れていると。このあたりが本作のキーポイントなのかもしれない。

エッグになるためには死に至るイメージができている人間がいなくてはならない。コトブキの場合、それは田辺なのかもしれない。かつて少女であった田辺はアカたちの手引によってコトブキをエッグ化した。そんな仮説も考えられる。いずれにせよ、そのようにエッグを作り、そのエッグを利用してまた新たなエッグを産むというアカたちの目的はなんなんだろうか。まどかマギカのように宇宙人による「エネルギーの取り出し」というような面倒なSF的な理由付けもなんだ冗長にも思える。いっそうのこと単に、ひとつの生殖行動、エッグという種の生存戦略のように考えたほうがわかりやすい。はっきりいえばそこに良し悪しなどないように思える。一方でそこに巻き込まれる人間の立場でみればがなにかしら抗う必要があるはずだ。

エッグついて別の観点から考えてみる。例えばエッグは物語のメタファーだ。物語から影響を受けた人間はまた新たな物語を作り出す。少女の美しさを書いたテキストは、また別の美しい少女のテキストを産む。それは物語という種の生殖活動であり生存戦略である。しかし、物語を作り出す上で、なにかが犠牲にされているのであれば、そこに対しては救いがあって良いように思える。

今後のざっくりとした結末のイメージ。
オープニング楽曲「巣立ちの歌」のような「少女」や「物語」からのポジティブな「卒業」を迎えるようなそんな終わり方。例えば「少女」が彫像からエッグに変わる前の一瞬の交流、あるいは私達が「物語」の結末を受け取ったその瞬間、アイたちや、観客である我々のなにかを変えて、なにかを失う力を発揮される。そこに「永遠の少女」を超えるなにかの描かれるならば、それこそが「ワンダーエッグ・プライオリティ」という衝撃になって私達の殻を割ってくれるのかもしれない。

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と行った感じに偉そうに今回は書いてみたけれど、残りの話数も楽しみにしたいと思います。ワンエグ面白いね。

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