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記憶

熱い語り手がいないと記憶は継承されないのではないか。

いくらメディアに記録されていても、コンテンツに反応する感性の持ち主がいなければ、メディアの情報は海を回遊するゴミ袋と同じになる。

50代後半になって驚いたある変化があった。
世界が私の常識世界とずれ始めたのだ。

いつもあったものが消えていく。

例えばツタヤである。

私の映画体験はツタヤに多く助けられた。店員さんのポップから隠れた名作映画といくつも出会えた。もちろんパッケージに騙されてC級映画も一杯掴まされたが、それを差し引いても満足できるものがあった。C級映画の分はツタヤの儲けで構わなかった。しかしサブスク拡大と共にツタヤのレンタルは消えた。私にとっての当たり前がなくなったのだ。良いものが消えた。ツタヤのポップにあった熱い語り手はネットのどこにいるのか?

まあこれは時代が変わったと自分で納得できたところもあったが、人物や概念の消失が起き始めたのだ。

例えばフレッドアステアである。

フレッドアステアを熱く語る立川談志がいなくなれば日本からフレッドアステアは消える。立川談志を語る我々がいなくなれば、立川談志も消えるのだろう。

我々は記憶しないのだ。記憶媒体に残っても、それに感じない人が増えれば、無反応な記録は消えていく。記憶が消えて、記録が消える。

写真に残された琥珀色の記録。今の人はもう誰も感じないも知れない。琥珀色のノスタルジーは絶対的な安定度で揺るがなかったのにそれが淡く消えていった。

50代おじさんにとって当たり前の記憶が、記憶する人の減少で消えてしまう。概念そのものが消える。それに気が付いたのだ。

反応し、語る人がいなければ、琥珀色の写真に映るフレッドアステアはもう情報の世界で存在することができない。

あるいは反戦映画である。

あれほど戦争を憎み、悲劇の大作映画を大ヒットさせながら我々は戦争をやめない。未だに戦争を仕掛ける奴もいれば、戦争をやる奴もいる。
映画や文学や学問が徹底して反戦の結論に至ってからの戦争なのだ。おそらく、戦争の深刻な不条理や悲しみに反応できる人が減っているのだ。

このような現象を解明するヒントが意外なところにあった。

東浩紀さんのyoutubeライブでのことだ。
ライブというものは次から次へと参加者が現れる。長時間ライブだと一時間前に喋ったことを平気で質問してくる。さっき喋ったでしょとなる。東浩紀さんはそこで気が付いた。
これは神様も同じだと。次から次へと現れる人間が同じ質問をする。神様、愛とはなんですかっと。神様にすれば2000年前に愛について話したでしょ。今更蒸し返すのか!となる。

我々は記憶を持ち越せない。

だからこそ、人類が生き残るために大切な記憶を次世代になんとか残さないといけない。

何度でも繰り返す世代ごとに現れる人間の質問は永劫回帰に似ている。

だからどこかでフレッドアステアの再来が生まれ突き抜けないといけない。この再来こそ超人なのだ。何度も繰り返す人生を突き破る存在。

例えばバイオリニストの吉村ひまりちゃんである。

吉村ひまりちゃんはバイオリニストの歴史的記憶を抱えて生まれてきた。
そうでないと8歳で老練なロシアの審査員を唸らせて感動のあまり泣かせることはできない。彼らの膨大な視聴体験がそっくりそのまま8歳の少女の手で再現されているのだ。だから泣く。

肉体に記憶を抱えて生まれ出て、この世に再現している。

例えば神様である。

神様も完全な記憶を抱えて再来するかもしれない。そうならないと人類は滅亡するのもよくわかる。

そして我々はその失敗作かもしれない。神様がこの世にメッセージを伝える為に、何度でもこの世に人間を送り出すが失敗してしまう。

記憶を持って生れたはずなのにすべてが思い出せない。行動する肉体はあるが、記憶が足りない。これを人類のゾンビ化といえばいいのか?

私は50代後半でこのことに気が付き、今あなたに話している。

私がゾンビ化する前に。



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