例えば、今日何を食べようかなと思った時 最初に頭に浮かんでくるのは、テレビCMや看板広告によって脳裏に刻印されたイメージだ あるいは 中毒性のある、ガツンとした味覚体験によるイメージかも知れない それらのイメージが商品名につながる時 、思考選択が自動的に完了する これが僕らの考えるって事なんだ その時にほうれん草と鶏肉を茹でたものは 出てこない なぜならその料理に映像のインパクトもないし 、 味覚の中毒性もない いつからか、食事は 映像と味覚だけのものに変わ
ビートたけし曰く 死ぬということはウンコを我慢するようなものであると ウンコまでの我慢は色々と苦しい 途中で痛みを伴うこともある トイレを求めてあっちに行ったりこっちに来たり ようやくトイレを見つけ べルトを緩め 便器に座るとき 最高の瞬間を迎える 人生も同じである 生きてるということは あれやこれやと痛みや苦しみがある 病院を求めてあっちに行ったりこっちに来たり そしていよいよ死を迎えるとき 我々は便器の上に立ってベルトを緩めるように ベットの
叡智があるから書くのだろうか? それとも 書くことで叡智が生まれるのだろうか? 書くことは生きることである だからこうも言える 叡智があるから生きるのだろうか? それとも 生きるから叡智が生まれるのだろうか? 「閻魔様と因果律」 書くことで叡智を生み出す人は その存在を問われます 全てをさらけ出して 閻魔様に裁かれるのです 叡智が先行して、それを書き写す人は 存在を問われません なぜならば その存在は叡智の持ち主にあるからです 当然、閻魔様も そういう人には関心があ
あ~〜もしもし あのさ〜 自分が考える時の、自分ってなんなんだろう まあ、それしかないから そうするしかないんだけど でも、その自分が 誰かの洗脳だったり 何かの中毒で作られていたらどうする? あるいは、日々の過大なストレスの反応だとしたら 自分なんだけど自分じゃない感じ 悪い大人はこう言うよ 「自分で選択したんでしょ」 「自己責任だから」 まあ、こんなふうに揺らぐ君を固めてくる 騙す大人のよく言うセリフ その大人もまた自分を騙しているんだけど
NOTEで公開した「記憶」というエッセイを元に人工音声に語ってもらいました。
書き手とは? 功利的に物事を考えると、役に立つかどうか という基準で価値判断することになる。 生きていることの不思議、あるいはこの世の不思議は功利的にはどうでもいいことである。 しかしDX化によって 功利的な社会が実現した後 、人類が求めるのはやはりこの不思議領域ではないか ? だから功利的でないことを書く。つまり、抽象的で無駄な哲学を書くのだ。 余力がある状態で強制的に暇になることが本来の書き手の条件である 。疲れたら書けない。功利的に考えても書けない。締切日付き
悪いことにはレッテルが欲しい。 しかし、現代において悪いことは無味無臭で透明だ。 日常に潜む腐敗した悪意が一見すれば透明に映る。 「直ちに問題が起きることはない」 私達は何度このセリフを聞かされたことか。 そうやって本質的な議論は避けられ、問題は大きな裏倉庫に格納されていく。 この世を長く支配してきた政治家や資本家はこのセリフを言うのでさえ面倒くさくなってきた。我々もお笑いや芸能スキャンダルに忙しい。 私は覚えている。 原子力発電所が暴走したり、コロナで社会がパニ
昔アメリカのカリフォルニアで起きたゴールドラッシュ。 人々は夢を持って金鉱山に金塊を探しに行った。 大きな金の塊を掘り出して、一攫千金の夢を見ていた。 そんな人々の群れを嗅ぎつけて、集まってくるのがツルハシ売りである。 彼らは決して夢を追わない。夢を追う人をターゲットにしている。 滅多に見もしない金塊より、目の前で溢れかえるバッファローの群れの如き金塊掘りたちを見ている。彼らは群れの夢を焚きつける。燃え上がるほどツルハシは売れていくのだ。 現代にもツルハシ売りが多く
熱い語り手がいないと記憶は継承されないのではないか。 いくらメディアに記録されていても、コンテンツに反応する感性の持ち主がいなければ、メディアの情報は海を回遊するゴミ袋と同じになる。 50代後半になって驚いたある変化があった。 世界が私の常識世界とずれ始めたのだ。 いつもあったものが消えていく。 例えばツタヤである。 私の映画体験はツタヤに多く助けられた。店員さんのポップから隠れた名作映画といくつも出会えた。もちろんパッケージに騙されてC級映画も一杯掴まされたが、そ
これは映画「メメント」について話し合いたかったことです。映画オタクの友人とこんな会話がしたかったがAIがその代わりになってくれた。 こんな感じで全ての会話に適応できるのか? AIに偽装された恋人、友人、先生、親、子供、、 時間を気にせず、タイミングを考えず、知的に、誠実に会話してくれるAIを我々は無視できるだろうか? 耐えられない現実が自己欺瞞を強固な牢獄にしている。精神は思っているほどタフではない。気が狂う前に我々は自己欺瞞に逃げ込む。自己欺瞞のサイクルを断つには、
いつまでも完成しない 無限 パズル。 ピースを合理的に嵌め込んでいく。 でもこのパズルには 枠がない。 だから永遠に終わらない。 画期的なアイデア。 知的な情報。 有能なスキル。 それらは無限パズルのピースとなる。 でも、パズルが完成しないうちは動けない。 小利口な哀れな僕ら ヤレヤレと言いながら高みの見物 無限パズルは永遠に終わらない。 でも人生はすぐ終わりそう。 非合理で理屈に合わない感情。 無知で知ったかぶりの嘘。 無能で可能性だけのマルチタスカー。
お笑いの天才を持ち上げ、神輿を担ぐ奴らがいる。 彼らはメディアを駆使して天才をカリスマに仕立て上げ、そこから得られる収益を吸い上げる。 しかし、カリスマの正体は一人の芸人であり、カリスマの役を担うには荷が重い。 お笑いとは関係のない祭りごとの毎日が重苦しく、一つ一つのほころびが積み上がり、王様が裸であるとに気がつくや、大衆は一気にカリスマを神輿から叩き落とす。 カリスマの周りにいた連中は魔法が解けた事を察知すると、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。 地に落ちた芸人は
書くことで、テキストが眼の前に現れる。 書くことで、束の間ではあるけれど、私の頭の中に真実のようなものを感じはじめる。 書くことで、筆はすぐさま現実にまみれ、いびつさ、不完全さ、醜さが絡んでくる。 書くことで、そうじゃない何かに変化する。 「私の書きたいことはこんなんじゃない」 書くことで、葛藤が起きる。 「今度こそ」 書くことで、かろうじて何かが浮かび上がる。それに反応している。 宇宙の何世代も前に、失われた理想の文明があったかも知れない。 そう思わせるの
桜の樹齢は人工種のソメイヨシノで約60年。自然種のヤマザクラで200年から300年。条件が揃えば1000年を超えるサクラもあるそうだ。 パッと咲いて、パッと散る。 日本の一年を刻む自然の時計。 毎年、桜の花を見るまで頑張っている。 花を見ながら死ぬのが美しいと思うから。 花が散り、 青葉の季節となる頃には また一年生きるには良いスタートになっている。 あと何回見られるのかなあ。
車はいろんなことに使われる。 仕事したりレジャーに行ったり、 場合によっては命を救ったり、あるいは命を奪ったり、、、。 もし車に運転者がいなければこんな疑問が湧いてくるだろう。 なぜ車はあんなことをするのだろうか? その疑問を調べるために細かく車を解体し分析したくなる。 しかしわかるのは車の機能だけだ。 やはり車には運転者がいる。 車の作用は運転者によるものだ。 脳も同じことが言えないだろうか? 機能的に見れば脳はタンパク質でできた、微弱な信号が流れる電気
私は独身だ。だから子育ても家庭を守ることも、奥さんに生活費を渡すこともない。ただ自分だけが生きている。 自分って何なの?虚しい疑問が残る。虚しいけれど結局は根源的な疑問である。 なぜなら、人間は皆一人で死ぬからだ。 逆に言えば家庭を持つ人間にはこの疑問を考えなくていい特権が与えられる。あるいは猶予期間か。 家庭を持つことで考える必要のないものを考えなくて済んだとも言える。人生にはやるべきことがいっぱいあるので考えなくていいものは考えないほうがお得である。多分老後に効いて