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Ⅰ 量産型のヴィーナス

 俺たちは道玄坂の薄暗い裏路地にもう二時間も座っていた。ちょうどスナックの裏手にコンクリートブロックが二つ並べて置いてある。真昼だというのに人が通るのは二時間に一人くらい。それはまるで地上に現れた地下室という趣きだった。
「うち十八でこんな生活やめるつもりだったの。もうすぐ十九ってやばくね?」
 ミキは地面に置かれた缶チューハイの横に煙草をポイ捨てして言った。
「まあムショいるわけじゃないし」
「当たり前」
「お母さんに言われた?」
「うん、昨日夜さ、泣かれたもん」ミキはスマートフォンから俺に視線を移した。「ママ、さすがに可哀想になったわ」
「マジ?」
「ねえ、聞いて。昨日眠剤ぜんぜん効かなくてさ」とミキは黒いヴェロアのパーカーのフードを被った。

 ミキは十五くらいから家出を繰り返すようになり、補導された回数はゆうに三十を超える。童顔だから余計に子どもと間違われやすく、十八になっても頻繁に補導員から声をかけられた。
「また処方された眠剤あげる。まったく飲まないから」
 そう言って俺は煙草に火を点けた。
「おおマジ? ガチ神」

 可哀想か、と思った。牢獄でかせを嵌められやばいとか可哀想とか嘆いていられるうちが華だ。枷を外され、人気のない暗がりでバスを降ろされた囚人を想像してみてほしい。ここはどこで自分は誰かもわからず途方に暮れてしまうに決まってる。剥き出しの自由は人を記憶喪失にする。そっちのほうがよほどやばいし可哀想だ。ミキに惹かれたのは彼女が自由だから、ではない。ミキを縛る鎖が美しく光り輝いていたから。

「ああ、なんかやばい。あたしのカバン貸して」
 俺は膝の上に抱えていたミキのカバンを渡すと、ミキは中身を漁ってカッターナイフを取り出した。
「マジ? ここでやるの?」
「あたし外でやるのはじめてだな」
 そう言って笑うとミキはパーカーの袖を捲り、手際よく刃先で左腕をスクラッチした。刃を辷らせるたびに微かに皮膚の裂ける音が聴こえた。数秒経つと、腕の日焼けしていない白い内側に、いくつかの血の筋が滲む。小さな赤黒い川がスローモーションで流れてすぐに涸れた。
「俺も人がリスカするとこはじめて見た」
 ミキは緊張の大波を乗り切ったというように紅潮した笑顔で「痛みがほしかったの」と言った。
 俺はミキの名もなき助手として自分のカバンからウェットシートを取り出し手渡した。止血するミキを眺めながら、月蝕に立ち会ったような高揚感を噛みしめていると、徐々に自分が置き去りにされたような寂しさが胸に迫ってきた。
「今日は帰る」とミキは俺に血を拭ったウェットシート渡してつぶやいた。

 陽は暮れかけていた。二人は手をつなぎ、人ごみを駅に向かって歩いた。
「キミほんと常識ないよね」
 呆れ顔で俺を見てミキは言った。
「いきなりなに言ってるのかな?」と俺は鼻で笑う。「ミキが常識語るとか冗談えぐいね」
「うるさいよキミ」
「まあミキは真面目だよね。常識は足りないけど」
「黙れ」と笑いながら、ミキはつないだ手と反対の手で俺の肩を殴った。「キミって変わってるよ」

 その日の夜、ミキから連絡がきた。ママにしばらく遊びに行くなって言われた、だから明日は会えない、と。テキストでは返信せず、電話で少し話した。
「専門も学費の無駄だから辞めなって言われた」そんな話をされた。そしてあっさり電話は切れた。「じゃあね」

 その日を境にミキからの連絡は途絶えた。
 どうせ気分屋のミキだ、数日で連絡がくるだろうと高を括っていたが、一週間を過ぎても音信不通のままだった。

 嫌な予感はしていたのだ。これは失恋に該当するのか、判断しかねたが、いずれにせよ毎夜フラッシュバックに悩まされる日々が再来した。やはりミキという鎖がともすれば分解しかねないこの身体をひとつのものとして緊縛きんばくしてくれていた。野に放たれた俺はこんなにも脆い。身体の継ぎ目から夢魔が、今日も。

 まあいい。どうってことないさ。

Ⅱ 夜へ沈む

――なにが見えますか?
――真っ暗でなにも見えません
――わかりました。わたしがこれから十数えて手を叩くとあなたはもっと深いトランスに入ることもできます。

 やや深めに倒した寝椅子に凭れて目を閉じている。

――すでにあなたは深い海の底へ沈みかけています。息苦しさもなく、波がとても心地よく感じるはずです。お母さんのお腹のなかにいるように感じるかもしれません。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……。

 顔の前で柔らかく手を叩く音が聞こえた。

――いまあなたは記憶の最も深い層まで遡っています。なにが見えますか?
――なにも見えません。
――わかりました。時刻は夜なのかもしれません。

 夜、と聞いて不安が押し寄せてきた。あの一人暗闇に取り残される感じだ。身体の芯を鈍い緊張が伝う。きっと俺は無言のまま不安を訴え、先生はそのかすかな兆しをすくい取ったのだ。そして続けた。

――そこはとても居心地のいい場所です。あなたは安らぎに戸惑っているのかもしれません。

 闇に際限なく沈んでいく気がした。身体はどこかに置いてきてしまった。

 ここを訪れる前の記憶、ここがどこで俺が誰でなんのためにここを訪れたのか、最早思い出すことができず、ただ目の前の先生の声、そうだ先生はいま俺の目の前にいて、俺の話を熱心に聴いて、俺に質問という名のヒヨコのように柔らかなことを投げかけ、目を閉じる直前に見た机上のターコイズの花瓶、そこには同じターコイズの花が刺さっていた。それだけは覚えている。

 とても幼いころの俺がいる。一人懐かしい場所をトボトボ歩いている。ここはどこだ。

――でもね、相変わらず視界は真っ暗なままなんだ。

 思わずそう口走る。なぜ懐かしいと感じるのだろう。真っ暗なのに。
 ふいに冷たい風が身体にぶつかった。身体は落ち葉のように宙を舞う。靴底は地面を見失ってバタつき、上下左右もわからなくなる。

 だが時間が巻き戻されたように俺はまた暗闇を一人歩いていた。心なしか、先刻より闇が白んできたような気がする。月も星もない灰色の闇に衣擦きぬずれの音だけがホワイトノイズのように木霊こだましていた。その響きだけが生きてる証のように思えた。

――身体が思うように動かないよ。でもぼくはね、手探りして進んだの、生き延びるためにね、死に物狂いで。誰かがぼくを呼んでる気がしたの。犬の遠吠えかな? きっと月の裏側からだよ。ぼくに歩けって言ってる気がしたの。

 そこで俺の意識は暗転した。
――すいません、少し胸が苦しくなってきて。
 目を閉じたまま率直に自らの状態を伝えた。薄目を開けて先生の姿を確認する。
――大丈夫ですよ。あなたはもうこんなに遠くまで進めたのですから。
 そう言って先生は微笑んだ。
――もう少し進んでみますか?
 俺は声にならない声で応え、ふたたび眠るように目を閉じた。

 暗闇の縁に誰かいる。それは気配を撒き散らしていた。なぜだか涙が溢れそうになったが、泣くのを堪えた。ふいに思う。あの気配は、俺のだ。理由はわからない。でもそうなのだ。

――ああ、あそこにトボトボ歩いているぼくがいる。ぼくが二人。ぼくを見ているぼくは誰?
 暗闇はにわかに青みがかってきた。ぼんやり視界が開けてくる。浮かび上がってきたのは広大な丘だった。俺はこの砂漠のような丘を歩いてきたのだ。
――急いでぼくに追いつかなきゃ。待って。ぼくも行くよ。
 黒砂糖が焦げたような甘い匂いがした。すると、遠くを歩くもう一人の俺のほうから小さな光が漏れているのに気づいた。きっと彼は光源を目指しているのだ。
――ぼくを見ているぼくはお月さまかな? それともお月さまの裏側に住んでいる犬かな?
 俺はそうつぶやき、水を得たように歩みを速めた。
――急げ、こっちだ!
 俺は、いやぼくは、重い身体を引きずって走る。
 もう一人のぼくの背中が目前に見えてきた。近づくほどに光は大きく膨らんでいく。光源が丘一面をモノクロからカラーに塗り変えたと思った瞬間、もう一人のぼくはぼくを振り返ることなく光の海へ溶けた。

 光に照らされた大地は砂漠なんかじゃなく、ピンクとラベンダーの花たちが入り乱れた楽園だった。ただぼくは立ち尽くしていた。
――もう少し。
 もう眩しくて目を開けていることは不可能だった。
 そのときたしかに聞こえたのだ。女の人の声。はっきりとは聞き取れなかったけれど、ぼくを呼んでいる気がした。ぼくは目を閉じたまま走り出す。このまま光の膜を突き抜けるんだ。ぼくは声を振り絞り叫んだ。

 目を開けると先生は黙って微笑んでいた。叫び声にも動じていないようだった。
――どうでしたか?
 先生は訊く。
――暗闇に大きな光が見えました、全身で光を通り抜けました。
 そう報告すると、先生はすべてを肯定するようにゆっくり頷いてセッションをクローズした。
――素晴らしいですね。それでは今日はここまでにしましょう。

Ⅲ 先生と〈第二の手紙〉

 治療は国立駅近くのマンションの一室で行われた。自宅兼事務所とは思えないほど人工的で生活感のないレイアウトだった。それは水族館の模型に似ていた。受付の女性はソフィという名前で、先生のブログによればスペイン系フランス人らしい。どういう経緯でこのクリニックで働いているのかは不明だ。彼女の日本語には母国語の訛りがあった。

 初めてカウンセリングルームのドアを開けたとき、先生が座っている黒光りしたボディビルダーの筋肉のような分厚い革張りのチェアがまず目を引いた。先生は身体をこちらへ向けて軽く会釈した。

 催眠療法家の星野先生は身体は男性で性自認は女性だった。根元までブリーチされたベリーショートに吹けばかかとから崩れ落ちそうな華奢な体型。彫りの深いアイホールを夜明け色に染めるヴァイオレットのシャドウ。そこから同じヴァイオレットの壁紙に視線を移す。この部屋には、やがて訪れるであろう変化を予感させる、不思議な雰囲気があった。

――どうぞ、座ってください。
 先生に促され患者用の小さなチェアに座った瞬間、表通りで激しくクラクションが鳴り響いた。怒りを帯びた音が断続的に部屋の空気を切り刻む。先生は冷静に椅子から立ち上がり、わずかに開いていたベランダの窓を閉めた。季節は八月。部屋には大人しいエアコンの稼働音だけが残された。

 先生がふたたび椅子に座ると、今度は壁から幽かにピアノの音が漏れ始める。先生は少し肩をすくめるようにして立ち上がり、壁に耳を当て、ここは壁が薄いんですよ、と笑った。

 この日、先生となにを話したのか、一部を除き、思い出すことができない。そういえばターコイズの花の名前を訊いた。イキシア・ビリディフローラという珍しい花らしく、魅入られてしまった。いつか自分のうちにも飾りたいな。

 話の内容を覚えていないのは、カウンセリングの最中、べつのことを考えていたからだ。いや、考えさせられたという表現のほうが的を射ているかもしれない。

 カウンセリング内容をキーボードに打ち込む先生をぼんやり眺めていた。とても奇妙な印象を受ける。近くにいながら遠くにいるような。先生の第一印象は女性にしか見えなかった。だが注意深く観察すれば男性だとわかる。骨格でも喉仏でもなく、眼だ。その眼はどこか遠くを、いや遠くから、こちらを見ているような気がした。このとき俺は、いやわたしは、遠い日にある手紙を通して記憶に刻まれた神の声を、そう内なる神の声を拝聴していました。

 それはこんなふうに頭蓋骨の内側で響いていたのです。

 わが眼差し大地に影を落とさん。ある者眼差しに影を有すれども、ある者眼差しに一片の影も有さず。眼差しの影は肉眼にて視えず。さすれば眼を閉じて浮かびては消えたる眼差しの空模様を読むべし。汝そこに台本を見出さん。その台本によりて、汝をして話さしめる台詞および汝の赤裸々なる未来図視えん。男影なんえいあるいは女影にょえいならびに獣影じゅうえいおよび無影者むえいしゃのゆえさえも。

 これは手紙の抜粋にすぎません。しかし脈々と口移しで伝えられてきた秘儀の核心部分に当たるものです。この手紙は当時独り暮らしを始めたばかりのわたしのマンションのポストに前触れなく投函されました。手紙は「落影による性体核の鑑別」と題されていました。

――手紙の冒頭には「落影による性体核の鑑別」と書いてありました。
 カウンセリングも終わりに差しかかったとき、俺は咄嗟に手紙の話を口走ってしまった。
――手紙?
 先生はそう言って目を丸くした。少しのあいだ黙って俺を見ていた。そして視線を脇に逸らし、心なしか冷徹な表情を浮かべた。俺は手持無沙汰になり、思わず自分の口を両手で押さえる。すると先生は表情を一変させ、穏やかにこう言った。
――もしよかったら読ませてもらえますか?
――あの、違うんです。
 先生は俺のひと言を逃さなかった。きっとその手紙に俺の症状を寛解に導く鍵があると直感したのだろう。俺は困惑の素振りを演じながら、ぜひ読んでもらいたいと内心歓喜して、先生があの手紙を読んでどんな感想を漏らすのか興味津々で、自宅のクローゼットや机の引き出しをひっくり返して徹夜で探しまくったが結局見つからず、ひどく落ち込んで催眠のセッションに臨んだ。

 初回のカウンセリングでは幼少期に受けた虐待やフラッシュバックについて話したのだった。こともなげに催眠感受性ありと判断され、次回のセッションで年齢退行催眠をやりましょうと提案されたのだ。

 セッションの予約は午前九時だった。最短の空きがその時間だったので、会社は休むことにした。生暖かい空気に雨の予感が漂う朝だった。

 カウンセリングルームに入室して早々、手紙の紛失について打ち明けると、先生はこう言った。
――内容は記憶にありますか。口頭で話してもらうほうがあなたの生き生きとした感情が伝わると思いますよ。

 幸い手紙の内容については一字一句の漏れなく暗記していた。なんの問題もなかった。だが手紙の内容を口にするに及んで、ある懸念が沸いた。あれは〈第二の手紙〉だ。〈第二の手紙〉について話せば〈第一の手紙〉についてもうっかり口を辷らせてしまうかもしれない、と。これは口頭でなくても同じことだ。〈第一の手紙〉に触れることは我が一族の秘密に触れることを意味する。俺は気後れして、懇願するように言った。
――あの、ごめんなさい。やっぱり手紙の話は次回でもいいですか?
 先生は了承した。

 そして予定通り催眠のセッションを終えた。
 会計のとき、ソフィさんにカタコトの発音で次回の予約はいつにされますかと訊かれた。俺は後日お電話で予約しますとだけ伝えた。手紙の件は心残りだったが、すっかりセッションに満足したため、まあいいかと思った。セッションは今回が最後ではない。いつ終わるかもわからない長い旅かもしれません、先生もそう言っていた。

 どうやって先生のことを知ったのか、上手く思い出せない。
 ミキからの連絡が途絶えた翌日に飼い猫が天国に召され、その数日後に「催眠療法」という言葉が耳の奥に耳垢のように詰まっているのに気づいた。「催眠療法 虐待」で検索して検索候補のなかからやたらと気になったクリニックに予約の電話を入れ、予約当日まで公式サイトのリンクから飛んで先生のブログを読み漁っているうちに「催眠療法」という言葉が耳かきでかき出されたように耳の奥から消えた。

 ブログを読んでいると奇怪な感情が芽生えたのだが、上手く言い表すことができない。この人はすべてが自分と似ていて、同じ理由で信頼に足る人物であると確信した、そんな感じだ。

 確信に打ちひしがれた夜に、ほんとうに夜のずっと深い場所に、更なる確信が地層に杭を打ち込むように加えられた。この人は俺を虐待した母親の双子の姉妹であり、いまは亡き母親の贖罪を可能ならしめる触媒かつ殉教者であり、寄る辺なき幼子の祈りに橋をかけるシヴァの代理人である、という確信。

 それと並行して俺の双子の、いや俺の失われた身体の半分なのではないかという推察も水面下で騒ぎ始めた。すると不思議なことに先生を知ったのはブログなどではなく、彼女あるいは彼はインターネットなどない幼いころにゆりかごから眺めた女性だった気もするし、小学生のときに通学路で交通事故に遭って頭から脳味噌が飛び出た女性を見かけたときに俺の目を手で覆った女性だった気もするのだ。でもあのとき指のあいだから女性を見た。こわいもの見たさで、薄目を開けてだったけれど。真冬のたしか粉雪の舞う寒さのなかで女性の頭からホクホクと湯気が上がっていたっけ。

 いずれにせよ記憶というものはとても曖昧なものだ。いま感じられることを手がかりにするのが幸せへの第一歩だと思う。

Ⅳ 経過報告

 初めて治療を受けた日の夜からフラッシュバックは後景に遠ざかり、代わりに清らかな啓示が前景化し始めた。啓示は言葉というかたちではなく予兆として現れた。予兆を感じ、あるがまま行動すればすなわちそれが正しい道なのだという考えが浮かんだ。

 ところが家路に就くとマンションの部屋は拍子抜けするほどありふれた空気が漂っていて、一晩寝返りを打ちながら過ごすうちに予兆はベッドから左右に零れ落ち、鳥の声とともに目覚めたときにはそのありふれた空気に溶けていた。俺は道しるべを失ってしまったと思った。幼いころデパートで迷子になったときの不安をリアルに思い出した。

 そのときミキから電話があった。
 鳥の声がしたので夜明けかと思いきや、四時四十四分という記念碑的時刻。まだ外は闇だ。まあミキの生活は不規則極まりなく、いつもあらゆる時間に電話してくるから。
「寝てた?」
「いま起きた」
「マジ? 電話でじゃなくて?」
 ミキの声は早朝とは思えないほど輪郭がくっきりしていた。
「うん、なんか電話くる夢見て起きた」
「嘘だ。ほんとかよ? 予知じゃね」
 ミキが電話口の向こうで小さく笑う。俺も釣られて笑ったとき、夜明けの空に燦々さんさんと輝く星に触れそうなほど、神経が激しく毛羽立っていることに気づいた。
「てかさ、二週間なにしてたの? 連絡なくなったから」
「ごめん」
「この二週間ほんとにさ」
「ずっと親にスマホ没収されてた」
 嘘だろ、と思った。だが仮にほんとうでも触らぬ神に祟りなしなのだ。
「ふーん」
 共感するのも癪だし、露骨に疑うのも悪手だ。だから「ふーん」で手を打った。内なる加虐性と被虐性を巧妙に絡め合わせ弾き出された答えだ。大仰おおぎょうに言うならば。
「ねえ聞いて」
 昨日バ先の同僚がバックレたシワ寄せがあたしにきたという話を早口で伝えられた。ミキの愚痴を聞くのはひさしぶりだった。渋谷で会った日から空白などなかったかのように思えた。
「きついじゃん。帰り遅くなったんだ?」
「めちゃめちゃ遅くなったよ。終電だもん」
「なんでこんな時間起きてんの」
「それが寝れないのよ」
「頭冴えてさ、このまま寝ないで出かけたい」とのこと。俺は三時間寝ているが睡眠の質が悪く寝た気がしなかった。だがまあいい。
「池袋行きたい。ピアス買いたいんだよね」
 今日は二連休の初日だった。
「これから用意するから七時にいつものとこね」
 そう言ってこちらの返事を待たずに切ろうとしたミキを呼び止める。
「いや待って、まだどこも開いてなくね?」
「スタバ行こスタバ」
 そう言われて納得したのだった。 
「あーね」

 白蛇のようにベッドから這い出た。身体はまだ眠っていた。洗面所の鏡に映る自分の顔は他人のようだと思った。片目を隠している真珠色の髪を手で除ける。大きく開かれた瞳をまじまじと見つめた。いつもより少し、赤みを帯びていた。

 ところで夢は起きてすぐ誰かと話なんてすれば大抵忘れるものだ。だが、ミキから電話がくる直前に見た夢を明瞭に覚えていた。

 朝もやに包まれながら自ら左耳の軟骨にニードルでピアスを開けた。そこは赤錆にまみれたバラックや木造家屋がのきを連ねる路地だった。縁起のいい鉢割れの野良猫がいたので、ほらこんなに耳が美しくなった、と小粒のダイヤを嵌めた左耳を見せた。首を傾けた視線の先で犬が激しく吠えている。漢字より仮名文字のほうが美しいですよと誰かが右耳に耳打ちした瞬間目が覚めた。

Ⅴ 〈明け方の獣〉の話

 待ち合わせ場所へ行くには早すぎた。だが二度寝は不可だ。消えた予兆を求めてすぐに出かけたいと思ったのだ。上は光沢のある黒地に花柄のシャツ、下はインディゴのスキニーに着がえた。革の裂けたソファーに座り、フランスパンを食べながらホットコーヒーを飲んで、煙草を一本吸った。

 ふいどこからか頭の芯をぎゅっと掴むような重低音が聴こえた。それは建物を這い上がり、窓ガラスを小刻みに震わせた。

 すぐに正体はわかった。マンションのエントランスで交接する巨大な獣の唸り声だ。

 真夏の起き抜けに獣の声を耳にすると懐かしさで胸がいっぱいになる。幼いころ、一家が東京に出てくる前に住んでいた新潟の家には、朝まだき訪れる姿なき獣がいたのだ。当時すでに築四十年の古びた一軒家は、地をとどろかす鳴き声に揺れた。だが獣の姿を見ることは家族から禁じられていたので、電気の紐が揺れるたびに俺は布団を被って獣が去るまで息を殺していたのだった。俺が不安そうに家族の顔を見つめてもただの雨風のような自然の表情じゃないかと言わんばかりに獣の鳴き声は黙殺された。

 〈明け方の獣〉という呼び名を知ったのはある夏の日の夕方、母親が玄関先で交わしていた会話を盗み聞きしたときだ。ひどく目つきの鋭い郵便配達員は、〈読めない手紙〉の配達のため、ほとんど毎日うちへ訪れた。配達員はよく「〈読めない手紙〉で申し訳ないですねえ」とか「今日も〈読めない手紙〉を持ってきましたよ」などと、大袈裟な身振りを交えヘラヘラ笑っていた。ある日母親が「〈明け方の獣〉はどうしちゃったのかしら」と心配そうに尋ねた。配達員は「ちゃんと代わりは努めるので安心してください」と力強く応え、そのまま二人でどこかへ出かけてしまった。

 俺は飽くこともなく、居間から身を乗り出して玄関先の会話に聞き耳を立て続けた。そこで俺が生まれる一年前に、腹違いの姉は〈明け方の獣〉を見ようとして噛み殺されたことを知った。

 母親は行方をくらまし、残された家族は東京のマンションで暮らし始めた。新宿の幼稚園の年長組に編入した。たしかばら組だった。月日は流れて小学四年のときだ。俺は幼いころから頭を離れたことがなかったあの〈読めない手紙〉を読んでみたいと考えるようになった。

 古い箪笥の引き出しや段ボール箱の中身を探した。だが手紙らしきものは一通も見当たらなかった。家族になにを探してるのと訊かれたので正直に答えたところ、おそらく母親が持って行ったのだろうと言われた。家族は〈読めない手紙〉の存在すら知らなかった。
 俺はまだ見ぬ〈読めない手紙〉たちを〈第一の手紙〉と呼んでいた。〈第一の手紙〉は闇の底深く沈んだままだった。

 手がかりは二つある。〈第二の手紙〉と、郵便配達員と母親の会話を記録したノートだ。そしてそれらの核心にはいつも〈明け方の獣〉がいた。

 そんなことを考えているあいだも〈明け方の獣〉の鳴き声は断続的に続いた。
 物の少ないがらんとした部屋だ。スタンドライトに照らされた壁際を見て思う。ふいにカーテンのすきまから陽光がしたたる。おかしい。これは陽光ではない。まだ夜は明けていない。すると光は急速に膨らみ始めた。

 俺はエレベーターに乗っていた。家を出た記憶が飛んでいる。あの光はきっと、治療のときに見た光と同じものだ。

 一階が近くなると〈明け方の獣〉の唸り声はほとんど地鳴りのように響いた。だがドアが開くと、エントランスにいたのは獣ではなく二人の男女だった。柱に凭れて抱き合い、激しく舌を絡め合っていた。俺は状況を理解することができず、少しのあいだ呆然とそれを眺めていた。

 だが近寄るとそれは男女ですらなく、柱と天井のすきまからペンキを垂らしたように流れ落ちる鮮血だった。周囲にはむせ返る血の匂いが充満していた。床にできた真っ赤な水溜まりが徐々にこちらの足下へ迫ってくる。

 そのときスマートフォンが震えた。ミキからの電話だ。
 俺は一呼吸おいてから電話に出た。
「もしもし」
 雑音のなかから浮かび上がるようにミキの声が聞こえた。
「ねえ、いまどこ?」
 血の流れはもう靴底を浸していた。床一面に広がる血溜まりを見ながら「うち出たとこ」と言った。
「充電器持ってる? あたしの壊れてさ、電池残量もやばいんだよ」
「充電器持ってるよ。てかいまどこ?」
「近所の公園。飲んでる」
「飲んでるのかよ」と苦笑しながら、この会話が目前の光景を夢じゃないと証明しているのだと考えた。「まあいいや、七時にね。気をつけて」
「はーい」
 電話を切った。

 いつのまにか獣の唸り声は止んでいた。俺は気配を殺すように屋外へ出た。空は白み始めていた。路上には人っ子一人いない。早朝とはいえ、あまりにも静かだ。歩き出すとしばらく赤い足跡が地面に残された。大通りに出て異変に気づいた。一台の車も走っていなければ、車のエンジン音も、野鳥の鳴き声すらしない。

 どうやら世界との交信が切れたらしい。つまりかりそめの世界とサヨナラしたのだ。そして剥き出しの世界はこんなに不気味で空っぽ。

 突如鼓膜をつんざく唸り声が空一面に響き渡った。〈明け方の獣〉だ。

 母親と郵便配達員の会話によると、〈明け方の獣〉は当時住んでいた一軒家ほどの大きさらしいのだが、ほんとうのところはわからない。犬小屋ほどの大きさかもしれないし、高層ビル並みに巨大なのかもしれない。人間を噛み殺してお終いではなく、その首を鋭い爪で刎ねてから死体をなぶるのかもしれない。

Ⅵ 追跡、そしてヴェール

 唸り声に吸い寄せられるように〈明け方の獣〉の出没地点を目指した。迷いはなかった。高台の神社裏手から異様に強い気配が流れてくる。

 参道にたどり着くと、長い石段を登り、境内を横切った。本殿裏の北門を通り抜けた瞬間、アスファルトを軋ませる重低音の鳴き声に襲われた。音圧で身体ごと弾き飛ばされそうだ。俺は両手で耳を塞ぎながら進んだ。

 神社裏手には黒々とした樹木が狭い路地を覆い隠す並木道があった。木下闇こしたやみに入ると昇りかけた太陽の淡い光が梢のすきまから零れた。唸り声が押し寄せるたびに葉陰が震えた。ここに〈明け方の獣〉はいる。

 急に視界が開け、青々とした雑草の生い茂る庭が現われた。塀や柵はなかった。庭の奥側には廃墟のような建物が見える。雑草を踏みしめ、おそるおそる庭へと進む。すると台風の目に入ったように獣の唸り声と気配は消え失せた。

 打ち捨てられた木造平屋の一軒家。そこには外観が把握できないほどおびただしいつたが層をなして絡まり、かろうじて格子の嵌められた小窓と開閉式のドアを確認できるだけだった。
「誰かいますか」
 ドアの前で尋ねた。もちろん返事はなかった。

 突如けたたましく走り回るような足音が室内から響いてきた。心臓は早鐘はやがねを打つ。

 俺は小窓のすきまからそっとなかを覗いた。
 女だ。
 薄暗い廊下の奥から白いワンピース姿の女が振り向くようにして俺を見ていた。長い黒髪のあいだから、大きくて、どこか疲れた目。その憎しみを湛えた目と目が合った瞬間、俺の身体は固まり、頬に寒気がした。息を呑み、小窓から後ずさる。

 するとまた足音が室内から響いた。それは激しく、鬼気迫るほどになり、バタンとドアを閉める音とともに途絶えた。静寂。俺はふたたび小窓のなかを覗いた。女はいない。

 俺は思わず玄関扉のノブに手をかけた。だが施錠されていてびくともしない。

 俺は〈明け方の獣〉に誘われここへやってきた。幼いころ畏怖しかつ魅了された狂おしい鳴き声。血にまみれた噂に震撼してもなお、そこに予兆を感じずにいられなかった。だが、ようやくつきとめた〈明け方の獣〉の棲み処で、予兆は雲散霧消うんさんむしょうしてしまった。

 この廃墟を虱潰しらみつぶしに探ってやる。ここで譲歩すれば母親の背負う十字架は未来永劫ついえることはなく、子々孫々に託されていくほかないのだ。

Ⅶ 破壊の季節

 ふいに鳴き声が聞こえた。〈明け方の獣〉ではなく猫の。振り向くと一匹の黒猫が雑草をすり抜け駆け寄ってきた。丸い目をした艶やかな毛並の猫。少しだけ緊張がほぐれた。黒猫は俺の足に小さな身体をすりつけた。俺がしゃがんで頭を撫でると、黒猫はすぐにきびすを返し、俺の来し方へと歩き出した。
 思わず「待って」とつぶやき後を追った。「待ってくれ」
 黒猫と並んで歩いていると、神の御使いに誘われているように思えた。夜が明けても無人のままの街を行け。聖なる黒猫とともに。

 そしてたどり着いたのは商店街にある資材置き場だった。入口には門もパーテーションポールもない。敷地内に侵入すると、すぐに壁際に立てかけてある解体用ハンマーが目についた。ヘッド部分が艶めく赤に塗装された真新しい状態の。気がつくと足下にいたはずの黒猫の姿はなかった。

 解体用ハンマーを拝借して廃墟に舞い戻る道すがら、他人の家に侵入してもバレないのではないかと思った。そうこれが夢でなければ。

「誰かいますか」ともう一度、今度は先刻より大声で尋ねた。すでに夜を融かした陽が小窓の内部を静かに照らしていた。返事がないのを確認してから、ハンマーを高く構え、一気に振り下ろした。鈍い音とともに分厚い木製のドアに小さな穴が空く。そこをとっかかりにねじ込むようにハンマーを打ちつけた。

 八発目で枠を残して空っぽになったドアに手をつっこみ施錠を解いた。

「お邪魔します」
 そう言って土足のまま敷居をまたいだ。

 室内は少しかび臭いが、思ったより荒れ果てていなかった。先刻まで外から覗いていた小窓から光が映写機のように暗闇を切り開いていた。女の姿があった廊下奥へと進んだ。ふと足下が辷るのに気づいた。
「血?」
 囁くように問うた。

 薄闇に紛れて赤黒く生臭い液体が床を伝って流れていた。廊下奥左のドアからだ。そこへ向かって一歩進むたび、靴底がピチャピチャ血溜まりを弾く音が聞こえた。

「ウウ……ウウ……」
 ドアの向こうから幽かに人の声がする。俺は立ち止まり、耳をすませた。
「ウウウウ……」
 女の声だ。それは次第に長く、激しくなる。俺はただ立ち尽くしていた。
「ウウウウ……ウウウウ……」

「ウウウウ――アッ」
 その声は耳元で絶叫するように近く響いた。
そしてふいに止んだ。

 数秒前の絶叫が遠い過去になったような静寂が現われた。さほど驚きもしない自分が不思議だった。俺は思う。ここですべてにかたがつくのだと。だがすべてとは、かたがつくとは、なにを指すのか言葉にできなかった。

 そっとドアノブに手をかけようとしたとき、またしてもスマートフォンが震えた。ミキからだ。
「もしもし」
 電話口はしんとしていた。
「どうした? どこにいる?」
 微かに息づかいが聞こえた。
「ねえ」とミキは話し始めた。「すぐきて」
「うん、七時にはちゃんと池袋に」
「きてよ、いますぐ」
 ミキの様子がおかしい。
「暇してんの? しゃあねえな、ちょっと待って」
「なにを待つの? てかなにコソコソしてんの?」
 俺はここにいないミキを真っすぐ見つめているかのように話した。
「大事なとこなんだ」
 そう、大事なところのはずだった。
「あたしとその女どっちが大事なの」ミキの声に怒りの色が差した。「女といるんでしょ」
「ちがうけど」
「じゃあすぐきて」
 俺は〈明け方の獣〉を諦め、引き返そうと考えた。それが正気の選択なのだと。だがその考えを口にすることができず、ただ立ち尽くしていた。
「もういいよ。あたしたち別れよう」
 ミキがそう言ったとき、ひとりでにドアが開いた。
 そして電話は切れた。

 ドアの先にはほとんど光が届いていなかった。たぶん雨戸が閉まっているのだろう。スマートフォンのライトを点けた。床一面の血の海に足を踏み入れ、ライトで室内を検分した。ふいに壁際の姿見に自分の全身が映った。俺はいまどんな顔をしているのか? そもそも俺は俺なのか? ライトの反射を避け、まじまじと自分の顔を眺めると、瞳が異様に赤くきらめいていた。それは眼球というより、太陽の欠片を閉じ込めたサファイアのようだった。

 部屋の隅にはクイーンサイズのベッド。血はベッドの真下から流れている。そして、木造廃墟に不釣り合いの豪奢ごうしゃで真新しい天蓋に目を奪われた。垂れ下がる金糸の装飾が施された白いレースのドレープ。床に接した布が養分のように血を吸い上げ、懸命に白を赤に染めようとしていた。

 レースを除けると、女が眠っていた。寝息が聞こえないのは人形が眠っているからなのだと考えた。女は胸の中心で両手を交差させていた。そっと手首に触ると脈拍がない。やはり女は死んでいた。

 スマートフォンでスキャンするようにライトをスライドさせた。上半身はもちろん、足にもわずかな汚れすらついていなかった。みずみずしい生命力にあふれた肌。目元のメイクも非の打ちどころがなかった。思わず彼女の顔を撫ぜた。眼差しから憎しみは消え失せ、安らかだった。

 彼女が〈明け方の獣〉? いや、ちがう。
 俺は暑さでめまいがするほどだったが、彼女はどこか寒そうに見えた。ライトを頼りにクローゼットから大きめのひざかけを見つけて遺体にかけた。

 小窓から光が差し込むダイニングキッチンへ戻り、ポケットから出した煙草を咥え、火を点けた。煙を吐きながら、接近によって消失した〈明け方の獣〉について考えた。それはいかにして召喚すべきなのか?

 ふいに食卓を囲むようにうずたかく積まれた新聞紙が気になった。日づけを見ると十年以上前のものばかりで、埃にまみれて変色していた。火を点けたらよく燃えそうだ。

Ⅷ それは小さな祭典として

 吸い終えた煙草を卓上の灰皿に投げた。
両手で顔を覆い、指のあいだから天井を仰ぐと、手に石鹸の匂いが残っているのに気づいた。懐かしい、家庭的な匂いだ。胸の奥から破壊的な衝動が螺旋状に駆け上がってくるのがわかった。
 俺は両手で食卓を持ちあげ、食器棚へ向かって放り投げた。扉のガラスや食器の割れる音が静寂に飛び散った。そして新聞紙を壁際と窓際に沿って城壁を築くように並べ、端の一部にライターで火を点けた。

 少しずつ新聞紙の壁を炎が伝うのを眺めていた。

 カーテンを駆け昇る炎が天井に燃え移ると、一気呵成いっきかせいにその嵩を膨らませた。木材がギシギシ軋み、分厚い煙の化け物が迫ってきた。俺は身を翻し、口を手で押さえながら足早に廃墟の外へ逃れた。

 世界中の誰も知らない気高い任務をやり遂げた気分だった。なんて誇らしいんだろうと思った。少し離れた位置から廃墟を振り返る。

 小窓の磨りガラスに揺れる炎の影が映っていた。すきまから室内で踊り狂う炎がうかがえた。俺はポケットから二本目の煙草を出して咥え、火を点けた。それからどれくらいのあいだその光景を眺めていたか覚えていない。ガラスが割れる音がして、窓枠から火柱が昇った。青空に黒煙柱が立った。蔦に覆われた炎は容易く炎に包まれた。オレンジ色の炎は建物を脱ぎ捨てようともがいているようにも見えた。

 それは夜明けにひっそりと行われる小さな祭典だった。
 この光景を忘れないようにしようと思った。なぜそう思ったのだろう? はっきりとした理由はわからない。ただ、ここからやっと自分の人生が始まるような気がしたのだった。

 やがて廃墟は輝きを失いただの炭になった。
 誰かのろしに気づいたのか、遠くからサイレンの音が聴こえる。とっくに火が消えた煙草の吸殻を投げ捨て身を翻した。もうミキとの約束の時間は過ぎてしまったと思った。

 来た道を戻ると、街に人や車の往来があることに驚いた。駅前のあわただしい朝の人波に遭遇した途端、急速に眠気が押し寄せてきた。改札でスマートフォンの時刻を確認した。六時四十分。
「なに?」と小声でつぶやいた。
 ミキの電話で目覚めてから二時間も経っていないなんて。〈明け方の獣〉に誘われ廃墟にたどり着き、黒猫に誘われ解体用ハンマーを手にして、最後は火を放った。そして長い時間その場に立ち尽くし、奇妙な廃墟の終焉に立ち会ったはずだった。

 思わずあたりを見回した。足早に行き交う乗客たちにはちゃんと実在感があった。とにかく七時には間に合いそうだ。ミキはたぶん来ないだろう。それでも待ち合わせ場所に行ってみようと思った。

Ⅸ もうひとつの「夢」

 約束の時間を少し過ぎた。
 池袋東口はまだ半分眠っていた。陽の光がまぶしくて日陰から日陰を渡り歩いた。
 交番の横には厚底を履いて地雷服に身を包んだミキがいた。

「相変わらず早いよね。気がついたらうち出ちゃった?」
 声をかけてそう言った。
「気がついたら出ちゃった」
 俺たちは並んで歩き出した。
「酒抜けた?」
「いやまだ抜けとらん」
「そっか」
 俺はほんの少しだけ勇気を振り絞って切り出した。
「さっきの電話さ」
 俺はじっとミキの顔を見つめた。ミキは不思議そうな顔をした。
「さっきの電話がなに?」
「いや充電器持ってきた」
「ああ、充電器ね。まだいい。あとで貸して」
「俺に」カラスがガードレール沿いのゴミを突いていた。俺たちが近づくと街灯のてっぺんへはたたいた。「すぐきてって言ったとき、どこにいたの?」
「なにそれ?」
 俺は酔いが醒めていくような気がした。そしてミキから目線を逸らして何度か頷いた。
「夢見てたんだわ」
「やば」

「ねえ、スタバこっち?」と言ってミキの肩に手をやった。
「こっちじゃないじゃん」
 互いに歩きながら話に集中すると目的地を忘れてしまう癖があった。
 身を翻したとき、ミキはふらついて俺の肩に手をかけた。彼女はいつもプレーンなローファーを履いていたが、今日はピンクのリボンが施された厚底のローファーだったので足運びが覚束なかった。
「今日メイクやばくない? 変じゃない?」
 思い出したようにミキは尋ねた。
「変じゃない。なに、シャドウの色?」
「それもある。あと眉の色」
「いつもよりそっちのほうがよくね?」ミキの耳に目をやる。今日はピアスをしていない。ピアスホールの数は三つ。「それより新しいピアス、今度はちゃんと開けないとな」
 ミキは先月、歌舞伎町の雑居ビルのエントランスでニードルを用いて四つ目のピアスホールを開けたが、化膿してしまって、結局ファーストピアスを外した。ピアスホールはもう塞がりかけていた。
「それな」
 そう言って耳の軟骨を撫でた。
「まだ足りない。もっともっと増やしたいんだ」
 ミキは傷つけたり治癒したり、穴を開けたり塞いだりして、生のリアルな手触りを感じようとしている気がした。だがそれはミキのやりかたで、俺はほかのなにかを必要としていたのだ。

「放火」
 ミキがそう口にした瞬間、俺は思わず立ち止まった。
「さっき待ってるあいだ消防車めちゃ通り過ぎてすごかった。なんか近くで放火あったんだって」
「近くってどのへん?」
「わかんないけど、池袋みたい」またミキは不思議そうな顔で俺を見た。「なんで?」
「いや俺もさっきサイレンの音聞いたから」
 俺の街ではないとわかって安心したのだった。
 俺たちはスタバで時間を潰してからデパートで買い物をし、昼過ぎには疲れて帰宅した。

Ⅹ はじめての告白

 今日は待ちわびていた二度目のセッションだ。俺はある決意を固めてクリニックへやってきた。〈第二の手紙〉についてはもちろん、〈第一の手紙〉、そして〈明け方の獣〉についても洗いざらい話してやろうと思ったのだ。

 今回のセッションは寝椅子を浅めに倒し、ディスカッション形式で幕を開けた。俺はまず時系列に沿って〈明け方の獣〉の出現から話し始めたのだった。伏し目がちに、ときどき身振り手振りを交えながら。

――獣はぼくを呼んでいました。ぼくを食べるためでしょう。ぼくは不思議と食べられてもかまわないと思いました。矛盾するようですが、獣を殺したいとも思いました。
――とても率直な意見ですね。いいですよ。
 先生は俺の心情を肯定した。
――ただ奇妙なことに、獣を追って最後に出会ったのは女性の遺体でした。
 俺は少しく沈思黙考し、先生に驚かれる覚悟で告白した。
――ぼくは彼女を家ごと燃やしました。ライターで火を点けて。
――素晴らしい。それは芸術的なイメージですね。
――いえ、先生、これはイメージではないんです。ぼくは本当に放火してしましました。
――わかりました。その日を特別な日と呼びましょう。獣は女性に化身したのかもしれません。

 広大な空を横切る一羽の鳥の影に似た静けさが訪れた。するとふいに壁の向こうからピアノの音が漏れてきた。サティのジムノペディだった。優しい木漏れ日がたゆたいながら光の泡をこしらえそれが膨らんでは消える感じの。

 先生は尋ねた。
――ではあなたにとって燃やすことはどんな体験でしたか?
――少し長くなるんですが。
そう前置きして言った。
――幼いころのぼくはいつもぼくを捨てた母親と郵便配達員の会話を盗み聞きして、当時のぼくは読み書きができなかったものですから、その多くは意味がわからなくても、そこで交わされた会話を絶対忘れないように繰り返し反芻して、小学校に入ってから漸く、拙い文字をパズルのように当て嵌めてノートに書き記すようになりました。

 ピアノの調べは俺の声を遮るほど大きくなった。俺は一旦話を止め、小さくなるのを待ってからふたたび話し始めた。

――その内容たるや、血にまみれた一族の歴史というほかありません。ぼくの母方の家系を四代遡ると〈明け方の獣〉に突き当たるそうです。さっき先生は、獣は女性に化身したのかもしれない、と仰いましたよね? およそ百年前、〈明け方の獣〉は女性に化身して人間の先祖と交わりました。つまりぼくは〈明け方の獣〉の末裔です。

 先生は顎に手を当てながら頷いた。

――ぼくたちの一族は例外なく〈明け方の獣〉の鳴き声を聞いて育ちます。奇妙だと思いませんか? その姿を直接見た人間は誰もいない。真夏のうだるような夜が白み始めるころ、どこからか鳴き声がする。凄まじい爆発音のような叫びが布団ごと内臓を圧迫する。いたたまれず物見遊山で外に出ようものなら最後、です。一族とその関係者で噛み殺されて肉の塊にされたのは十五人。内訳は大人一人、子ども十四人です。だから代々大人たちは、子どもたちに鳴き声に誘われて獣の姿を見に行ったりしてはいけないと固く禁じてきました。ではなぜ〈明け方の獣〉の血統であるぼくたち一族は殺されなくてはならないのか?

 子どものころ密かにノートに記し続けていた〈明け方の獣〉の秘密は、みだらな罪のように箝口令が敷かれていると思っていた。だがこうして告白してみるとそれはいわれなき罪であり、俺は騙されていたのだと気づいた。

――〈明け方の獣〉は双子を出産した直後に夫を亡くし、親族ともども離散してしまったそうです。彼女はあわれにも獣の姿に戻り、流刑者のように不毛の土地を漂流しました。それでもやはり子どもを忘れることができず、ふたたび一族の前に現れるようになったんですが、双子の片方も幼くして病気で亡くなっていたんですね。そしてもう片方と会うことも一族の猛反発によって叶いませんでした。彼女がぼくたちを食べようとするのは決して憎いからではないんです。一族の血から漂うわが子に似た匂いを嗅ぎ取り、体内に摂取することでその魂を身籠りたいと考えているんでしょう。

 先生は夢見るように頷いた。

――だから遺体を燃やしたのは弔いの感情からです。

 先日、俺は〈明け方の獣〉の消失点、つまり女の遺体を燃やした。そこには理由のわからない必然性のようなものがあった。だが思いがけず弔いという言葉が口を衝いたので沈黙してしまった。あれは百年前から続くわが一族の因縁に影響を与える儀式だったのか? 俺の沈黙に歩調を合わせるようにピアノが止んだ。
 そこで先生は絶妙なタイミングで訊いた。
――弔いを終えて現在はどんな気持ちですか?
――解放された、という感じですね。
 反射的に答えたのだが、すぐさま解放されたのは俺の半分にすぎず、残りの半分は行方知らずのまま世界のどこかで眠っているのだ、と考えた。

Ⅺ 過去も未来もみんな腕浮揚に溶けた

――あの、先生。
 俺は視線を真っすぐ先生に向けた。
――どうぞ、仰ってください。
――ぼくが二十歳の誕生日を迎えた日、当時住んでいたそよ風が吹けば崩れそうなアパートの郵便受けに一通の手紙が投函されました。差出人不明の封筒には三つ折り便せんが二枚入っていました。罫線けいせんのない青空を透かすほど薄い便せんはぎっしり小さな文字で埋め尽くされていて、そこには人間の本性というか、より本質的な性別を知るための秘儀が書かれていたんです。そして手紙は、とても謎めいた文章で締めくくられていました。

 性体核は落影のみにて鑑別されるにあらず。眼差しが大地に落としたる影は性体核のおよそ半分にすぎず、さすれば残り半分は如何にして知るべきか。われその鍵を大いなる欲望に身を捧げたる精神に託すべく、〈読むことあたわずの手紙〉に書き記せり。しかるに〈読むこと能わずの手紙〉、これ砂と消えたる運命さだめなれば、汝尋ねるべきは精神のみずうみを束ねたる母にして父たるの師であると知るべし。

――それが〈落影による性体核の鑑別〉ですか?
――そうです。この手紙が〈第二の手紙〉です。
――とても興味深いですね。では〈第一の手紙〉はどうされたのでしょう?
――郵便配達員が毎日のように母親に届けにきた数百通におよぶ手紙を、一括して〈第一の手紙〉と呼んでいます。〈第一の手紙〉は〈読めない手紙〉なんです。というのも郵便配達員がそう言っていたのと、手紙そのものを一度も見たことがないからです。
――ちょっと整理しましょう。あなたにとって、その〈第一の手紙〉とノートに記録された会話はどう関係するのでしょうね。
 先生の洞察力には舌を巻いた。問題の核心はそこなのだ。
――ここからは推測になります。母親と郵便配達員の会話はいつも一族の秘密をめぐるものでした。でも二人は肝心な話題を避けてる気がしたんです。そこにはなにか口外できないタブーがある。郵便配達員は〈第一の手紙〉を通じてそのタブーを母親に伝えていたのだと思います。そしてぼくが二十歳のときに届いた〈第二の手紙〉は、〈第一の手紙〉の内容をまとめたもので、その差出人はおそらく郵便配達員です。
――つまり〈第一の手紙〉と〈第二の手紙〉の内容は同じであり、どちらもあなたの一族の秘密を補完するものであると?
――そうです。それよりぼくがお尋ねしたいのは、手紙の内容について先生がどう思われるかなんです。

 先生は優しそうにも冷酷そうにも見える表情をしていた。だが先生の表情は変わっていないのだ。先生はここにいながらほとんどここにいなかった。ここにいる先生は俺の投影を映すだけの鏡だ。

 先生は微かに頷いてから話し始めた。
――あなたは本性を知ると仰いましたが、どうやって知るのでしょうね。いいですか、大事なことをお伝えしましょう。頭で知ることは有益にちがいありませんが、もっと有益なことがあります。それは身体で知ることです。
――「彼の師」というのは先生のことだと思いました。
――残念ながらその手紙に書いてあるのはわたしのことではありません。発想は素晴らしいと思いますよ。しかしもう一度考えてみてください。〈読めない手紙〉を読む必要があるのか。だって読めないのでしょう?

 たしかにそうだ。俺は〈読めない手紙〉を読もうと独り苦しんできたのかもしれない。ただ、それを指摘してくれる誰かがいなかっただけなのだ。

 先生は両手の指先を自分のみぞおちのあたりからこちらへ向けて言った。
――あなたはすでにトランスに入っていて、忘れるべきことを忘れ、思い出すべきことを思い出すやりかたを知っているのかもしれません。そうしているとあなたの腕は上がり始めるでしょう。少しずつ上がり続けて、顔の高さまで上がったとき、それらを知るのかもしれません。

 少しのけぞるような態勢から俺の両腕はにわかに上がり始めた。見えない誰かにターコイズの天井へ連れ去られるのではないか、とすら感じた。視線は宙をたゆたうままにまかせていた。

――とてもいいですね。わたしが十数えて手を叩くと、あなたはトランスから目覚めて、すっと手を下すことができます。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……さあ、ゆっくりと、こちらへ戻ってきてください。

 両腕は軟着陸する未確認飛行物体の脚のようにそっと膝の上に下りた。

――どうでしたか?
――腕が上がっていくときどこか遠くへ行ってしまいそうな感じがしました。
――よかったですね。あなたの無意識はあなたが気づかないうちになにかを学んでいるのでしょう。より快適なところへ運んで行こうとしているのかもしれません。それでは今日のセッションはここまでにします。

 結局俺は自分の「性体核」なるものを知ることができず、それと深い関係にあるはずの〈明け方の獣〉に出会うこともできなかった。だがセッションを終えたとき、過去への拘りも未来への憂いもきれいさっぱり溶けてしまっていた。

Ⅻ Time After Time

 廃墟への放火はメディアで取り上げられなかった。あれから二週間が経過したが、黒焦げになった廃墟やそこから発見された身元不明の遺体についての話題は、ついぞ耳目じもくに触れることはなかった。

 世界の片隅でひっそり行われた祭典。それはこの手で演出されたのだ。だが輝かしい罪の衣装を着せられるでもなく、相応の賞賛を浴びるでもない現状が不満だった。

 休日の早朝、くだんの神社裏手を抜けて廃墟があった場所を訪れた。

「嘘だ」
 俺は目を見張った。
 焼き払ったはずの建物は重要文化財に指定されたように手つかずのまま残されていた。それはまるで執拗によみがえる蔦の怪物のようだと思った。

 腕や背中の筋肉には解体用ハンマーでドアを破壊したときの感触がまだリアルに刻まれていた。女の冷たく柔らかい手首の感触もそうだ。

 そのとき電話が鳴った。ミキから。
「いま暇?」と訊かれ、答えを返す前に雑音が電話口を遮った。雑音は少しのあいだ続いた。「ちょっと待って」一瞬、ミキの声が帰ってきた。
「聞こえる?」
「いまは聞こえる」
「遊ばない?」
「いいよ」
「今日は寝たの?」
「寝た」またミキの声と雑音が入れ替わった。雑音のすきまからミキの声が聞こえた。「ねえ」
「あたし量産より地雷のほうが絶対性格いいと思うんだ」
 いきなりそう言われた。ミキは量産のときもあれば、地雷のときもあった。どうせ酔っているのだろうと思った。
「なんでそう思うの?」
 ふたたび雑音に電話口は占拠された。
「ごめん、場所変えてまたかける。待ってて」
そう言ってミキは電話を切った。

 鳴き声がした。振り返ると二週間前の黒猫だ。
 こちらへ寄ってきた猫を抱き上げ、朝陽を避けて廃墟の斜め向かいのアパートの植え込みに腰かけた。
 猫を地面に降ろすと煙草に火を点けた。廃墟に向かって煙草を掲げ、先端から昇るもやのような煙と、あの日廃墟から朦々と昇った煙を重ね合わせた。

 このとき気づいた。
 ありふれた風景が生命に満ち溢れて見え、草木やアスファルトや煙草の匂いが失くした嗅覚を取り戻したようにリアルに感じられた。気持ちは過去にも未来にも開かれながら現在にいて、すべてを許そうとしていた。

 生い茂る青々とした雑草に陽光がキラメクのをしばらく眺めていた。そして立ち去ろうとした瞬間、廃墟から地鳴りのような鳴き声が響いた。

明け方の獣〉だ。

 尽きることのない予兆を手に入れるために俺はもう一度行けなければいけない。きっとこの眼球は赤々と輝くだろう。俺は息を殺して廃墟へ向かった。




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