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レッド・ホット・ポーカー Red Hot Poker

 シオンは空っぽな気持ちでピンクのノイズキャンセリングヘッドフォンに指先を触れた。しばらく深呼吸して、やがて目を閉じる。視えた。

 ナツキさんは、誰かから逃げている。後ろを振り返りながら、夜道を駆けていて、これはスニーカーの足音かな。でも追いつかれて、叫ぼうとするけど口を塞がれてしまう。そのまま強引に車に乗せられて、どこかへ連れ去られた。
 「何色の車ですか?」
 母親が悲壮な面持ちで尋ねる。
 俺は目を開けて答えた。
 「紫です」
 不安そうな母親の顔。
 シオンはまた目を閉じて、所持品に触れている指先だけに感覚を集中させる。
 「都内ですね」
 「ほんとうですか?」
 「ええ」
 しかも近い。見覚えがある風景だ。駅前のセブンイレブンの裏手。線路沿いに進むと大きな鉄塔がある。その区画。

 「特定できました。それでは、よろしいでしょうか。これから向かわせていただきますね」
 「あの……わたしも一緒に行くのは?」
 そうくると思った。母親なら当然だろう。悲痛な訴えだが、無理だ。
 「申し訳ありません。お気持ちは察するに余りあります。ただ、ご契約の際に同意いただいた通り、ここから先は危険を伴います。ご家族の方であっても、同行いただくことはできかねまして」
 それだけではない。この仕事は非公開だ。
 依頼を受けるのは、信頼できるアテンドに仲介されたクライアントからだけであり、審査を通過してパスコードが発行されるまでは任務開始とはならない。

 どこかにサイキック探偵事務所と看板を掲げているわけではないが、すべてのクライアントが噂を頼りにここへやってくる。仕事の九割が「所持品に触れると持ち主の情報を感知できる能力」を用いた失踪事件の解決だ。残り一割がシオンと同類サイキックが絡んでいる事件。稀に今回のように失踪事件を兼ねているケースも含まれる。
 サイキック教会によれば国家の法は便宜的なものにすぎず、サイキックのアイデンティティに根差した個人の法が至上の法である。そこには汝殺すなかれという規定はなく、簒奪されし名誉回復のためなら容赦なく殺すべしと謳われている。
 つまり仕事のすべてが甚大な機密情報なのだ。依頼を完遂したら、依頼自体を関係者の記憶から抹消するところまでが仕事だ。

 シオンさんはいままで何人殺したんですか? そう助手の山口イチカに訊かれたことがあった。意外と少なくて二人かなあ、と何の感情も交えず答えた。殺したのは俺を虐待していた母親と内縁の夫だ。俺は単なるモノ扱いだったし、搾取されていたのだ。だが記憶は薄れて具体的な出来事は何も思い出せない。当時は関係者の記憶を抹消するなんて発想はなかったが、滑らかに事故として処理された。

§

 クライアントの娘は、この事務所と同じ沿線にあるマンションにいる。しかも禍々しいオーラを放つサイキックと一緒に。サイキックの名前は葵ユウ。三十六歳。そこまで絞り込めている。

 電車でたった三駅の道のり、シオンは乗車したドアの近くに立ち、手すりを掴むイチカと向かい合う。イチカは訊いた。茶色いフレームの眼鏡から、好奇心で覗き込むように。
 「対象はどうでした?」
 「対峙してみないとわからない部分もあるけど」
 誘拐されたのは約一年前。夜道でクライアントの娘さらった人物の顔は暗くて判然としない。痩せているが、がっしりとしていて、背が高く、男だとわかる。何より纏っているオーラが異様だった。
 「やばいかな」
 駅の改札を出ると、すぐにセブンイレブンと鉄塔が見えた。
 この時点から戦闘も辞さない覚悟と、そうなったときの準備をしておく必要がある。

 イチカに促し、防犯カメラの位置と向きが記載された白黒の地図を出してもらう。ダークウェブで、有料会員だけが閲覧できる犯罪者御用達の地図サイトからプリントアウトしたものだ。

 対象の部屋に辿り着くまでのあいだに設置されている防犯カメラは、マンション内のものも含めて二点。住宅街の電柱に設置されているカメラの向きは駅側だ。
 「少し遠回りだけど、川沿いの道を通って行こう」

 二人が反対側から回り込んで電柱に近づいたとき、目的のマンションはもう目と鼻の先だった。
 「これは予想以上だね」
 白い外壁の何の変哲もない低層階マンション。それは破壊的なオーラを発する石の箱だった。内側は広大無辺の地獄に通じている。シオンとイチカはしばらく呆然と建物を見つめていた。
 「いますね。ちょっとこれは手に負えないかも。この仕事、断りたいです」
 イチカは自分の二の腕を擦りながら青ざめた顔で懇願する。
 「ほんとは山口さん帰っていいよって言いたいけど。新村さんも連れてくればよかったかなあ」

 シオンは人通りの途絶えたタイミングで気怠げに電柱に設置された防犯カメラへ向けて手を翳す。バン、と鈍い爆発音がして、カメラが震えた。
 「ええ、やっぱり行くんですか? 帰りたいよ、やだよ」
 「マジで? そっかあ、じゃあ帰ろっか」
 「ほんとですか?」と困り顔で両手を合わせて安堵しかけたイチカに、シオンは「嘘」と言い放つ。
 「ひどい、やだ、絶対無理だよ、行きたくない」
 イチカは駄々をこねる振りをする。
 「鏡」
 そうシオンが促すと、イチカはあらためて地図を確認してからマンションの正面付近へ向けて腕を伸ばし、掌を広げた。掌から触手のようなピンクの光の束が放たれる。触手の先端は大きな手形とつながっていて、それは空中に留まった。
 「どうぞ」
 イチカの合図。
 シオンは半透明のピンクの手形へ向けて手を翳す。先刻と同じ、バン、という爆発音がマンションのエントランスから響く。正面からカメラを破壊するしかないときは、姿が写り込まないように、こうして空中に浮かせた手形から力を反射リフレクトさせる。

 はぁ、とため息を吐いたイチカは、眼鏡の奥から見透かすような眼光でシオンを見上げ、こう尋ねた。
 「シオンさんはサイキックの名誉とか、守ろうと思ってます?」
 シオンは意外そうな顔をして、少し沈黙してから答える。
 「山口さんはそんなこと考える?」
 「いや、全然。でも、シオンさんは何でわざわざサイキックと関わる仕事をするのかなあって。危ないですよね」
 「それを言ったら山口さんもね」
 「わたしは直接戦ったりしないですもん」
 「直接戦わなくても十分危険だよ。何だろうね、お金かな。あとは暇潰し」

 対象は四階の五号室にいる。エレベーター内の防犯カメラを避けて階段で部屋へ向かう。小さな建物の内部を、建物ごと巨大な靴で踏み潰されそうな予感を抱きながら進んだ。
 「四〇四号室」
 何の変哲もない扉。シオンもイチカも、この扉が開いた瞬間死ぬこと以外イメージできなかった。シオンは、死人のように蒼ざめたイチカの顔を見て、俺たちはすでに死んでいて現実が死に追いついていないだけなのだ、という奇妙な考えが浮かんだ。

 ふいに六号室の扉が開き、住人の中年女性が外出する。二人はすれ違いざまに笑顔で挨拶した。隣人は日常世界に生きている。なぜサイキックだけがこんなに死の匂いに敏感なのか、シオンはエレベーターに乗り込む女性を眺めながら思う。
 「山口さん、外で待ってる? 五分経っても連絡なかったら、新村さんと紺野さん呼んでもらって」
 「行きます」
 「うん、でもさ」
 「シオンさん、死んじゃいますよ?」
 イチカの稀に見る職務に対する真剣さ。少なくともシオンはそう解釈した。一人の犠牲者も出さずに生きて帰ると決心する。
 シオンはイチカを見ずに軽く頷いてインターフォンを押す。するとインターフォンが開閉ボタンであるかのように、音もなく機械的に扉が開いた。

 「月」
 そう言ったのはイチカの声だった気がする。
 俺たちは広大な月面に立っていた。少しのあいだ、自分が誰で、なぜここにいるのか考えたが、判然としない。不安を感じていない自分が可笑しくて、たぶん酒に酔っているのだろうと考えた。空を見上げると奇跡のように星が瞬いていて、思わず「綺麗だ」と口にした。
 次の瞬間、右手の親指の第一関節、それ以外の指の第三関節までが飛んだ。
 鋭い痛みを感じたが、どこか他人事のようだ。
 まじまじと自分の右手を眺めると悲しい気分になった。血は流れていない。思い出したように左にいるイチカを見ると、目を閉じて眠っている。
 「山口さん、起きて」
 イチカに声は届かず、スローモーションで背後に倒れようとしている。左手で支えようとした瞬間、左腕ごと飛んだ。シオンは衝撃に顔を歪める。イチカは結局仰向けに地面に倒れた。

 だがシオンは我に返ったように、攻撃すべき敵を探さねば、と考えた。指の欠損した右手に力を溜めて、周囲を見回す。

 月世界の彼方に青い地球が浮上しかけている。
 さらさらと音が聴こえ、闇に広がる星の海が歌っているように思えた。
 遠くに微笑みながら手を振っている女が見える。さらさらという音はそこから響いていた。徐々にこちらへ近づいてくる。
 あの顔は、見覚えがある、遠い遠い日に。
 「母さん?」
 母親は、白いワンピースの若々しい姿で、黙って俺の前に立っていた。
ねえ、何しにきたの? もう遅いんだ。とっくにさ。
 「近づくな」
 俺は後ずさる。
 母親は笑みを絶やさず、両手を広げて俺を受け容れようとした。

 どんなに辛かったかわかる? だから殺したんだ、あのときも、こうやって。
 シオンは右手に溜めた力を母親の頭部目がけて放つ。
 だが次の瞬間、母親の立っていた位置に自分が立っていて、自分の攻撃が自分に向かってきているのに気づいた。反射的に身体を逸らして致命傷を免れたが、側頭部に裂傷を負ったシオンは気を失って倒れた。

 イチカは誰かに呼ばれたような気がして目を覚ます。
 深呼吸しながら身体を起こし、横たわるシオンを一瞥した。シオンの身体の欠損に気づいて、両手で口を覆う。イチカは思い出したように慌てて上着のポケットをまさぐった。スマートフォンの時刻を見ると、インターフォンを押してから一分ほどしか経過していない。

 イチカは広大な月面を見晴るかして、あることに気づいた。敵がいないことだ。ここに敵はいない。

 イチカは迷わず人差し指を自らのこめかみに当てた。
 バチッという音とともに電流が走る。イチカは激痛と衝撃で倒れたが、気を失うことはなかった。仰向けで目覚めたイチカの目に天井のシャンデリアが映る。シャンデリアの灯りが不思議な懐かしさを喚起したが、それを拒絶して半ば放心状態で身体を起こす。

 ズレた眼鏡を直しながら、まじまじと部屋を眺めた。
 真昼でも閉じられた紫色のカーテンから透ける陽の光。調度品はすべてアンティークなのに傷一つない。ヴィクトリア朝風のソファーに凭れた青いシャツの男、男に凭れて眠るアリスのような少女。

 狼のような眼をしたその男と目が合った瞬間、きっと「動くな」と言うだろうと思った。
 「動くな」
 ほら。
 「動いたら殺す」
 男の紋切り型の言葉を聞いて安心した。悪魔だと思っていた相手は人間だったのだ。
 イチカはクスリと笑うと、男の指示を無視して手を翳す。それとほぼ同時にイチカの首は胴体を離れ床に転がった。窓にぽつぽつにわか雨の当たる音。それはやがてサーという強い雨の音に変わる。イチカの首は雨ざらしにされたようにいつまでも小刻みに揺れていた。

それはイチカに与えられた夢だ。

 男が夢を見ているあいだ、イチカは眠り続けるナツキを背負い、気を失っているシオンの手を引いて、部屋の外へ逃れた。

 突如轟音に襲われ呆然となる。水の音。
 三人は小さな箱舟に乗り込んで急流を流されていた。内側から扉を開けた瞬間発動する罠だ、イチカは思った。嫌な予感がして舷窓を覗くと、この先で川が落下している。たぶん断崖だ。落ちたら夢の淵を越えてしまう。夢の淵を越えたら、もう目覚めることはない。
 「はぁ」
 もう一度あれをやらなきゃいけない。気が滅入る。
 「シオンさん、起きれますか?」
 イチカは乱暴にシオンの肩を揺する。
 シオンは著しい不快を感じながら目覚めた。見下ろすイチカの険しい表情。
 呼吸を整え視線を左右に往復させる。
 「わかった」
 状況を理解したシオンはイチカに支えられながら身体を起こした。
 わたしたちはまだ室内にいる。男が夢の枷から脱出するのは時間の問題だ。わたしの物理攻撃では跳ね返されるのは目に見えている。箱舟が落下するまであと十秒を切った。

 イチカが自分のこめかみに人差し指を当て電流を流すと同時にシオンは目前に手を翳す。

 「バン」
 シオンの声とともにソファーで眠る男の身体が朱色の絵の具が溶けるように弾けると、一瞬で蒸発した。部屋には何の痕跡も残さずに。
 以前、俺が人体を破壊する光景を見て、イチカはレッドホットポーカーと呼ばれる花に似ていると言った。へえ、どんな花? と訊くと、スマートフォンで画像を検索して見せてくれた。松明みたいな花だね。空っぽの心を温かく照らしてくれる灯火。
 「山口さん、大丈夫?」
 イチカは床に座り込んで頭を抱えている。
 「まだ夢の中なんてことないよね?」
 「あり得るから怖いですよね」
 「それやばいって」
 「電流当ててるので大丈夫だと思います、ちゃんと痛いので」

 あれ? とつぶやいて、横たわっていたナツキが目を覚ました。そそくさと状態を起こして立ち上がろうとする。
 「待って。まずソファーに座ろう」
 そう言ってシオンはナツキを誘導する。
 ナツキは背を丸めて落ち着かない様子だ。隣りに腰かけてシオンが切り出す。
 「ぼくたちはお母さん、ユミさんから依頼されてここにきました」
 ナツキは強張った顔で目を見開いた。
 「去年、ナツキさんは誘拐されて、ずっと男に監禁されてましたよね? それで警察に捜索願を出しても何の進展もなくて、ぼくたちは探偵なんだけれど、お母さんが訪ねてきたんですよ、でももう大丈夫」
 「あの」
 ナツキは拳を固く握りしめシオンを見た。
 「わたし、家に帰る気はないので」
 イチカがシオンに目配せする。シオンはナツキと呼吸を合わせてから、言葉を選び簡潔に尋ねた。
 「帰りたくないのはどうして?」
 ナツキは俯いたままこう答えた。
 「虐待」
 シオンとナツキは同時に顔を見合わせる。
 直接肌に触れるのが早いが、もちろん適切ではない。ナツキの首にはヴィヴィアンウェストウッドのネックレスがかかっている。
 「そのネックレス、少しだけ見せてもらっていい?」
 ナツキは訝しげに首を傾げながらもネックレスを外し、シオンに手渡した。
 「ありがとう。すぐ返すね」
 シオンは目を閉じる。すぐに視えた。

 ナツキ、母親と、内縁の夫? 殴る蹴る、煙草の火、身体中の傷、真冬、家出、孤独、リスカ。

 シオンは目を開けてナツキを見る。
 「お母さんはいま一人暮らしみたい。半年前に病気してね、手術したんだって」
 「だから何ですか?」
 ナツキは顔を上げずに少し声を大きくして反問した。

 ナツキから虐待の記憶を消す? 母親と二人暮らしなら虐待される可能性は低いだろう。ナツキはもうすぐ十八だ。何かあれば親元を離れることだってできる。ついでに母親から記憶を削除するなら? でも一体どんな記憶を消せば、彼女が虐待しないと言えるのか?
 イチカが呼びかけた。
 「ナツキちゃん、辛かったね」
 「葵さんはどうしたんですか? あの人にずっと夢を見せてもらっていて。楽園にいた、みんなが許し合ってる、平和で、平等で、裕福で、綺麗で、可愛い世界にいたの」
 ナツキは夢見るように言う。
 「葵は死んだわけじゃないよ。でもここにはいない」

§

 結局、いつものように俺たちの記憶だけを消した。
 ナツキが一年間葵の部屋にいた記憶も、母親と内縁の夫に虐待された記憶も残る。もちろん母親が虐待した記憶も。

 相変わらず不安定な空。今日も事務所の窓を雨の雫が伝う。こんな天気の日は、いつか触れた人の記憶が鮮明に浮かんで、濡れた窓に万華鏡のように映し出される。俺は、自分の記憶に誰かの記憶が流れ込んで浸されたり、それに反発したりしながら、雨が止むのを待ってる。
 「ウチらは警察でもなければ児童虐待の専門家でもないし、逃げ道だけ伝えて、あとは当事者に任せたらいいんじゃないかな」
 「もう大人ですしね」
 「そう」
 イチカに、わたしが深く眠ってるあいだ、葵の夢の中で何があったんですか、と訊かれた。
 「ああ、母親が出てきてね」
 「お母さんと何か話しました?」
 「いや、殺そうとしたけど殺せなかった」

 どこか煮え切らない幕引き。
 ナツキが見た楽園が少し気になった。彼女はこれから退屈な日常に耐えるしかないのかな、そうイチカがつぶやく。
 「でも」
 何も変わらないようでも、人は日々新しい何かに生まれ変わっている。真夜中の闇を抜けて綺麗な夜明けに出会えたとき、いつもシオンは思う。結局何も変わらないのかもしれないけれど、それもまたいい。

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