「君たちはどう生きるか」を君たちはどう解釈するか(ネタバレ考察)

君たちはどう生きるか、というのは宮崎駿からの映画を観た人全てへのメッセージなのだと思った。あえて解釈の幅を持たせたストーリーと心情の吐露が少ない主人公は、ファミコン時代のRPGのように観客の没入感を増し、それぞれが物語を考えることによってタイトルが生きてくるように感じた。

これはその中の一つの解釈として書いた感想と考察だと思ってください。

この作品の主人公は宮崎吾郎さんなのだと思った。
鈴木敏夫という、友達でもなく、嘘ばかりついて、腹の底が知れない、でもどこか憎めないプロデューサーがこっちに来いと誘うのだ、ジブリのアニメ監督という世界へ来いと。

謎の塔から広がるジブリの定番ファンタジーの世界は、世界に誇れる遺産であり、利益を産む金とブランドである。
しかしの過去の作品群というのは、生きてはいない。過ぎ去った過去であり、遺産であり、死者なのだ。
最初に出てくる厳重に封印された墓所は、宮崎駿監督と切磋琢磨し、肩を並べジブリを支えてきた高畑勲監督の作品群やその存在そのものの暗喩と感じた。
ジブリという名前に群がりそこでお金を稼ぐペリカンという存在が、宮崎吾朗監督に迫る。
「ああいう過去の大作のような作品を作れ」と。
しかし、過去のジブリの世界は断片だけでも美しく魅力的で人を惹きつけるが、宮崎駿と高畑勲が作ってきた、先のない世界なのだ。
主人公の宮崎吾朗はその世界に引き摺り込まれただけで、創造主ではない。
あの世界の創造主は宮崎駿自身であり、彼が作った世界には、利益を求めるペリカンや、過去の作品を愛し欲する物言わぬ亡霊のような観客が蠢き、静かに終わりに向かっている世界を満たしている。

ファンタジーパートで主人公を助ける力強い存在がいる。
作中の屋敷住まいの老婆たちは歳はとっている様に見えるかもしれないが、ジブリを支えてきたクリエーターであり、その技術力の高さで今もジブリブランドを支えている。現実パートでもファンタジーパートでも、主人公である宮崎吾朗監督を支え見守る存在である。

創造主である宮崎駿監督は宮崎吾郎監督に期待している。
彼はいいもの作る。と。
だからこのスタジオジブリを彼に渡したいと。
でも自分が作った積み木に、ただ新しい積み木をはめるだけではダメだと、
それに気づいている吾郎監督に期待している。

でも、アニメ業界なんて逃げてもいいのだ。それが回廊にある無数のドアであり、ジブリに関わっていった人の数だけ用意されているように感じた。
このファンタジーパート、スタジオジブリという世界はたくさんの登場人物で構成されているのだから。
主人公に示された元の世界に帰れるドアの向こうには、主人公を探す、父親としてのただただ息子を心配し守ろうとする親心がある。辛かったらやめてもいいよ。そういう肉親としての父親像を感じた。

主人公を導くヒロイン的な母親や連れ戻そうとした母の妹の存在はしっくりくる例えが見当たらないが、主人公の期待であり、希望であり、禁忌を犯すと絶望に変わるもではないだろうか。その存在は彼に寄り添い、導き、主人公を突き動かす原動力になる。うちに秘めたクリエイターとしての自分の投影なのかもしれない。

そして、大量のインコ。
この映画を観ている間、なぜこんなに鳥の大群が出てるのかと考えていた。
鳥の大群は作品の受け手であり、宮崎駿監督から言わせると烏合の衆だという比喩なのかと思った。
受け手は自分たちでは作品を作り出さないのに、監督を好きに料理して食べようとする。厄介な存在ながら、どんどん湧き出し続ける制御不能の集団なのだ。
しかしスタジオジブリを世界を構成しているものの一部で、決して無くしたりできない。勝手に住み着き好き勝手に生きている、面白いものを食べたいという欲の化身であり、一番素直で憎めない存在なのかもしれない。

ジブリの中核とも言える宮崎駿がいる階層に、足を踏み入れることができたインコが感動して泣いているの姿は、宮崎駿監督に会えた一般人のファンの反応だと思う。宮崎吾朗監督の作品に低評価をつけたファンは、宮崎駿監督にこう言う「これからもずっとジブリとして面白い作品を作り続けろ」と。

しかし最後に世界は崩壊する。
宮崎駿監督自身の残された時間は、どんなに願っても有限であり、本人もそれを自覚している。だから主人公に委ねる。他者がどんなに真似て作ろうとしても、同じものは作れないし、まず積み木を組み立てられる才能を持っている人間はそういないのだ。
宮崎駿監督は問う。
宮崎吾朗監督よ、スタジオジブリに関わる重要なスタッフや関係者たちよ、そして沢山の烏合の衆たちよ。
「私がいなくなったら、君たちはどう生きるのか?」と

エピローグ部分には、戦争が終わって東京に戻ることになった。と言う言葉だけで、後日談や主人公の気持ちを語る部分がなくあっさりと終わってしまった。
それは、宮崎駿監督がいなくなった後の世界なんて、自分はその世界を知る由もないけれど。というユーモアのある突き放しではないだろうか。

宮崎駿監督の作品は「おわり」と言う言葉で締めくくられるが、今回はその言葉がなかった。
それはこの映画が物語のおわりではなく、新しい世界の始まりを意味してるからではないだろうか。


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