毒親のお手伝いロボット

小学生の頃から親の勤め先で手伝わさせられてた。最初は小学校入学して1ヶ月で静岡から名古屋に引っ越しさせられて物凄く寂しくて母親の妹の義理の両親が経営する店で仕事中の母親のところに行ったら、じゃがいもをネットに詰める手伝いをさせられたのが始まり。
それが3年生の頃には「やっといてね」って1人で放置されてやらされるようになった。最初のうちは店にフルタイムで働く母親とは別にパートのおばさんもいた。でも母親はパートの人に作業を頼むのが苦手な上に自分のやり方じゃないと我慢できない。それでいつの間にか、昼間のパートのおばさんはいなくなり、寂しくて店に来ていただけの私が無給で母親のいいなりに仕事する要員としてパートのおばさんの代わりをさせられるようになった。
仕事は野菜のパッキング、野菜や缶詰、調味料、インスタント食品、お菓子、ジュース、日用雑貨の値札貼り、ラベルの向きを揃えての品出し、前陳。
24時間365日営業してたから盆と正月に市場が休む時は野菜のパッキングがしこたまあった。「やっといてね」の一言で意識がもうろうとしながら沢山の野菜を何箱も1人黙々とパッキングしてた。それでも無給だった。バックヤードは暖房もなくて寒かった。
サボるとか楽とかする前から、母親はバイトをサボったり楽してお金もらうような人たちの悪口を常々私に聞かせていたから、そんなことできなかった。無給だったけど。
1.5Lのジュースのケースを頭の高さまで積み上げるのが凄く辛かった。脳がスカスカになる感じがした。当時は気付かなかったけど、準備体操も整理体操もしなかったし、腕の裏側や体側の筋肉が無理に力を加えたせいで縮こまってたんだと思う。中学生の時には腕が重くてずっと上げていられなくてヘアアレンジができなかった。
商品を棚に並べている時お客さんが通ると通路にへばりついて避けなきゃいけなかった。お母さんと一緒に居たいだけなのにこんなに一生懸命働かされてその上まだ邪魔者にされなきゃいけないのって気持ちにしかならなかった。お客さんにいらっしゃいませとかありがとうございますなんて言える気持ちにはならなかった。

こんな調子で中学生の時も無給で店の手伝い。一度「給料出そうか」って言われたけど、もらわないのが当たり前で散々こき使われてきて何をいまさらって気持ちで断わってしまった。
いい高校に入っても手伝いは続いた。給料はもらえるようになったけど、職業選択の自由は奪われたまま。大学生になってもそうだった。高校生の時も大学生の時も自分の好きなことでアルバイト出来ていたら人生全然違ってた。

小学生をショービジネス以外で働かせるのって労働基準法違反だと思うんだけど、親の下とはいっても経営者は叔母の舅だし。斜め前に交番があってお巡りさんも買い物に来てたけど、全く助けてもらえなかった。学校の先生も家庭訪問の時に店に来たりしてたけど全く助けてくれなかった。

歳とってから母親に文句言ったら「昔は丁稚奉公ってのがあったんだ」って。いや、それなら親もとではなくちゃんとしたところで社会人として育ててもらえるし。そんな制度、とっくに労働基準法だか青少年保護育成条例で禁止になったんちゃうの? ← そんな舐め腐ったことする親に礼を尽くすとかないし。礼を尽くされる価値を保持してない奴に礼を尽くす必要は無い。法令違反な上に子供にこれだけ働かせておきながら家事もろくにしなかった親。その上テストで70点で「悪いね」って。いつも100点取れるように頑張ってた。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?