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【既刊紹介5】ある朝、目が覚めると、

※本記事には一部性的な描写がございます。


 小説サークル「時速8キロの小蝿」の既刊紹介も本記事でひと区切りとなります。
 五冊目は冒頭を「ある朝、目が覚めると、」で統一したうえで主要人物に何らかの変化が生じるという形式を共有し、あとは各々自由に執筆しました。
 

 本書は第十一回文学フリマ大阪(2023.9.10 開催)にて頒布されました。
 以下に各収録作からの試し読みを掲載します。
 また、既刊はすべてBoothにて書籍・電子の両形態でご購入いただけます。



軽佻浮薄、天を衝く。 ゐづみ

小市民が悪党として覚醒するきっかけから、その末路まで。

 ある朝目が覚めると、身体が鈍感になっていた。
 意識が覚醒しつつある中、目を開けるより先に、彼女にフェラチオされていることが分かった。
 彼女は気分屋で、起き抜けに機嫌がいい時に限って、こうして俺のペニスを咥える。こちらから頼むと、決まって断られ、その日一日中へそを曲げてしまう。
 こうして朝から奉仕されることは当然嬉しいのだが、常に性事の主導権を握られている状況はあまり面白くない。セックスをするために、いつも彼女の顔色をうかがわなければならないのは、フェアな関係とは言い難いだろう。
 別れたいと言うほどの消極的な感情はないが、このまま積極的に交際を続けたいという気持ちもほとんどない。
 付き合って半年、惰性の二文字が俺の頭に浮かんでは消えてを繰り返している。
 ただ、いざ事が始まれば、その手管に骨抜きにされ、これを手放すのは惜しいと感じてしまうのだから、単純なものだ。
 目を開けば、一心にペニスを頬張る彼女の頭頂部が見える。
 口吻を露骨に湿らせ、下品なほど唾液の音を響かせていて、その甲斐甲斐しさには感じ入るところがある。これをされてしまうと、頭の中がセックスのことしか考えられなくなり、一刻も早く組み伏して彼女の中に突き挿れたくなる。
 その筈なのだが、今朝に限っては、嫌に冷静に状況を観察している自分がいることに気が付く。
 普段なら快感に身を任せて、二も三もなく彼女に跨ってチンパンジーよろしくヘコヘコと腰を振っている頃なのだが、どうにもその気配が感じられない。ペニス自体は硬く勃起しているようだが、それを通じて快感がうまく伝わってきていない。
 まるでコンドームを百枚くらい被せているかのように、刺激が遠く彼方に隔たっている。
 性器を相手に委ねるということは、急所を明け渡すことであり、刺激に対して最も過敏な個所をほしいままにさせるという行為が信頼の証となる。セックスにおける得難い快感とはそれに起因するものなのだと、個人的には思っている。
 しかし、今の自分のペニスは、どうにも急所という感覚がしない。なんなら、今この場で彼女にそれを?み千切られたとしても、平然としていられるのではないかという予感がしている。
 妙な体験だ。人並みに性には奔放だという自覚があり、こと彼女とのセックスに関しては、今まで不満足を抱いたことはなかったはずだから。
「ちょっと、顎疲れてきた」
 気付けば彼女は、ペニスから口を離し、左手でそれを扱きながらこちらを見ていた。俺が起きたことに気が付いたのだろう。
 上体を起こし、彼女と視線を合わせる。
 すっぴんの彼女ははっきり言ってブスだ。
 メイクをしている時と比べて三十%くらいの大きさしかない目や、シミまみれで道路みたいに荒れた肌や、蜜が中に入っているタイプのみたらし団子のように潰れた鼻や、どこかに置き忘れたのか綺麗さっぱり無くなっている眉等、とにかく顔の造り一つ一つが女性のすっぴん顔のテンプレートめいていて、全然かわいくない。
 メイクをしている時の彼女は見違えるほどかわいく、夜にセックスをするときは積極的に顔を見せるようにいつも言い聞かせている。
 逆に今日のような、起き抜けにすっぴんの彼女とするときは、なるべく顔を見ないようにしていて、それでも彼女のテクニックのおかげで気が散ることなく容易に射精することができていた。
 しかし、鈍化した感覚と、妙に冴えた思考のせいで、まじまじと彼女の顔を見てしまい、改めてブサイクな顔だなと感じ入ってしまう。
 そのことを意識すると、否応なく調子も下がっていき、先ほどまで硬く屹立していたペニスも、俄かに首を垂れ始める。
「は、なにこれ」
 自分の左手の中でパートナーの性器がみるみる活力を失っていき、彼女は信じられないといった顔でそれを見ている。
 普段から穏やかな気性の女性ではない上、特に自尊心が高く、己の尊厳を傷つけられた時には猛烈な怒りを発する。
 これまで、彼女とのセックスで射精しなかったことは一度もない。彼女のテクニックはそれほどまでに洗練されていて、経験値の高さが伺える。彼女自身も自負があるようで、それを踏みにじられたと感じているのか、見たことがない程鋭い眼光でこちらをねめつけている。すっぴんで細い目元だからこそ、その視線にはナイフのような鋭利さが宿っている。
 左手にも力を込めているようで、半ばやけくそ気味に、強く乱暴に柔らかくなったペニスを扱いている。しかし、扱かれているモノは「いやいや」と機嫌を損ねているように、ぷらぷらと首を左右に振るばかりで元の勢いを取り戻す気配は一向にない。
 これだけぞんざいに扱われれば、痛さで悲鳴を上げて然るべきなのだろうが、これもまた妙なことに、痛みまでもが酷く迂遠に伝わってくる。ファウルカップ越しデコピンの方が、まだ刺激的なのではなかろうかと思うほどだ。
 いよいよこれは致命的と言える。
 自分は不能になってしまったのだろうか。
 心当たりは、無くはない。
 鮮烈な体験というものは、その人の人生観どころか身体感覚まで変化せしめるということなのかもしれない。昨夜の出来事とその時の感覚は、俺の脳裏にべっとりとこびりついている。
「ふざけんなよ、おい」
 憤懣やるかたない彼女は、尚も千切れんばかりに俺のペニスを扱きつつ、射貫くような視線を寄越し続ける。能面めいたすっぴん顔には表情筋の活動が如実に表れていて、般若もかくやという恐ろしさを湛えている。
 気まずさに目を伏せると、それがさらに癪に障ったようで、こっちを見ろと言わんばかりに、ペニスをグッと握り締める。本来であればのけ反るほどの痛みが全身を走るのだろうが、やはり生憎そよ風程度の刺激しかやってこない。
 ついに耐えかねた彼女は、遊ばせていた右手に万感の怒りを込め、握り拳を俺の顔面めがけて放った。
 癇癪を起すと暴力に訴えるのも、彼女の悪癖だ。
 パンチが眼前に迫る。
 その瞬間、脳裏で火花が弾けるようなイメージが浮かぶ。後頭部にじんわりとした熱さが広がる。
 途端、股間に激痛が走った。
「ッ―――――ヅァ!」
 今まで不能だったペニスが突如としてかつての正直さを取り戻し、潰さん限りに込められた彼女の左手の握力が、俺の脳を直撃する。
 声にならない悲鳴を上げながら身体をのけ反らせたことで、彼女のパンチは空を切った。
 これまで蓄積した刺激のすべてが一挙に押し寄せたみたいだった。あまりの痛さに、本当に使い物にならなくなりそうだ。涙目でのたうち回り、意味の分からないペースの呼吸を繰り返すことで、何とか痛みを和らげようとする。
「え、うそ……大丈夫?」
 彼女は、俺の尋常じゃない痛がり方に、とんでもないことをしてしまったと、慌てて労わりの態度を示しだす。原因はこちらにあるわけで、彼女にとっては理不尽な反応に思えるだろうが、こちらとしてもどうしてこんなことになっているのかわからず、とにかく今は構わないで欲しかった。
 しかし、痛みに暫く蹲っていると、後頭部で弾けた熱さが徐々に失われていき、それに伴って再び身体の感覚が急激に遠のきはじめる。そして気付けば、ものの数秒で痛みは嘘のように全く消えてしまった。
 全身麻酔めいた不能の身体取り戻し、起き上がると、彼女は気色悪そうにこちらを見ていた。先ほどまでのたうち回っていたのに、ぴたりとその動作を止め、急激に冷静になっていく様が奇妙で仕方がない様子だ。
 思考は元通り冴え冴えとしていて、ためしに自分のペニスを指で弾いてみても、案の定痛みはほとんど感じない。
 昨夜の出来事と、たった今自分の身に起こった事象を対照して、分析し、俺はある一つの解を得る。
「ごめん、左手で手コキしながら、右手で俺の顔殴るふりしてみて」
 その解が正しいのかを検証のためのプレイを要求をすると、彼女は更に奇妙なものを見る目でこちらを窺いだす。
「お願いだから」
 朝に性に関する要求をしてしまうと、彼女の気分を損ねてしまうことは分かっていたが、確かめずにはいられない事象が発生しているので否応ない。それに、インターバルを挟んだとはいえ、未だセックスは継続中なのだから、多少は受け入れてくれてもいいだろう。
 しかし彼女は、機嫌を損ねるというよりも、心底意味が分からないという様子で、眉間にしわを寄せるばかりだった。
 恐らく彼女の目には、パートナーが急に変態趣味に目覚めてしまったようにしか見えていなくて、まぁそれも無理もないことかと納得し、検証は自分自身で行うことにした。
 ベッドの上で胡坐をかいて、右手で自分のペニスを扱く。やはり刺激は果ての果てにある。
 そしてその状態で左手で拳を作り、それを目の前まで勢いよく引き寄せる。そのまま殴らないように鼻先で寸止めすると、再び脳裏に火花が散る。すると、ペニスは刺激を素直に受け取りだした。
 取り戻した感覚は、数瞬の内に彼方へ行ってしまうため、自分の顔へ寸止めパンチを繰り返しながら、普段と変わらない要領でオナニーに耽っていると、ものの数十秒で射精した。
 飛び散った精液がシーツを濡らす。ちなみにここは彼女のアパートだ。
 快感と疲労感に深く腰を落としながら、確信する。
 今の俺にとっては、顔面をめがけて飛来する拳だけが、刺激を誘発する唯一の事象なのだ。

 昨夜は、過ごしやすい気候の夜だった。
 彼女のアパートの近くには古墳がある。
 全長約八十メートル程の前方後円墳で、五世紀後期から六世紀前期にかけて築造されたものとされており、国の史跡に指定されている。
 決して大きな古墳ではないがその上から望む街並みは、なかなかに煌びやかで目を引く。
 仕事終わりに、コンビニで九%のチューハイのロング缶二本と幾つかのつまみを買って、散歩がてらにその古墳まで行って、夜景を肴に一人で一杯と洒落込むのが、週に数度の楽しみになっていた。
 俺の仕事は大体夕方十八時頃に終わり、夜職の彼女はその時間にまだ帰っていない。鍵は預かっているので、彼女の部屋に先に入っていてもいいのだが、一人でいても暇を持て余すばかりで、面白くもない。
 自分のアパートには週に一度帰るか帰らないかで、というのも彼女のアパートとは徒歩圏内にあるので、別にどちらに帰っても移動時間に大差はないのだ。こちらも当然、他に人はおらず、手持無沙汰は変わらない。
 仕事終わりに特に気力を傾けられる趣味もなく、気を抜いていると、YouTubeのショート動画を無心で眺め続ける羽目になり、彼女の帰宅を待つ前に、飯も食わずに寝落ちしてしまう。
 ひとりで酒を飲むにしても、どうせなら見るものがない殺風景な室内よりは、開放的な屋外の方が良いだろう思い、散策の末にたどり着いたのがこの古墳の上だった。
 この場所は夜景こそ綺麗だが、ここに至るまでの道程に街灯の類がほとんどなく、不気味な石段を踏破しなければいけないので、夜間に寄り付く人間はほぼいない。いわば穴場スポットだった。
 昨夜も、仕事終わりにその古墳を訪れていた。緑が多く、夏場は夜風が心地良い。
 古墳の上は芝生になっているので、そこに座り込み、コンビニの袋から缶チューハイとファミチキを取り出す。パシュっという軽快な音と共に炭酸の泡が飲み口から溢れ出したので、それを一口グイっと呷る。
 柑橘系の爽やかな香りが鼻を抜け、甘苦い味が舌を痺れさせる。多少温くなっていても、炭酸が喉を通り抜ける快感は絶妙で、労働の疲れが一緒に胃の腑まで落ちていくようだった。
 そのまま二口、三口と喉越しに酔いしれ、ぷはぁと一息つくと、腹からガスがせり上がってきたので、気にせず大音声のげっぷを吐いた。一連の動作には品性の欠片もありはしないが、それを咎める人間は誰もいない。
 ファミチキを頬張り、またチューハイを呷る。それを数度繰り返せば、酔いが回るのに左程時間はかからない。
 まぶたが重くなり、頬は熱くなって、耳が遠のき、思考が宙に浮く。こうなれば後は、気の向くままに夜景を眺め、酒とつまみを流し込みながら彼女の帰宅時間を待つだけだ。特に楽しいわけではないが、それなりの充足感はある。帰って彼女とセックスでもできれば、それ以上言うこともないだろう。
 空しい日々だと、思わないわけではない。
 アルコール依存症などと大げさに言うつもりは無いが、飲酒とセックスとたまのギャンブルと、それぐらいしか趣味らしい趣味を持ち合わせていなかった。そんな人間は世の中にごまんといるし、卑下する程のものでは無いと分かってはいるが、かといって胸を張れる生き方かと聞かれると、そうとは言い難い。
 動物的な快感だけを求めて、人間らしい文化的な営みを手放している。そのことに危機感はなくとも、そんな人生でも仕方がないかという諦念を抱いている自分には警鐘を鳴らさなければならないと、常々感じている。
 三十台も半ばに差し掛かり、未だに自分は何者かになれると青臭い理想を抱くことはない。きっと何者にもなれないからこそ、文化的な充足感なんてものに固執する理由が見当たらず、場当たり的な刺激に身を浸してしまう。そういう言い訳に、溺れてしまう。
 こんなことを考えていること自体が青臭いと言われればその通りで、酔いが回ると、ついつい無為で支離滅裂な思考が管を巻いてしまう。
 酔っ払いが何を語っているんだと、頭の中の思想家の独白が妙におかしく感じられて、苦笑いをしながら夜景に目を移す。
 ――その時、夜空が、割れた。
 そうとしか形容できない光景が、目に飛び込んできた。
 空間に亀裂が走る。
 星空がまるで一枚の板になったみたいに、無数の裂け目が生れ、そこから昏い光が漏れ出している。
 何だあれはと目を疑っている間にも、蜘蛛の巣状の罅はさらに広がりつづけ、ついには夜空がガラスのように砕け散った。
 宇宙が慟哭している。
 可聴域を超えた轟音が鼓膜を揺らす。音としては捉えられないが、衝撃が全身を貫いている。きっと、生物の聴覚では捉えきれない、異次元の破壊音だった。
 空に孔が穿たれた。孔の向こうは、夜の闇よりも尚暗い黒色が広がっている。
 そこから何かが弾き出された。
 目で追いきれない程の速さで飛び出したそれは、勢いをそのままに地面に叩きつけられた。
 衝撃と爆音。そして地響き。壁が生えたように、天高く土砂が巻き上げられる。
 咄嗟に目を瞑り、腕で顔を覆う。
 ドサドサと、土砂が降り注ぐ音が聞こえる。
 目を開くと、周囲には砂煙が漂っていて、視界が判然としない。
 理解不能な状況に、酔いは一瞬にして吹き飛んだ。
 座り込んだ姿勢から、身動きが取れない。立ち上がることすらままならず、ただ状況を静観することしかできずにいる。
 視界が開け始める。
 俺の目線の先、約五十m程向こう。まるでドラゴンボールかアメコミ映画のワンシーンのように、地面がクレータ状に抉られていた。



レオノーラの碧空 糠

人格を手に入れたけものが、自分以外のすべてに出会う物語。

  Ⅰ

 ある朝、目が覚めると、獣は自分がひとりの人間へとすっかり変容していることに気が付いた。人間というのはつまり、おはなしの中に出てくる、世界じゅう旅する、自由で機知と勇気に満ちた、数多の同胞を導き、空のように青い海を越え、アネモイに仕えたエッラその人ということである。
 そうすると、エッラに従う郎党たちは人間ではないのだろうか?
 獣は昨日まで、この世において人間というものはエッラただひとりであると考えていた。その筋でいけば、獣は人間とは言えぬ。しかしながら、獣はいまや自分が人間であるという直感的な確信に満ちている。狙い定めた獲物を決して逃さない、あの直感だ。あの直感が外れるのであれば、獣はいままでの時点のどこかで窮死していたに違いない。とするならば、やはり、自分は人間であることは疑いようがない、と獣は眉根を深めた。
 ああ、そうに違いない!
 八十八の郎党も人間であれば、エッラが旅の先々で出会った者たちも人間であろう。そしてアネモイをねらってエッラと争った、あの悪しき者たちも人間なのではないか。
 獣にとって、エッラという存在に押し込められていた人間の普遍性が、突如として世界に弾けた。今まで自らに投げかけられてきた音の連続と、この地下水路におけるあらゆる事物――目に見えるたぐいも、見えぬたぐいも――とが、意味という線でにわかに結びつき始めた。
 獣は早速こう思った。自らの変容を、あの獣に伝えなければ。しかし、どうやって!?
 あの獣、あの……そう、ばばあのような獣である。いいや、ひょっとすると、ばばあのような獣もまた、ばばあのような人間なのではないか。ばばあ? 私はいったい、ばばあとあの獣とをなぜ結びつけようとしたのか。そういえば、薄々、あの獣はばばあであるような気がしていた。おや? そもそも、ばばあが何であるか、私はいつごろから理解していた?
 間もなく、藁や木片を雑然と敷き詰めた簡易的な寝具のうえに獣はふたたび倒れ込み、唸りだした。うわ言のように小声で呟くが、それが明確な言葉として輪郭を結んだところを聞いた者はいないし、獣自身の耳にも届きはしなかった。頭の周りで不定形の意味と言葉とが渦を巻き、溶け合い、視界の閃揺がやむ気配は一向にない。
 もういちど寝てしまえ、と獣は考えた。がしかし、もしも次に起きたとき、この人間であるという直感が根こそぎ失われていたら、といったおそれが俄に沸きあがり、目頭が熱くなりはじめた。地下水路でほかの獣どもに食いぶちを奪われたり、ぶちのめされて、足蹴にされて、鉄の棒で叩き回されたときですら、泣くことはなかった。むしろ、闘争本能に火が点くようだった。いまは話が違う。獣の頭上にはゆらゆらと儚い革紐のようなものが揺れており、それはごく緩慢に、しかし確かに遠ざかろうとしている。革紐を失う前に、獣は端緒をしかと握らねばならない。だというのに音、音、音、意味、意味、意味。石のにおいにすら、音と意味が必要であると思われた。いわんや、石にすらも。
 獣は寝具のうえで親指を噛みしめ、言葉の奔流に抗った。それでも、波打ち押し寄せる音の連なりをせき止めることはできそうもない。喉から発せられる声は次第に高く、震えを帯びた。やがて涙まじりで呻きながら、我が身を抱きしめ、転げ回りはじめた。
 さて、王都シールダルにおいて中流層の群がる商業区画で人ごみをかき分け、守衛に心ばかりの感謝を握らせ、下層区画への長い長い階段を下るとしよう。清掃など望むべくもない。泥。苔。足元にはくれぐれも御注意。下層区の隘路から隘路をゆけ。住民どもはひとり残らずろくでなしであるから、けっして目を合わせてはならぬ。クスリ。腐敗した雨水。吐瀉物。糞。鼻腔と靴の裏側に高潔さが宿ると考える手合いは寸時であっても留まるべきではない。そうでない者を誘うように、下層区画は低みへと窪んでいる。見上げれば城壁に立つ旗印は遥か、商業区画のかげに隠れてほとんど見えはすまい。汚水すら干上がった苔まみれの掘割を進めば、やにわに巨大な暗渠が口を開ける。
 感想はこれに尽きるだろう。"ひどい臭いだ"と。だからどうした? 地下水路において臭いなど問題ではない。そこには甚だ致死的で、ずる賢い、悪魔のような連中が巣食っている。だが、進め。幸いにも水路としての機能は完全に破綻しており、汚水に足が阻まれることはなく、むしろ傷んで腐りかけているとはいえ、重ねた木板で舗装すらされている。ところが、進むべきは木板の無い、ごろた石とぬかるみの道である。考えてもみたまえ、誰が木板を拵えたのか。悪魔の群れを避け、地下水路においてすら、暮らしぶりのいっそうみじめな劣等者どもの繭籠もりするチャンバーを横ぎり、奥へ奥へと。そこを潜れ! わずかに浮いた床の石蓋をずらし、頭かがめて階段を下れば、そこに、獣の暮らす檻のごとき賤屋がある。
 陽も昇りきらぬうち、城下街で日々の糧をあんばいしたばばあ――獣の言を借りるのであれば――が辿った足取りは、このようなものであった。
「ば……! ばばあ! 人間、だ。わたし!」
 数日ぶりの生業を終え、石室に据え付けた戸板をくぐったばばあに歓呼が投げつけられる。地下水路の隅から隅を知り、老いてなお赫灼としたばばあにとっても、これは慮外であった。
「アア」と、奇妙に気の抜けた声を漏らすばばあに、獣は駆け寄り、飛びつかんばかりの勢いで、ばばあ、人間、わたし、といった言葉を繰り返し繰り返しまくし立てた。
 程なくしてばばあは得心のいったようすで、ひぇ、ひぇ、ひぇと笑む。すると、かねてよりばばあの猿真似をして感情を表していた獣もまた、ひぇ、ひぇ、ひぇと笑んだ。興奮はいや増すこと際限なく、そのような笑みの応酬は暫く続いた。
「ああ、ああ。あんた、第一声がそれかい。ばばあ、かい」と、ばばあは笑いながら言った。
 獣は笑みを深め、「ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ」と応える。
 ばばあもさらに笑みを深めるが、調達品を置き、魔法で角燈を点す。明暗境界線がたちどころに石室を横切った。光と影だ、と獣は瞬く。光はアネモイ。聖なる、さかな? そして影はアネモイを執拗に追う悪しき人々。ふと視線を下ろせば、自らの手や服にも境目が走っており、思わず声が漏れた。どうやら、光と影はあらゆるものを股にかける。
 ばばあは石壁を掘り出したへりに腰掛けると、不意に、真顔に戻ってこう訊ねた。
「で、人間だって? 昨日までは人間じゃなかったろう?」
 張りのある声音だった。一語一語をはきはきと発音するものだから、その都度、石室に老婆の声がこだました。
 一方、獣はまた頬を輝かせて老婆に即答した。
「人間じゃなかった! でも、急に、人間かもしれないって。そうしたら、いろいろなものが、人間じゃないけど、い……いろいろなもの、それぞれ、相応しい音があるって、思った」
「そうかい、そうかい。なんとも驚いたことだが、あたしゃ嬉しいよ。あんたはとうに気付いていたろうけどね。しかし何であれ、さざなみのような、切欠が要ったんだろうね」
 獣は首を傾げながらも嬉しそうに、ばばあの皺と傷でうろこさながらに硬い手を握りながら、また、ひぇ、ひぇ、ひぇ、と笑った。ばばあは片手を獣の好きにさせながら、目深にしていた被りをかき上げる。そのまま深い息を吐いて、物思いした。
 ばばあは夜毎、エッラにまつわる日誌を獣に読み聞かせていた。それはかつての栄誉、力、名すらもすべて失ったばばあが、後生大事に持ち歩いたほんの僅かな品のひとつであった。くそ溜めで虫と汚泥と死体を食らって生きていた幼子を、ばばあは匿い、世話をして、夜毎に読み聞かせた。確かな時を知るすべはないが、五年ではきかぬ歳月のあいだ読み聞かせた。
 ここより幾らかましとはいえ、みすぼらしい苫屋から始まったエッラの道行きは、南西の空平線に潜む決して昇らぬ星に秘められた謎を追い、空を駆け、旅の果てで大いなる魚アネモイに仕えるに至った。けれども、アネモイは人の業によってお隠れになり、クラン・エッラは咎のすべてを背負わされた。日誌の末尾はこのように結ばれている。
"今や友たる星々に誓って、アネモイにかれの蒼碧を返せ。そして、クラン・エッラの咎を雪げ"
 わたくしめは、長く生きすぎました、エッラさま。わたくしめは独りきりで、みじめったらしく、生きすぎた。耄碌の極みだ。だから、こんなけだものに託そうなどとする。ひぇ、ひぇ、と、またばばあの口元から笑みが漏れた。思い返してみれば、昨夜読み聞かせた箇所は最初に一度読んでから、長いあいだ読むことの無かった一節だった。
 それはエッラの最初の旅の終わりと、大いなる出逢いについての一節である。夕暮れ色のくちばしをした鷲に導かれて渡った神聖な地で、クラン・エッラは隠匿者たちに迎えられ、空神アネモイに拝謁した。エッラは空神が人のすがたをしているものと考えていたので、かの偉容の甚だしいことに驚いた。
 空神は山のように巨大な魚である。その鱗は一枚一枚が人の住まいほどに大きく、城壁ほどに厚く、硬い。どんな英雄でも扱えはしない、巨大な槍のような棘が背中に櫛比しており、尾部は蛇のように長く、また、神代のドラゴンの翼膜よりもみごとに発達した胸鰭によって、雨風のなかでもいっかな揺曳しない。月光に照らされると鱗は漆黒にも白金にも映り、あたかも闇夜に浮かぶ宝玉のごとく、とろみの深い輝きを湛えるのである。
 若芽のような好奇と功名心から始まった冒険は確かな誇りとなってこの地に根を張った。クラン・エッラは空神アネモイの守護者の座に就き、儀式においてアネモイの残した吐息は、止まぬつむじ風となって大地に年輪を刻み続けるものであった。
 そうしてクラン・エッラは、たとえるべき言葉すら見つからぬほどの静謐と安寧に包まれ余生を過ごすはずだった。
 いっときの物思いから戻ったばばあは、次のように切り出す。
「ときにおまえさん、名前は思い出したのかね? ここに捨てられるまえのことは、どうなんだい」
「えっ!? なま、なまえ? ……う、うう、ないよ。ない、ない、なまえ、なまえ、ない……?」
 獣は取り乱した。音と言葉が繋がらず、思考がなかばでうずくまっている様子だった。口もとに手を当て、床やら椅子やら指差し、ゆか、いす、と呟きはじめる。
「おお、いったいどうしたっていうんだね。ここに捨てられるまえ、おまえさんを誰かが決まった音で呼んだことは、無かったのかい」
 ばばあの再度の質問に対して、獣は苦しげな面持ちで見上げながら、ただ首を横に振った。油をなでつけたようにべっとりした髪が乱れ、間から覗く瞳は潤んでいた。しばらく黙ったあとでばばあは静かに言った。
「だったら、しようがないねぇ。今ここで決めちまおうじゃないか」
 ばばあを見上げる瞳は胡乱である。
「なまえを、決める?」
「ああ、そうさ。さて、さて、どうしたものか、ひぇ、ひぇ……」と言って、ばばあは獣の伸び過ぎた前髪を手でかき上げ、改めて面立ちを確かめ、嘆息した。
 その大部分をばかげた長さの睫毛に覆われてなお、角燈の光を吸った瞳は晴れ渡った空のように青い。
 やれやれ、神はなにをお考えになって、こんなけだものに過分なものをお与えになったのだか分からないね。或いは、なにをお考えになって、こんな姿かたちを与えた者を、掃き溜めの吹き溜まりのくそ溜めにまでお遣わしになったのやら。
 思案顔の老婆が目線を落とすと、床にひとひらの花弁らしきが落ちている。城下で糧をあんばいする道すがら、外套の裾にでもひっついてきたものに違いなかった。つまみ上げ灯りにかざしてみれば、野草なりの貧相な花びらではあるものの、青といって差し支えのない色合いであった。
 老婆は浅く鼻を鳴らし、獣に向き合った。ところが、ふたたび思案顔になって皺まみれの顔をいっそう皺立たせる。せっかくおのれで考え、喋ることを覚えた獣に、自分の一存によって名を押し付けてもよいものか、はなはだ疑問であった。
 苦慮のすえ、ばばあは命名の足がかりとなるものを机のうえに並べた。
 青い花びら、白い留め紐、壊れた砂時計、ねずみの死骸、苔のかたまり、白鑞の欠片、翅の長い虫の死骸、曇りきって元がなんであったか分からぬ指輪、木目の粗い板、とにかく、部屋じゅう目につくものを机に並べて、次のように言った。
「さあ、おまえさん、選んどくれ。時間をかけたっていいから、じいっくり、選んどくれ。おまえさんが選んだら、ばあばがそれに因んだ名前を、つけてやるよ」
 一も二もなく、獣は机を叩きつけるような勢いで、あるものを握り上げた。ねずみの死骸であった。あまりの勢いだったから、砂時計が浮き上がって横倒しになった。
「これがいい!」
 握りしめられた死骸はもとのかたちを失い、いびつに変形しかけていた。
 ばばあはひぇ、ひぇと笑い、獣も同様にして応えた。是非も無かった。地下水路の狩りにおいて、最初に教え込んだのがねずみの捕まえ方と食し方である。いや、実際にはごきぶりのほうが先だったやもしれぬ。幸か不幸か、手元にごきぶりのむくろは無かった。 
「そうさね。おまえさんにはやっぱり、そいつがしっくりくるってものさ。そうに違いない」
 実際のところ、ほかの品々が獣の興味をちっともそそらなかったわけではない。ただ、ねずみが好き過ぎたのだ。獣にとって、ねずみは身のこなしの先生であり、すきっ腹を満たしてくれる狩りのともであった。よって獣は、にこにことしてばばあの言葉を待った。
「じゃあおまえさんの名前は、これから……」
 獣は一変、真剣な面持ちとなって耳をそばだて、ばばあの言葉を一言一句聞き漏らすまいと身を乗り出した。
「……"どぶ鼠"さ」
 一瞬きょとんとして、それから、例のやりかたで笑いだす。
「どぶねずみ。……どぶ鼠。そうなんだ。わたしは、人間の、どぶ鼠」
 自分を指さして、ばばあに貰った名前を呼ぶ。その都度、獣は自分という存在がなま新しい存在に生まれ変わっていくような感じがした。
「どぶ鼠って、何? 意味、どういう、こと?」
 無邪気に訊ねる獣に、ばばあは次のように答えた。
「どぶ鼠は泥と汚水を這うねずみさ。おまえさんのよく知るとおり、小さくてか弱い生きものさ。その代わり、すばしっこくて、生きるためならば誰よりも賢い。分かっているだろう? それこそがどぶ鼠だよ」
 と、そこでばばあは言葉を切り、手を獣の頭に置き、ゆっくりと撫でた。
「けれどもね、覚えておくんだよ。ここにいる連中は一様に、どぶ鼠のようなものさね。ばあばだって他の連中だって、変わりやしない。みいんな、すばしっこくて、ずる賢くて、諦めのわるい連中さ。とはいえ、連中は群れて、ちっとはましなおまんまを食っているわけだから、あたしらほどにはみすぼらしくないだろうね。だから、連中はただの鼠さね」
「どぶ鼠のほうが、鼠より強い?」
「さてね。そいつはおまえさん次第さ。ばあばは強いなんてひと言も言っちゃいないからね。ただ……そうさね、しぶといってだけさ」
 獣――どぶ鼠は瞳を輝かせて、しぶとい、しぶとい、とおうむ返しにした。



人の意思 マリアチキン

世界を変革するものは案外と大それていないものである。

 辺りはなんと花畑だった。名前の知らない、ひょっとしたら辞書にも載っていないかもしれない花が咲き乱れている。赤色とその派生の色、黄色、白、まだ青いつぼみもある。それらは色とりどりで統一感のない、極彩色の居心地の悪い空間を作り出していた。
 そういうわけのわからない場所に、私は彼女とふたりきりでいる。互いに一糸まとわぬ姿で、しかし不思議と照れはなかった。私は彼女にほぼ抱かれているような体勢で、私と彼女の顔の距離は数センチもない。じっくり見ても少しの荒れもない肌のきめ細やかさ。化粧品の広告に映るモデルのようだった。貧困な私の言葉でその美しさを説明しきれないのがもどかしい。
 その首筋に、私は頬や鼻先を這わせる。私の顔のすぐ上から、くすぐったがるような、おかしくて笑ってしまったような吐息がして、私の髮を揺らした。視界の角で肩が動くのが映り、片手が私の頭に乗せられた。彼女ほどの髮ではないにせよ、自分でも気を遣って手入れをしているそれを、すっと指の間にくぐらせている。彼女はそれを数度繰り返したり、毛先を指に巻きつけたりして遊んでいる。それがうらやましくなって、相手に凭れかかって、肩を抱かれていた彼女のもう片方の手を取り、自分の手とからみ合わせる。自分の唇に寄せて親指をあまく噛む。残った指が私の輪郭をなぞるように動き、私はするようにされている。
 ずいぶん長いことそうしていた気がするけど、それは正味たったの数分の時間で、しかも数十秒後には離れなければならない。これは夢だからだ。
「これは試練だ」
 急に何。
 不意に耳に入ってきたやわらかい声色は、セリフの内容と異化が生じて微妙な雰囲気を感じさせる。それとは別に手つきは止めず、彼女は続けて言う。
「明日から先の君。君を取り巻く人々。その生活。それを支えるインフラ。それを培った人々。人類の歴史」
 私を見下ろして微笑む。薄く開いた瞼の奥からただよう、美しさ、やさしげな様子。その後から追って来るように生まれるつかみどころのない感情。ネガティブなことを感じさせないが、しかし良い感情であることを保証しない、ある種の厳しさをも感じる瞳。
「今日の君に掛かっている」
 だから急に何だ。
 私の髮を遊んでいた手がすっと後頭部に回される。私が噛むのをやめた彼女の指が、顔をなでながら顎の下につたって、顎をわずかに持ち上げる。何をするのかは雰囲気でわかった。私は目を閉じられなかった。彼女は表情を変えずにその美しい顔を私のそれに近づける。
「今日は」
 奇妙な言葉の途切れ方をさせて彼女は私に口づける。吸い付くのではない、吹き込むようなキスだった。それも息ではなくとても形容できない物質。その何かは唇から喉を通って私の中に落ち込み、消えるように浸透していった。
 彼女は名残惜しさもなく口を離し言葉を継ぐ。
「君の人生に於ける特異点」
 そうなんだ。そうなんだね。なるほどなるほど……。うわごとのように、私はとりとめのない言葉を、喋っているのか思っているのかわからないまま浮かべ続けていた。
 彼女の口が何事か話すように動いているのだけが見える。彼女は口を閉ざして微笑む。親が子どもをまなざすように。教師が生徒の回答を待つように。精神科医が患者の誰にでもそうするように。
 見事乗り越えて見せよ、彼女はそう言ったように感じた。

 静かな朝だった。
 天井には丸い電灯。カーテンをうっすら通過する日光で、部屋はほんのり明るい。めずらしく蹴り転がしていない掛け布団をどけて、私はむくりと上半身を起こす。
「いや思春期か」
 見ていた夢についておもわず言い訳めいた感想をもらす。かゆくもない頭をかいていると、ふと得体の知れない不思議な感覚を覚えた。違和感というか、アハ体験を仕掛けられているときそれに気づけないような、もどかしい感覚。
 これの正体はなんだろう?
 まずは大きく伸びをする。痛みはない。身体は問題なく動くようで、そういう類いの違和感ではなさそうだ。ベッドから出て、姿見の前に立つ。パジャマをまとった自分の姿だ。セルフ身体検査のように身体の各所を軽くはたいて確認してみる。昨日までと何も変わらないように思える。回れ右をするように、自分の身体を翻してみる。首だけで振り向いて見える限りの背中を確認しても、違和感の理由はわからなかった。
 部屋のどこかに異変があるのかもしれない。周りを見回してみる。化粧台、勉強机、ベッド、クローゼット、本棚。どれも昨日までと同じだ。そりゃそうだ。
「でもなんか違和感があんねんな……」
 気にはなるが、モーニングルーティンには戻れる程度の気になり具合だったので、モーニングルーティンに戻る。起きたらまず制服に着替えて、洗顔と歯磨きをする。友達は最低限のメイクはするらしいが、私はまだそこまでにすら到達していない。洗顔後に化粧水と乳液を塗るくらい。それも敏感肌の父に「やっておこうね」と言われているからだが。
 脱衣所を兼ねている洗面所に来た。洗顔フォームを水で泡立てて、やさしくこすって洗う。目やにが落ちたところで違和感は消えない。歯ブラシを歯と歯茎の間に当てながら磨いても同じだった。
 短いルーティンを終えると、通学鞄を部屋から取って、家族の皆が居間と呼んでいるダイニングキッチンへ向かう。階段を降りる間も違和感は消えなかった。
 居間にはエプロンをした父がおり、テーブルには朝食が用意されている。白いご飯とお味噌汁と主菜の焼き魚とお漬物。食事は専業に近い主夫の父がほとんど作ってくれている。たまには私も作るが、主菜副菜汁物と揃える父に対して、よく一汁一菜で済ませる。母は仕事がら留守にしていることが多く、今日もいないみたいで食事はひとり分だけだった。
「おはよう」
 父は必ず目線を合わせて挨拶をしてくる。父は食事を終えており、食器を洗っていた。おはよう、と私も挨拶を返すと、父の目に一瞬だけ疑問の色が混ざったように見えた。なんだ? そう思うのと同時に、違和感について父にも聞いてみればいいじゃないかと気がついた。
「ねえ」
 呼びかけると、父は食器の水気を拭き取りながらこちらに首を向ける。
「なんか私、今日おかしなところあらへんかな」
 父は茶碗を食器棚に直しながら、うん、と頷いて言った。父は食器を使ってから棚に戻すまでが早い。
「なんで訛ってるの?」
「え?」
 ある朝、私は気がかりな夢から目を覚ますと、家族の誰も使っていない方言で話すようになっていた。

 そして自分が訛っていることが違和感の正体だと気づいたものの、自分のしゃべり方が変わってしまったことによる違和感は残り続けている。微妙な、本当に微妙な気持ち悪さがある。
 父が「とりあえず朝ご飯を食べよう」というので食べている。おいしい。味覚も変わっていない。
「変わったことはそれだけなの」
 手の空いた父は正面に座って、平坦な口調で聞いてくる。私が訛っていることを、ふざけているのだと思わずに父はすっと受け入れてくれた。
「うん、そやと思うけど」
 訛ってるなあ。物心ついたときからずっとこういうしゃべり方だったような馴染みがある。私はいま関西弁のような言葉をしゃべっているが、私たちが住んでいるのは関東だ。父母が結婚する際に移ってきた土地だが、父母のどちらも関西出身ではない。仮にそうだったとしてもいま私が訛っている理由にはならない。
「なにかきっかけになったことに心当たりはある?」
「そやなあ……」
 ある。今朝見た夢だ。ただその内容を話すのは恥ずかしいものがある。それに夢を見たことがきっかけで訛りはじめたというのも筋が通らないし。
「変な夢を見たんやけど」
「どんな?」
「それがなあ……」
 言いよどんでいると、「話しづらいなら別にいいよ」と言ってくれた。父との会話はストレスがない。
「自分の意志でやめることはできないの」
「んん……、できなくはないけど……」
 話そうと思う一言一言に集中して標準語に置き換えながらしゃべらないといけないから。
「むずかしいな」
「そうかぁ」
「私のは、関西の人が標準語はなそうとするのよりもむずかしい気がする。知らんけども」
「うーん」
 沈黙。父は今、親として子どもとの間に発生する問題史上例のない局面に立たされている。ただ微妙過ぎてどうすべきかわからないだろう。病院かもしれないが、病院ではないと思う。私自身もどう受け止めればいいかわからない。
 黙っている間に朝ごはんを食べ終わってしまった。食器を重ねてシンクへ運ぶ。
「これはラスボスの案件かもなあ」
「……やっぱそう思う?」
 まずお皿を水に漬けて、背中越しに聞こえてきた言葉に相づちを打つ。
 一般的に、自分の妻および自分の母親のことをラスボスと呼ぶ家庭は稀だと思うけど、うちはそうだ。うちだけじゃなく、母の関係者はみな母をそう呼んでいる。
 ちゃんと具体的な理由、母いわく実績、もある。年齢ではなく一親等という意味で、子どもの知ることじゃないと言って、私は詳しく聞かされていない。ただ、一親等であるという立場上私の耳にも微妙に入ってきている。だからあまり意味が無い。だから私は母がラスボスと呼ばれるようになった過程は知らないが、その過程でもたらされた結果は少し知っている。
 たとえば、地区の班長はほぼ持ち回りだから数年に一度はどの家庭もやらなくてはいけなくなるはずだが、我が家はその役目をここに住み始めてからずっと回避し続けている。「あの奥さんがいるお宅には任せるわけにいかない」ということになっているらしい。そういう小さなものから、日本の出生率の低下の原因の数パーセントは母がもたらしたものであるという話もある。また、母が仕事先から家に戻ってくる経路沿いにある小売店は万引きの被害が非常に高いという噂もある。他にも、この世界に私の母を産んだということで母の両親が外患誘致罪に問われたという。まだある。世界終末時計の進み方が2017年から30秒刻みになったのは母が関係している。人が人に何かを説明する際、見てほしい箇所を示すとき人差し指でなく中指で指す人の数は母が加齢するのに比例して増えていき、母が死ぬ頃の人類は海外のアニメみたいに四本指になる。それがアセンションである。スーパーなどでの販売数の少ないカタカナの野菜をすべて食べたことがある。電子書籍化を頑なに許さない作家は全員母の関係者である。ポニータは東京タワーを飛び越えられるが、母も飛び越えられる。オリンピックなどの国際的な運動競技大会に興味のない人間のうち一定数は母の干渉下にある。方言のない言語は存在しないとされているが実は一つだけ存在しその唯一の話者が母である。ベッド派に寝返らない敷き布団派はこの場合一定数とかではなく全員母に干渉されている。倍返し、百倍返しなどの表現があるが、実際に行われた復讐が相手に何倍返せたのかを正確に計測する装置を所有している。動かすと日本全国の書店の数が増減する目盛りがあり、母だけがそれに触ることができる。母は小動物に懐かれるとかではなく敬われる。謎のアジア人の実写ラインスタンプがたくさんあるが、それらは制作した本人によりまず母へプレゼントされることになっている。母はニベアを使う必要がない。母がいなければヒカキンの再生数はもう一桁多かった。母の親族には非暴力的性犯罪者が異常に多い。郵送されたすべての不幸の手紙は母の元で止まる仕組みになっている。母自身が殺人を行ったことはないが、天文学的な数値の工程数を経て関与した殺人事件がかなりの件数ある。母はラインの返信が早すぎて送る前に連絡が来る場合もあってうれしい。あいうえおのかな文字は本来五十音ではなく六十音だったのだが出生時の母がそのうちの十音があった事実を消し去った。恐怖の大王とは成人した母のことだが、ノストラダムスの詩と五島?の解釈または創作とは別に関係がない。母に影響を受けて犯行を行った殺人鬼が六十人近くいるがすべて未遂に終わっているので矛盾している。母に誉められることは、SNSで数千人に誉められることに相当する承認欲求が満たされる。世界中の流通は一旦母を経由しなければならない。母の年収は年によって最大で七桁上下する。母は改造手術をするかされるかのどちらかを行ったことがある。9歳の母が早めのアイデンティティークライシスを経験したその日、日本に消費税が導入された。なるべく非暴力的な方法で少しずつ人類を滅亡させようという主旨の組織が実在し、母はそこに遊びで所属している。などなど。
 これで少しだ。全容の途方もなさがうかがい知れようというものだ。「それは反社ではないのか」という意見については返す言葉もないが、それぞれの話を証明するものももちろんない。一親等なので許してほしい。
 お皿を洗い終わり手を拭いていると、父がやはり平坦な口調で言う。
「父さんが聞いてみるから、とりあえず学校へ行ったら」
 振り向くと父は手元のスマートフォンに目を落としている。母の電話番号やラインのアカウントは私も知っているが、あまり連絡は取らない。必要がないからと言うと親子にしては素っ気ない感じがするが、別に険悪なつもりもない。そして母の方からもやはり連絡は来ない。
 というか、そうか学校に行かないといけないのか。まだまだ色んな人に事情を説明しなきゃならない。ハチャメチャに面倒。私だって事情はよくわかってないのに。
「返信来た」
「早い」
「『とりあえず私のせいだと言っておけ』って」
 こちらの思考が先回りされている。さすがだ。
「助かるわ。……他には?」
「『こっちで全部やっとくから、そっちはそっちでがんばれ』」
「なんやそれ」
 母のせいではないということか。そして全部やってくれるのか。一体何を。がんばれとは訛っている不便に耐えろということ? 会話を相手の想像に委ねすぎじゃないか。
「まあ、わかったわ」
 そう言うしかないのでそう言った。父が作って置いてくれていたお弁当を持つ。居間に来る前に自室から持ってきていればよかったのだが、持ってくるのを忘れたので鞄を取りに行こうとすると、さらに父から伝言があった。
「もう一個きた」
「なにって?」
「『今日はお弁当を持って行くのはやめろ』って」
「なんでよ」
「わからない」
 とりあえずラスボスの言うことは聞いておこう、父はそう言って私に手を差し出し、私は父にお弁当箱を返した。
「これはじゃあお父さんが今晩食べます」
「うん」
 まあきっと意味のあることなんだろう。父と私の母に対する信頼は篤い。それが何故かを考えたことはない。
「幽白の?みたいに、脳に何かが仕込まれているのかもしれへんね」
 出し抜けにそんな言葉が口を衝いた。やばいと思って父を見ると、キョトンとした顔をしていた。
「ん? ハハハ」
 怒ってしかるべきところだと思ったが、父はウケた。母の言うことを素直に聞く自分たちのことを言っているのだ、という意図もわかっているらしい。親子だからかな。
「科学的に無理だから大丈夫」
 意外に真っ当な方向からの反論だった。
「今さらそういう理屈を使うんやね」
 ふふふふ、となおも含み笑いをしながら、父は目線を私に合わせて比較的語調をしっかりとさせて「安心しなよ」と言った。
「ラスボスは間違ったことはしないし、言わないから」
 母でなくラスボスと言ったところに意味深長なものを感じる。
 じゃあ学校へ行ってきなさい、と父は話を締めくくった。
「わかった」
 改めて自室に鞄を取りに行く私の背中に、付け足すように投げかけられた。
「がんばってね」
「まあ、うん。はい」
 そのように私は答えた。合ってるよな、これで。


 
 以上になります。


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