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総合型選抜入試における「本心」とは何か?【人物本位という概念にやはり無理があるのでは?】

ちょっと古い記事ですが、朝日新聞のThinkキャンパスというサイトに次の記事が載りました。

総合型選抜入試について、比較的率直に現実を語っていると感じます。

総合型選抜入試については、徐々に認知度が向上したことや、受験産業や情報産業が取り上げるようになるにつれて課題も見えてきているのでしょう。

なので、この手の記事については、朝日新聞に限らず、これまでのように、一般入試と比較して、総合型選抜入試の方がよい制度なのだという観点では語られなくなっていることは、議論を進める上でよいことだと感じています。本来は、比較することに本質的な意味はないのではと思っているからです。いろんな意味で併存が現実的で、双方の問題点は個別に解決すべきと思っています。

この記事によって総合型選抜入試の特性が浮き彫りなったなと感じる点もあるので、その点について書いてみます。

それは、人物本位という一見、もっともらしくみえる評価ポイントの脆弱性です。

本心ではないことが志望理由書に書かれている場合、すぐに見抜かれてしまう」というのが専門家の共通した意見です。
(中略)
「そもそも、合格するために志望理由書の内容を考えるというのは間違っています。やりたいことが先にあることが大前提です。もっといえば、興味のあるテーマについて探究学習をしているが、まだ結論は出ていないので、それを大学で行いたいというのが理想です。

上記記事より

その通りだと感じます。

しかし、現実を鑑みるとこれは、まさに絵に描いた餅ではないかなとも感じます。

そもそも
大学で絶対に研究したい内容やテーマがある。

ならば、総合選抜入試を選択しよう

という人は極めて少数派だと感じるからです。

大学で数学を、生物学を、電子工学を勉強したいという生徒で、総合選抜入試でないといけない「必然性」がないからです。

一方で、総合型選抜入試を選べば早期(年内)に合格が決まるとか、学力をあまり問われないとかの「メリット」はあります。

なので、この総合選抜入試を選びたいという受験生は、「必然性」でなく、「メリット」に引き付けられるのは、仕方のないことであり、ある意味自然なが流れともいえます。

今の高校生は、昭和の時代に存在した、なんとなく大学に行ければいいとか、早慶ならどの学部でもいいとか、楽しく4年間を過ごせればいいという生徒は大きく減少しました。この国の未来が明るくないことは、彼らは肌感覚で知っているからです。

そのため、大半の受験生は、それなりに目的を持って、大学受験に備えています。

そんな中で、総合選抜入試でないといけないと考える生徒は、その人なりの理由で、一般入試を捨てる選択をしています。この二つの制度が現状ではかけ離れているがゆえに、複眼的戦略が取りにくいからです。

なので、総合型選抜入試を選んだ受験生は、この制度に執着せざるを得ない現実があります。

つまり、総合選抜入試を選択した受験生は、覚悟を決めて「ルビコン川を渡った人たち」です。

で書いたように、後戻りはできない上、モチベーションは、「失敗できない」崖っぷちから端を発していると思われます。

理想がどうであれ、「合格するために志望理由書を書く」のは、ある意味当然なのではと感じます。正直なところ、「本心」なんて温いことなど言っていられない。

現実を甘く見てもらいたくないなと思うのが、

スキー部に所属していたある男子高校生は、自分の大好きなスキーについて考える中で、休業や廃業に追い込まれているスキー場が増えていることを知りました。これを解決するために大学に入りたいと志望理由書に書きました。評定平均はそれほど高くありませんでしたが、総合型選抜で合格することができました

上記記事より

この現実を見た生徒によっては、「この程度のことをチョロチョロとまとめ上げれば合格するなんて、なんて美味しい入試なんだろう」と思う人がいるという点を見落としてはいけないと思うのです。

「総合型選抜では、大学で何を学び、どう将来に生かしていきたいのかという意欲や情熱が必要です。(中略)
一般選抜の学科試験を回避したいからという消極的な考え方は望ましくありませんが、総合型選抜という方法が、大学選びの幅を広げてくれる可能性はありそうです。

上記記事より

という理想は、その通りだと思うものの、現実は、

総合型選抜では、大学で何を学び、どう将来に生かしていきたいのかという意欲や情熱が必要とされているのでそれが十分でない場合は、意欲や情熱をいかにもあるかのように表現できるかの技術が必要です。(中略)
一般選抜の学科試験を回避したいからという消極的な考え方は望ましくありませんが、とはいっても、総合型選抜という方法が、学力試験が問われないのは事実なので、大学選びの幅を広げてくれる可能性はあり、コスパの良い入試である側面はありそうです。

・・・と、総合選抜入試をこのように解釈する人は絶対に出るのではと思います。

このような点を見越したうえでの制度設計ができなければ、やっぱり、象牙の塔の人たちは、現実を知らないんだなと言われても仕方ないのかなと思います。

総合選抜入試がこれから本格化します。未来の大卒のスタンダードタイプは、この入試制度から生まれるのだろうとも思います。

であるならば、人物本位というのは、個のキャラクターに依存する選抜という点で、私は大学の学生選抜のシステムにおいてそぐわないと思っています。

つまり、もう少し学生を要素に分解したある意味「非人間的」な側面を拾い上げるべきで、そこから公平性のともなう選抜や大学が求める学生像に近づくと思っています。

というのも、人物本位は、評価される人物像と評価されない人物像が存在することを意味し、そうでないと気づいた人たちは、評価されるように「擬態」するしか合格する術がなくなるからです。

否定されている自分を理解し、自分を捨て、評価される自分に変化させるのは、高校生くらいの若者に強いるにはあまりに過酷だと私は思います。
かわいそうという点よりも、そもそも無理なことを強いる大人のご都合感にきわめて違和感が大きい。

アメリカの名門大学も似たような制度ではないかという意見もあるかと思いますが、彼らは選抜に際し、コストをかけて学生を選んでいますし、

そもそもそのような制度になっている理由は卒業生として大学の知名度を向上させてくれるような業績を期待しているからこそ、人物本位であると私は理解しています。

総合型選抜入試は、そこまでの期待が学生にないのであれば、評価が揺らぎやすい「人物本位」ではなく、もう少し「機能的」に選抜する考えがあってしかるべきではと思います。
それが見えてこないことが、結果として人物本位に固執する側面があるのではと感じています。
総合型選抜入試は、まだまだ多くの課題がある。少なくともそこだけは決して間違えていけない思考だと思います。


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