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日曜日の本棚#30『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)【作者の筆による「作品について」で世界が一変するどんでん返し】

毎週日曜日は、読書感想をUPしています。

前回はこちら。

今回は、宮崎駿監督の新作と同タイトルで話題になった吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』です。漫画もヒットした作品ですが、小説でしか味わえない醍醐味のある作品です。あとがきにあたる吉野源三郎さんが自ら書かれた「作品について」で作品の世界観が一変する妙は、小説でしか味わえない魅力だと思います。
画像は、岩波文庫編集部のX(旧Twitter)より

作品紹介(岩波文庫HPより)

著者がコペル少年の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。それは、人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問われねばならぬ、というメッセージであった。著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」(丸山真男)を付載。

所感(多少のネタバレを含みます)

◆爽やかな読後感

主人公の本田潤一は、コペル君というあだ名をもつ。コペル君は、学業はトップクラスで、運動もまずまずの少年として設定される15歳の旧制中学の生徒である。
 
あだ名は、コペルニクスからとられており、全編を通して、コペル君の日常で起こったことをコペル君の母の弟である「叔父さん」に投げかけ、二人の書簡のやり取りが行われる構造になっている。これは、啓蒙を意識した仕掛けであると解してよいのだろう。若者に必要なことは、知性。先哲の強い願いが込められている。
 
本作が巧みなのは、ここにキャラクター劇としての要素を中心に据えていることだろう。小学校を出た後、丁稚奉公に出ることも珍しくない時代、旧制中学へ進学ができたコペル君は、比較的裕福な家庭の子ではあることは間違いない。しかし、父を亡くし、郊外に転居した境遇となっている。上流階級の下の方という作者の設定の意図が読み取れる。
 
そのためか、生粋の上流階級の水谷君や下流階層の代表のような浦川君、エリート主義のアンチテーゼとして文より武の北見君が配置される。
 
そのような環境の中、コペル君は、よき級友たちとの触れ合いを通して、生きるとは何かを学んでいく。
 
純粋な少年時代の良さを実感しながら作品を楽しむことができた。
 
そんな清々しい読後感を持ったまま、あとがき当たる作者の筆による「作品について」を読むことになった。

◆読後感を一変する「作品について」での作者の告白

あとがきにあたる「作品について」で、衝撃的な作者の告白を目にする。
 
本作は、1937年(昭和12年)が初版。この年は、盧溝橋事件が発生した年で、旧日本軍が日中戦争に猛進していく端緒になる年である。
 
しかし、本書にそんな不穏な匂いは、全く感じられない。
 
私は、その違和感に途中で気づいたが、当時はそこまで軍国主義の雰囲気がそこまで広がっていなかったのかなと思ったがそうではなかった。
 
『君たちはどう生きるか』は、新潮社が「少年国民文庫」として刊行したシリーズの1冊である。「少年国民文庫」を指揮したのは、『路傍の石』や『真実一路』で知られる山本有三であり、吉野源三郎は、病に倒れた山本の代役として執筆したとある。
 
吉野は山本の

今日の少年少女にこそ次の時代を背負うべき大切な人たちである。この人々にこそ、まだ希望がある。だから、この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を超えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかしてつたえておかねばならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちにやしなっておかねばならない

「作品について」より

という理念に共鳴したと書いている。
 
つまり、このコペル君たちが織り成す物語は、当時の空気をあえて反映させない「虚構」であったのだ。

◆石坂洋次郎『青い山脈』の予言の書

その意味で、戦後書かれた石坂洋次郎の『青い山脈』との違いを感じてしまった。『青い山脈』は、戦後民主化された社会の空気を反映しており、そこには当時のリアリティがあると理解している。『君たちはどう生きるか』は、当時の空気を反映しない「若者は、こうあってほしい」という理想の書であるとすれば、戦争という多大な犠牲を経て、『青い山脈』で描かれた若者像を得たと解することができる。
 
その意味で、『君たちはどう生きるか』は未来への希望の書であり、石坂洋次郎のような作家の到来を予測したSF的な視点のある作品だったのだとも言えるのではないかと感じている。
 
そのような視点で本作を俯瞰すると、吉野源三郎の感じた重圧は、想像に絶するものがある。一字一句緊張の抜けない作業であったことであろう。本作がきっかけになって「少年国民文庫」シリーズそのものが発禁処分になることもあり得たからである。
 
コペル君という名を通じて科学の解説に丁寧にページが割かれたり、上級生という権威に逆らう場面があったり、英雄ナポレオンについて彼の生涯を通じて、ヒロイズムを考察させたりする展開は、ひとつひとつが軍国主義へのレジスタンスとしての意図が込められていたと感じる。
 
「少年国民文庫」の執筆陣には、新潮社のライバルである文藝春秋を興した菊池寛の名前もある。軍国主義へのレジスタンスとして当時の創作者たちの強い意志を私は感じた。

◆稀代の映画監督の企み

もし、時代が「新しい戦前」へ向かっているのであれば、多くの現代人にその危機的状況に気づいてほしいという願いを持つ人物はどうするか。

それは、自身の最後となる可能性のある作品に本書のタイトルをつけることで、そんな危惧を表明するのかもしれない。
 
そう思うと、本書が再び脚光を浴びることになったあの映画のタイトルは、別の意味があるように感じる。

映画館で多義的な意味を持つ作品だと感じたあの映画の本当の多義性は、この小説を読むことで深くなったと感じる。この映画で本書の存在を知った現代人は、手に取って、再び悲劇を繰り返してはならないということに思いを馳せる責務を感じる。
 
それはまさに、『君たちはどう生きるか』が問われているのだろう。

今は、山本有三が、吉野源三郎が、警戒した偏狭な国粋主義的思考をする人たちがいないとは言い切れない状況にある。

「反日」「売国奴」などの強い言葉が軽々に使われることに慣れてしまっている日常は、決していいことではない。

戦争は私たちが想像するよりもっと近い場所に迫っているかもしれないのだから。

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