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新春企画!一般入試がなくなる世界を考えてみた(3)【管理される「マナタイ」の果て。】


一般入試が終わった社会を妄想しています。前回はこちら。

今回は、こんなことを考えてみました。
テーマは「管理」。

一般入試がなくなると、より管理が強まるとみています。

そのような管理は、(大)企業にとってメリットが大きいため、それが加速するでしょう。

しかし、・・・意外にもいち早くデメリットに気づくもの(大)企業かもしれません。

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一般入試が廃止されたことを受け、X大学は、大学教育資格認定入試(旧総合選抜入試)で提出義務のある「大学に入学して学びたいこと」の実態調査に乗り出す。
これまで、このような追跡調査はしておらず、担当者は「全学生を対象としたのは、我が校は初めてではと?」という。

X大の学生に話を聞くと、マナタイ(大学に入って学びたいこと)は、受験に向けて一生懸命考えたが、大学に入ってからは、高校時代に想像していたこととは違っていたこともあり、あまり大切に考えて来なかったという。

中にはそれを実行すべく努力している学生もいるが、
「チェックされないから、言ったもん勝ちになっている」と不満顔だ。

就職では、かつては、「ガクチカ」(学生時代に力をいれたこと)が重視されていたが、今は表立ってはいない。だが、企業の担当者は、「あえてそれは直接的に聞いていない。実態とは違っている例も多く、実はひっそりと調べている」という。

その理由として、総合型選抜入試が一般化してからは、大人の評価を獲得するための高いスキルを持つ学生が増えたためだという。発言に対して裏付けのある行動をするより、やっているように見えるスキルが上がったことが仕事の現場に支障をきたしているからだという。

「ようは、口だけで実態を伴わない学生が増えた」のが主な理由という。

そのあたりを大学生に向けてみると、そういう傾向はあると思うという声が聞かれた。「大学入試で、大人の評価にさんざん合わせるように訓練されたこともあり、それは自然とスキルとして身についていると思う」という。

だが、実際に実行されているかの検証がないなら、「やっている感」がもっとも効率的だということになっているようだ。記者が学生時代に流行った「コスパ」や「タイパ」を思い出させる。

先のX大学の担当者は、企業の採用担当者から不満の声を反映した結果でもあるという。これからは、「マナタイ」も管理する時代なんですという。
それが時代の要請なんだと思うとも付け加えた。

一般入試で大学に入った記者にとって、マナタイなどあまり考えたことはなかった。学生時代にそれを必要だと感じたこともあまりない。本当に必要なことなのか、マナタイはその意味を深く考えることなく大学と学生の間で肥大化しているような印象を持った。

一般入試が廃止されたことで、大学生が見ている景色は私のころとは大きく違っているのだろうと感じているが、それがいいことなのかどうかは正直よくわからないというのが本音でもある。

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一般入試と総合型選抜入試では、いくつか違っている点がありますが、その一つに「残るもの」の違いがあるように思います。

大学入試で問われる「知識」に意味があるのかないのかの議論は、あると思いますが、少なくとも一般入試では、一定レベルで残る知識はあります。

それが、無意味で創造性を棄損しているというのが、一般入試不要論の根幹でしょう。

しかし、仮にそれが正しいとしても、総合型選抜入試で担保している能力は何なのでしょうか。

「エビデンス」がうるさくなった定量主義的なアカデミズムがなぜかこのあたりは、「ふんわり」としたイメージ主義になっているのかなとも思います。

一般入試廃止が間違っているとき、ちゃんと責任をとる覚悟があっての議論であるべきだろうと思いますが、少なくとも私の目にはそのような感じに映っていないのは、とても違和感がありますね。

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