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(続)改めて思う入試で問われるべきもの【教育改革に合意形成は不可欠】

昨日の記事の続きです。

もともと一つの記事でしたが、テーマ性を考えると分割すべきかなと思い、後半をこちらに移しました。

今回もこの動画から内容を引用します。教育改革が、本稿のテーマです。

動画に登場する藤原氏のような人は、末端の現場の人間から言うと、正直困った存在であると感じます。

藤原氏は、動画の中で、これらの日本は、ジグソーパズル型からレゴ型であるべきと主張されていますが、それは、ひとつの側面として、その通りであると思います。しかし、そうであるならば、まずは、社会を先にレゴ型にすべきだと思います。

ゆとり教育世代への社会的攻撃への疑問

私は教育を変える前に、社会を変えるべきだと思うのが、「ゆとり教育」の扱いです。

「ゆとり世代」とは、教育指導要綱の改訂により、2002年~2011年の間に義務教育を受けた世代(1987年4月2日生まれから2004年4月1日生まれの世代)を指します。

一部に、ゆとり教育を受けた、いわゆるゆとり世代への厳しい認識を示す人たちがいます。上記のサイトでは、最初からネガティブから入っているとさえ思えるほど、散々な書かれようです。

正直、私はそこまでゆとり世代が問題だと思いませんが、一方で、社会のどこかに説得力を持つ事例があるのかもしれません。影響力のあるタレントがゆとり世代について問題点を言及しているのを何度か見ていますが、「炎上」となっていないこともあり、「そうだ!」と受け入れられている面もあるのでしょう。

気になるのは、

ゆとり教育では、週休2日制を採用しており、「多種多様な経験をして人間性を豊かにするゆとりを大切にする」という目的がありました。

いまの世の中がゆとりが全くない状態である以上、ゆとり世代が、仮にそのような価値観を教育で得たとしても、それを実践できる場はほとんどないと思います。その結果、社会が多種多様な経験を評価しない、あるいは、評価できる余裕がないとなり、せっかくの教育の理念は実践されにくいと言えます。

このように、ゆとり教育が社会でハレーションを起こした現実をみると、このような思考の変革はそう簡単には共有されないと思います。

ゆとり世代は、ゆとり教育を望んで受けたわけでもないのに、このような扱いを受けるいわれはないはずですし、不条理でもあります。本当に気の毒だと感じます。

教育は社会の反映であるのは、やむを得ない

今回、私が主張したいのは、
教育を変える前に、まずは社会を変えてから・・・であるべきでは?という点です。

社会がこういう能力を評価する方向性が出たので、これを学力として手順化して教育する・・・という順番にならないと一般性を伴わないだろうと思われるからです。

たとえ、「レゴ型教育」が正しいことであっても、社会に必要とされるべき価値観として共有されていなければ、教育の現場に落としこむことが難しいでしょう。入試で問うのであれば、なおさらです。

教育を変えたがる人たちへの疑問は大きくなるばかり

このような人たちは、教育を変えると、特に入試を変えると、社会が変わると本気で思っているのでしょう。それこそが「正解」を前提としたジグソーパズル型ではないかと感じます。

そもそもレゴ型教育の観点でいえば、「こうすべき」という主張は意味がなく、いろんなことにトライすべきという主張になるはずです。先の動画でいえば、「裏口入学を表口に」という乙武さんの主張の方がよっぽどレゴ型です。

社会が変わるから、教育が変わるのであって、その逆は単に若者に負担を強いるだけあり、場合によっては、ゆとり教育のように、正しいとされる教育を受けたのに社会に受け皿がないということになりかねません。

今の高校教育において、総合型選抜入試で問うべき学力を積み上げる機会は乏しいと言わざるを得ません。悪い制度だとは思っていませんが、この入試制度を育てていくべき提言などをほとんどすることがないどころか、この制度を隠れ蓑に私立大学が学生の早期獲得(=合格した瞬間から学びから大量の離脱者を生む問題をはらむ)の手段として常態化すれば、学びの継続という点で問題を生じさせる可能性は十分に予想がつきます。理系では尚のことです。

社会が変わり、一般入試で問う学力はほどほどでいいから、もっと違うことを評価しようという社会的理解なり合意形成が醸成されて初めて、機能してくものではと思います。

大人はもう少し、若者に対して、謙虚さと責任を持っていいのではと感じます。このような態度で信頼を得られるとはとても思えません。若者は、大人のモルモットではないのです。


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