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ある新聞記者の歩み 34 世の中は騒然、冠婚葬祭代はかさむ 楽しむしかない! (広告局の巻第3回)

元毎日新聞記者佐々木宏人さんが広告局に在籍された5年間はバブル崩壊後のいわゆる「失われた30年」と重なります。それは広告営業冬の時代を意味します。しかも大災害阪神・淡路大震災が追い打ちをかけます。でも、どんな環境であれひたむきに仕事に当たり、かつ楽しんできた佐々木さんです。今回は広告局3回シリーズの最終回です。(聞き手:校條諭=メディア研究者)

◆95年と言えば、震災、オウム、Windows95、インターネット---大事件続発

 
 Q.佐々木さんが広告局に赴任したのが1993(平成5)年4月で、98(平成10)年までおよそ5年間広告局に在職されました。最初は広告局の企画開発本部長で、95(平成7)年には局長に就任されます。前回まで伺ってなかったのですが、広告局があるのはパレスサイドビルの本社内ですよね?それは何階ですか?編集局とは別の階ですか?
 
2階にありました。編集局は4階、出版局、文化事業局は5階、販売局も2階で、役員室は5階でしたね。「あの件、5階がうるさいから、早くやっておけ」なんてよく言いましたよ。

パレスサイドビルが出来たころ(1971(昭和46)年頃はビル全体が“毎日新聞社ビル”の感じでしたが、その後、新聞部数の落ち込みもあり、出版局は九段下に移ったりスペースを節約して一般会社も入れて、今は肩身の狭い思いをしてるんじゃないかな。
 
でもパレスサイドビルは毎日新聞が大株主。貸しビル業として、お堀端で地下鉄と直結しているしホント便利なビルですよね。特に、最初は小さな会社で「毎日コミュニケーション」といっていた「マイナビ」が、同業の「リクルート」と肩を並べるようになり、ビル全体に占めるオフィス面積の比率が高くなっています。その収益でだいぶ助かっているんじゃないかな。ぼくなんか口が悪いから「今や“マイコミ・ビル”だな」なんて悪口を言っていますけどね(笑)。
 注)2005年4月、(株)パレスサイド・ビルディング(東京)、(株)毎日大阪会館、(株)毎日西部会館(北九州)、(株)毎日名古屋会館の4社が合併して株式会社毎日ビルディングが発足しました。
 
Q.勤務は朝何時に出て、だいたい何時頃まで会社にいましたか?記者時代よりも家にはまっすぐ帰ることが多くなりましたか?
 
朝10時、夕方6時までというのが基本です。定時に出勤していました。夜は定時に帰ることは無かったなあ。だいたい、スポンサーの接待、代理店との打ち合わせ、経済部時代の仲間や、他社の同時期に経済部長をやっていた連中や、昔の取材先との飲み会など、けっこう忙しいんですよ。夜7時のニュースを自宅で見るなんてなかったですね。その上、土日は持ちつ持たれつの接待ゴルフ。考えると忙しかったなあ。でも広告局には支局がないから、入社すぐの若い社員が多くて活きがいい、一緒に仕事して楽しかったなあ。
 
Q.ところで、95年というと、1月17日に 阪神・淡路大震災、3月20日に 地下鉄サリン事件が起きるという大変な年だったわけですが、広告局のお仕事には何か影響がありましたか?
 
いやあ、思い出すなあ。阪神・淡路大震災の時は甲府に住んでいましたから、月曜日は朝7時前の「特急あずさ」で通っていました。金曜日に帰って、月曜日出勤。月曜の朝、朝飯を食いながら、テレビを見ていたら死者100人程度と言っていたと思います。その頃携帯電話なんてないから、会社に着いたらそれが500人、1000人、最後は4571人でしょう。

広告的には大変なダメージですよ。自粛ムードが社会全体を覆うわけです。だってそんな時に企業も「春よ来い!」なんて浮かれたアパレルの広告出せないですよ。もっぱら名刺タイプの“お見舞広告”になるんだけど、売り上げは減るよね。さらに3月にはオウム真理教事件、いいことないよね。
 
Q.日本経済の関係で思い出すのは円高の進行です。手元の年表を見ると1995(平成7)年4月19日には  1ドルが79.75円と戦後最高値を付けました。この頃の広告という面で特に印象に残っていることがありますか?
 
バブルは崩壊したけどその余波はまだあって、経済界は落ち着かないうえ、阪神・淡路大震災、オウム真理教サリン事件、青島幸男知事の都市博中止、広告局にとって円高のメリットなんて感じられなかったな。政府(社会党出身の村山富市首相)は14兆円の景気対策を打ち出すんだけど、従来型の公共事業中心でした。日本経済の「失われた30年」のスタート時期でもあったわけです。
 
Q.95年はWIndows95が発売されて、一般個人にとってパソコンが身近になるエポックでした。また、インターネットの商用プロバイダーが登場して、インターネット元年と言われました。主要全国紙はいちはやくニュースを提供するホームページを開設しました。毎日はJamJamでしたね。そのことは印象に残っていますか?また、広告という面では、当時どの程度影響があったのでしょう?
 
そのころは「ワープロ」が主流で、ネットがこんなになるなんて夢にも思わんかったですよ。記者もポケベルの時代だったと思います。とにかく上から目線で「ネットなんて一時のはやり、情報は新聞がいちばん」と威張っていたんだから。

JamJamのことはうっすら憶えていますよ。メディア事業局が「広告も協力してよ」と言ってきたけど、適当にあしらっていたんじゃないかな。今考えれば、きちんと協力してタッグマッチを組んでいたら大きな収入源になったと思うなあ。ホント先行きが見えないんだよね、毎日新聞の佐々木さん(笑)。

今でも思い出すんだけど、あのころ新宿・初台にあったマイクロソフト本社に成毛眞社長を訪問、毎日小学生新聞と組んでメディアミックスの企画をやりませんかとアプローチしたことがあるんです。成毛さんが不機嫌そうに断ったことを記憶しています。おそらく将来性のあるマイクロソフトと本紙の「毎日新聞」ならともかく、「小学生新聞」の企画を持って来るとは---。将来性を見通せないおじさんと思われたんだろうな。今Facebookで成毛さんのページを読むと、ホント先の見通しのすごい人ということが分かります。断わられて当然だね。
 

<毎日新聞が1995年8月に始めたニュースサイトJamJam(『毎日の3世紀』2002年2月刊から)>

◆成功体験ののちの「失われた30年」

 
Q.さて、広告局在任の5年間は、91年のバブル崩壊後のいわゆる「失われた30年」と重なります。振り返ってどんな思いがありますか?
 
失われた30年と聞くと、吉見俊哉さん(東大名誉教授)の『平成時代 失敗とショックの30年史』というのを数年前に読んだことを思い出します。やっぱり本当に間違えたって、つくづくそう思いましたよ。土光(敏夫)さんとか、稲山(嘉寛)さんとか、永野重雄さんとか、ああいう戦中戦後を生きた人たちが作った世界を継承した我々の世代っていうのが、ある意味では全然頑張らなかったってことなんでしょうかね?
 
評論家・鶴見俊輔の晩年の著に「敗北力」という本があって、鶴見は「国が負けても、その負けたことを「力」に変える、つまり「「敗北力」で再度、国を立て直す「力」を持つことができる」だと言うんですよ。確かにそうだと思います。経済の世界では、東芝の土光(敏夫)さん、新日本製鉄の稲山(嘉寛)さん、永野重雄さん、ソニーの井深大さんなんかは、「敗北」からナニクソーという力を発揮したんですね。政治の世界では吉田茂首相、池田勇人首相なんてその「敗北力」を生かした代表格だろうな。ついこの前まで戦っていた米国を利用して、高度成長の地ならしをしたんだから。

経済界もその波に乗って高度成長を遂げ、バブルの時代まで突き進んだと思います。しかし戦後生まれの“戦争を知らない世代”は土光さんや、稲山さん達が築き上げた“ジャパン・アズ・ナンバーワン”の時代をそのまま継承すれば、うまくいくと考えて、その路線を突き進んでいたんだと思うね。でも結果としては、「24時間戦えますか!」なんてCMで尻をたたかれながら働いていたけど、結局、企業は自己防衛、リスク回避、慣例遵守の道を歩んでいたんだと思いますよ。
 
Q.とはいえ頑張ったんでしょうけど、頑張り方がどうだったかなっていう点はどうなんでしょう?
 
私が吉見さんの本を読んでいて、頑張り方の手法っていうのが、ああなるほどかなと思ったのですが、ソニーがウォークマンを出して、それで大賀さんとその後の社長の時代になって、事業部制にしたということがありましたよね。毎日新聞も事業部制っていうのをやったのですが、事業部ごとに競わせるっていうことは、自分たちの持っている中身を公開しないで、その壺に入っちゃって、その中で動いてるっていうことで、新しい発想が出てきません。将来の展望っていうのは、読み切れないシステムだっていうのを吉見さんが指摘しているんですよ。うまいこと言うなあと思いました。
 
この前、新聞を読んでいて「この30年の長期停滞で日本の人口の60%が成長体験がないまま現在に至っている。日本人の大半が「成長を知らない人々」」という指摘がありました。今回日銀が17年ぶりに“ゼロ金利”の金融政策を転換しましたよね、上手く行くのかなという心配してるんですが---。
 
Q.でも日本経済にもチャンスはあったと思うんですが。
 
それは本当にそう思います。
シャープだとかサンヨーだとか、本当はiPadとかiPhoneだとかいう方に行けたのに、家電一本槍で攻めたということで、結局、今の情報とデジタルの時代というのをみんな読み通せなかったのですね。それで、その儲かった銭を、土地だとか株だとか信用取引だとか、そういうものにつぎ込んで、結局ドブに捨てたんです。一方、サムスンなんかは歯を食いしばってやってデジタルの方向に行って、世界のトップに登り詰めるわけでしょ。
 
びっくりしたのは、この前Wright Investors' Service, Inc.が発表した、1989年の世界時価総額ランキングと、同社の作製した昨年の表をみていたら、1989年には上位50社のうち32社が日本企業でした。それが2023年のランキングで上位50社でゼロ、2年前はトヨタ自動車が35位でした。これを見ると、本当にびっくりします。これほど激しい落ち込みだったんだよね。だけど、あらためて思うのは、34年前の当時の日本の経済界の鼻息の荒さ。これは本当はすごいと思います。 

<Wright Investors' Service, Inc.>

 

<Wright Investors' Service, Inc.>

 
Q.その成功体験が大きすぎたんですかね? 
それもあるけど現状維持がいちばんと思っていたんじゃないかな。家電メーカーのインド攻略で、韓国のサムソンが冷蔵庫の売り込みで、カギをつけたものを投入したんだそうです。使用人の盗みが多いので---。これが当たって日本製は駆逐された、という話を当時聞いたことがあります。まあ、マーケッティングに抜かりがあったんでしょうね。現状維持でだいじょうぶという、成功体験が大きすぎたんでしょうね。
 
Q.自ら変わろうという切実感はなかったですよね。
 
そこの部分はやっぱり、戦争体験だとか、戦後の焼け野原から立ち上がってきた人たちのガッツというか、オレについてこい―それに安穏に乗っかっちゃって、次に来る社会を見通せなかったということかもしれませんね。だけど現代は、「不適切にもほどがある」という今流行りのドラマではないですが、無茶苦茶なオーバーワーク、パワハラ、セクハラは当たり前、家庭は女性に任せきりなどという、その時代の文化が否定されている時代でしょ。どうなるんだろう。
 

◆アメリカとの文化の違い

 
Q.そうでしょうね。私のことで恐縮ですが、95年前後に、特にITネット分野に関わって、私自身も97年にネットビジネスで起業したわけですけども、その頃の感覚から言うと、見通していた人はいくらでもいたんです。ただ、そういう人たちはみんなベンチャーだとか、あまり権威がない立場にいたので、東芝とか日立とかNTTとか、そういう権威ある大企業の下でしか動けませんでした。それで、たとえば通産省が補助金を付けるのも、そういう親分たちに付けて、そのおこぼれが裾野の方に回ってくるわけです。本当は、大元の構図や作り方自体がおかしい、こんなんじゃ絶対に次に行けないと分かっていても、声なんか聞いてもらえないし、権威構造で下の方にいるわけですから。だから、これはこのままじゃ絶対ダメだろうなとは少なくとも思ってました。
 
“突破力”がなかったんだろうな、その辺のところっていうのは、アメリカなんかはなんであんなにうまくいったのでしょうかね?
 
Q.当時アメリカに行くと、西海岸のシリコンバレーなんかは誰でも会ってくれるんですよね。ニューヨークなど東海岸の権威主義のところは多少違うかもしれないですが。そういうことで、新しい話やら面白いやつっていうのには話を聞いて、それがいいと思ったら即判断する。文化の違いはもうすでに当時からものすごく感じてました。
 
今、校條さんが言われたような観点でいうと、ぼくの広告ビジネスっていうのも、新しい広告っていうか、それを模索していくべきだったというふうには感じますね。結局ぼくたちなんかがやってたのは、毎日新聞が落ち込む時間を何とか遅くしようということで、朝日に全面広告が出たら4段でいいから毎日に回してくれとか、半分でいいから回してくれみたいなことで床に頭にこすり付けてやっていたみたいな感じと言っていいかもしれません。
 
ぼくもシリコンバレーを、当時、経済人たちのグループで見に行って、ベンチャー企業のトップたちに会ったことあるけど、日本の経済人たちはスゴイね、スゴイねっていうけど、日本じゃ無理だよねー、て終わりなんだよね。そこのところっていうのは、いまだにそうじゃないのかなあ。
 

◆新聞広告のグレーゾーン


 アムウェイって会社があるでしょ。「日本アムウェイ」、化粧品を主に扱っている。アメリカの会社で、よくマルチ商法(連鎖販売)と言われたりして問題になる。
 
Q.ネットワーク販売というやつですね。
 
あそこのたしか広報部長と、女性なんですが、親しかったんですよ。経済部長時代から。
 
Q.あそこは女性多いですよね。
 
そうそう。化粧品なんかやってるからね。この化粧品がよく効きますよって言ってくると、他のところに行ってまた売ると、素人でもマージンが取れるっていう商法。当時、新聞協会には広告倫理委員会というのがあってアムウェイは、マルチ商法に近いという事で広告を載せていいいか、載せてはダメかがギリギリの線上だったんです。

アメリカが親会社だから、それほど悪どくはないわけです。スレスレなんで、広告を載せることについて、かなりみんな躊躇していた。ぼくは何回かアムウェイの広告を載せました。記事も書いてもらったと思う。記事体広告だったか。そんなこともあって、長野五輪の開会式に招待されたんです。アムウェイは公式スポンサーになっていたから。長野県の大町のホテルに一泊して、長野まで行き五輪の開会式見ましたよ。
 
広告っていうのも追い込まれるとそういうところに手をつけるんですね。別にアムウェイが刑事上の問題を起こしてるとかいうわけじゃないのですが、でもやっぱりそういうところと関係をどうしても持たざるをえないわけですよ。だからそれはやっぱり弱小の広告局としては辛いところでした。
 
Q.なるほど。それはよくわかりますが、編集の方と両方経験されたっていう意味では、表からの取材ではない実体験的な、もっと生々しい取材をしたっていうことも言えるんじゃないですか?
 
そうですね。前回、言ったけども、宴会では上座の編集局と下座の広告局の違いだよね。そういうのは体験しないとわかりません。上座の編集局の連中は、みんな偉そうに、今の首相の政策はどうだこうだとか言ってれば済むんだけども、そんなこと言ったってこっちは一銭にもなんないからね(笑)。だけど向こうもはっきり言う人もいましたよ、佐々木さんは広告局だからねって(笑)。
 

◆広告局は結婚式が多くてたいへん


 Q.広告局長に就任されましたね。
 
ぼくは基本的に楽しかったですね。ぼくは広告局長になるつもりもなかったし、そんなに自分で望んだポストでもなかったんですがね。だから、本当は企画開発本部長から論説に行ったりとかなんかっていうのはあったと思うんです。編集局の連中と酒飲んだときに、お前これからどうするんだって言われて、責められたことがあります。広告局長になるつもりか、論説室に行きたいのか、どっちなんだと、もうはっきり決めた方がいいぞとか言われて。まあ、そういう人事の話はあんまり言っちゃうとまずいから、だから「分かんねえよ」とか黙ってたけど(笑)。でも論説に行ったら、それはそれで面白かったかもしれないですがね(笑)。まあ、論説より、広告の方が向いていると思われたんだろうね。
 
Q.局長になって、それまでと何か変わったことはありますか?まず坐る位置が変わりますよね。気持ちの上ではどうですか?
 
前の局長は石井国範さんといって、局長から役員会の広告担当の常務になられました。だから局長室は広告担当常務室になり、当方の席は大部屋の一角です。ぼくの女房の妹の亭主が、民営化されたばかりのJR東日本の役員をやっていたんだけど、「局長室ってすごいところに鎮座しているんだろう」と見に来たことがあるんです。ところが大きなフロワーの一角にチョコンとデスクがあるのでビックリしたようでした。

局長室には石井さんがデンと座っていました。でも石井さんは、本当に面白い人で、ぼくは好きでしたね。“瞬間湯沸かし器”と陰で局員が言っていましたが、飲むとぼくの目の前で若手に「オマエ、編集局の佐々木に局長のポストを取られて悔しくないのか、悔しかったらあの広告取ってコイ」なんて平気で言うんですから参いっちゃうんです(笑)。広告業界では有名人でしたね。
 
でも本当に広告一筋に生きてきた人で、スポンサー、代理店の付き合いなど本当に勉強になりました。最後は副社長までなられましたが、その後も、年に3、4回電通の元副社長、他社の元広告担当常務、大手飲料メーカーの担当者などと中野で飲み会をやっているんです。言いたい放題の「不適切にもほどがある」話ばかりで、ホント楽しい飲み会。今は毎日新聞のOB会の「毎友会」の会長をやられています。石井さん、最近目を悪くされて、心配しているんです。

毎友会の2017年度総会で挨拶する石井国範さん

 Q.編集局時代と比べて、所属の社員の違いってありますか?
 
広告局の連中っていうのは割と純情で若い人が多くて、基本的に入社してすぐ広告局に配属になってるでしょ。支局経験がないから。
 
ただ困っちゃうのは、結婚式が多いんだなあ(笑)。ひとりにつき毎月5万円くらい、時にはふたりなんて時も。当時は甲府の家に“金帰月来”、交通費はかかるし、子供たちが大学入学など、人には言えませんが、大変な時期で参りました。ご祝儀が何ヶ月も続くわけですよ。それは会社から出してくれないですからね。

それ以外にも冠婚葬祭がまたすごいんです。クライアントとか代理店の。それは来たとか来なかったとか、そういうことになるわけですよ。いや、もちろんそんなこと口に出して言わないけど、あんたこの前は来なかったから、今回は出さないとかさ、そういうことは避けたいから、必ず行くんです。だから、喪服は必需品でした。会社のロッカーに黒ネクタイとセットで置いていました。
 
Q.水戸支局であつらえてもらったのを、ずっと使っていたのではないですかね?(笑)
 
そう、水戸支局であつらえた冬用のやつだったから着たけどさ、夏用のやつもちゃんと作りましたよ(笑)。
 
Q.クライアントの葬式なんかだと、香典は社費で出ますか?
 
それは出ます。あとは花を贈ったりとかね。格式によって、この人に花を贈ったりとか、世話になってるからとか、それから毎日新聞への広告掲載を推してくれたりしたからとかね。会長からずっと末端まで送りますよ。葬式やなんかだったら行きます。だけどさ、笑っちゃったのが、思い出したけど、僕が企画開発本部長の時、広告局長が石井さんのお父さんが、亡くなったんです。中野坂上の宝仙寺だったかな、葬儀があったんですよ。
 

◆鬼十則の電通今昔


 電通は社長以下参列しましたが、電通の毎日担当の入社して間もない若い社員ももちろん来ました。そうしたらちょうど彼の前後のご焼香の列の間が空いたんです。焼香するのは、彼ひとりだけになっちゃったんですね。大体若い人は横の年配の様子を見ながら、焼香台にお線香を焚いている香炉の鉢に、脇の小さな香炉から灰を3回つまんで入れるじゃないですか。ところが、なんと線香を焚いてる方の熱いやつを掴んじゃったわけですよ(笑)。それで、そこの遺影写真の前でさ、大きな声で、「アッチ、熱イ、アッツイ!」と飛び上がって、ぼくと局次長が見てて、なんか吹き出しそうになって(笑)。でも吹き出すわけにもいかない。葬儀が終わった後で、電通のキャップを呼んで、「葬式のマナーくらい、部下にちゃんと教えておけ!」といったけど、おかしかったな!

彼は東北大学の工学部卒かなんかで、半導体の開発でノーベル賞の候補になった西澤潤一さんの弟子だったかな?アメリカの科学雑誌「サイエンス」に論文が載ったという人でした。「なんだ国立大学から電通なんか入って、税金ドロボウだな!」(笑)なんて冷やかしていたりしていました。そうしたら、広告局で一番美人のハーフの女性と結婚しちゃいましたよ(笑)。実際、代理店の人たちも若い人が多かったですね。
 
ただ、電通では、2015年、高橋まつりさん(当時24歳)が自死しましたね。長時間労働の問題で。ぼくが付き合っていても、体育会体質はすごくありました。今でも覚えてるけど、毎日の我々と電通の毎日担当の若い連中との飲み会を、四谷にある東京ガスのアーバンクラブでやったことがありました。そこでいちばん若いやつだったかな。とにかく飲め飲めって飲ませられて。それでもう、へべれけになっちゃって、帰りなんか、階段から落ちるわ、横断歩道をフラフラに出て行っちゃうわ。よく無事に帰ったなと思いましたよ。そういう風なこともあるし。
 
旧日本の軍隊式、とにかく入社1年違えば、下士官と上等兵みたいなもんで、すごかったねえ。だから、あの事件のことを聞いて、ああなるほどなと思ったですね。とにかく「電通鬼十則」というのがあってそこには「取り組んだら放すな、殺されても放すな」という項目もあるんだからスゴイよね。高橋さんの事件後、消えたようだがホントそういう感じだったな。
 
その高橋さんの事件後、3、4年前かな、夕方6時くらいに電通に行ったことがあったんですが、そうしたら入り口からエレベーターにたどり着けないんですよ。なんでかというと、どっと社員が降りてくるわけです。6時退社で。昔はそんなことなくて、夜の9時、10時、12時に行ったって平気でしたからね。まあ、そういうのは博報堂も同じでしたよ。
 
Q.ああ、そうでしょうね。私も付き合いがありましたけど。まさにそうでした。
 
まあ、みんなそういう時代だったんだろうけどね。だからそれで、不況だってみんなでやれば頑張れるんだということだったんでしょうね。
 
Q.成せば成るっていう感じですね。
 
そうそう、成せば成るなんて、いくつかの大企業の社長室の壁にかかってましたよ。あれが昭和の時代だったんだろうね。
 

◆孫正義さん、受賞式の涙のわけは?


 もう一つついでに、面白い話を思い出しました。「毎日経済人賞」というのがあるんですよ。これはわりと権威がある賞です。選考方式をかなり中立的にして、生命保険会社の研究機関の人を審査員に入れたりして、革新的な経営を実践していたり、革新的な商品を出した経済人を選んで表彰するんです。ある年(1995年)にソフトバンクの孫正義さんが選ばれたんですよ。孫正義という人はその頃本当に世に出たばっかりの人だった。審査委員長は当時、経済評論家として有名だった日銀の吉野俊彦さん。森鴎外の研究家でも有名でした。毎日新聞からは元経済部部長、エコノミスト編集長で論説委員の田中洋之助さんが審査員でした。それで審査の結果、孫正義さんが選ばれたんですよ。
 
そうしたら、孫さんがそういうことに選ばれたっていうのは初めてだったんですね。その時、彼が如水会館で行われた受賞者挨拶で、こういう賞をいただいてっ!て泣きながら話したんですよ。
 
自分が子供時代に、親父が在日朝鮮人で、九州・佐賀で残飯をリアカーで集めていた。それを私は押して家まで運ぶのを手伝っていた。そのぬぐぬぐした手の記憶は、今でも忘れませんと言うようなことを話したんですよ。その時、彼が泣いたんです。なるほど、こういう人だったのかと思ってね。その後、彼は東大なりハーバードなりに行ったりするんだけどさ。やっぱり、そういう在日の苦労だとか、貧乏の時代の苦労っていうのをしのいで、あそこまでなったっていうわけです。あの当時、まだ携帯も出していなかったんじゃないのかな。経済人賞を授与したというのは、広告局が勧進元をやってたので今でも孫さんの姿を覚えてますよ。
 
Q.選んだ方も大したもんですね。今日は終わりの方はいいお話でした(笑)。部数が減るのと広告が減る話だけじゃなくて。
 
部数!これには泣かされたな。本当に基本的にはそれだけなんだよ(笑)。いや、まあ、散々苦労した。
 

◆新聞社の文化・スポーツ事業の意義とそれを支えた広告局


 でも褒められついでに、日本の新聞が果たしてきた役割への評価が無視されていることを話したいですね。
 
Q.何ですかそれは?
 
広告局に行って目からウロコだったんです。昨今、新聞業界への批判が盛んで、極端な例では“マスごみ”“反日記事”というような言葉まで投げつけられていますよね。しかし、新聞が果たしてきた文化面への貢献についての評価がまったく抜け落ちていると思うんです。
 
前にお話した小中高の生徒を対象にした「青少年読書感想文コンクール」の開催はその代表例です。最新の回では、全国2万3822校、265万4235編が応募している。日本の出版文化に基礎から貢献している毎日新聞が誇っていい企画だと思います。
 
野球の選抜高校野球、今年で100周年。高校野球を普及させた意義は大きいですよね。さらに92回続いている日本音楽コンクール、毎日出版文化賞、毎日映画コンクールなどが果たしてきた役割は誇っていいと思います。たとえば、かつては毎日コンクールと呼ばれた日本音楽コンクールはクラシック音楽界の新人の登竜門になっています。いまではNHKも共催に加わっています。
 
Q.音楽コンクールは、かつて社内では「音楽ソンスール」などと陰口をたたかれたとききました。
 
よく知ってますね(笑)。それでも意義ある事業として続けたんですよね。おそらくN響の各楽器のソリストたちは、ほとんどその受賞者ではないかな。
 
ここで強調したいことは、賞を支える協賛企業などを集める役割を、「新聞社」の広告局が担ってきているということを忘れて欲しくないということです。
 
他社でも朝日新聞は夏の甲子園・高校野球、出版では「大佛次郎賞」などがあり、ぼくが書いた『封印された殉教』(2018年、フリープレス社刊)を直木賞作家の井出孫六さんが、もちろん受賞には至らなかったけど、この本を「大佛次郎賞」に推薦してくれたことはホントうれしかったですよ。この賞が作家、学者、ライター、文化人にどれだけ励みになっているか実感しました。

また、モナリザ展、ミロのビーナス展、ツタンカーメン展など、朝日新聞が果たした美術展の貢献もすごいと思う。
 
読売新聞も「読売演劇賞」、正月の「箱根駅伝大会」、読売巨人軍などなどいろいろあります。また正力松太郎社長のテレビ局創設への貢献も忘れられませんね。

忘れてはならないのが「将棋」、「囲碁」に対する各社の貢献です。将棋は「王将戦」、囲碁は「本因坊戦」などタイトル戦が数多くあります。この主催者は各新聞社で、バックアップするスポンサーを探すのが、広告局であり、事業局なんですよね。話題を呼んだ将棋の藤井聡太名人との対局もこういうスポンサーがあるからできるんですよね。

ぜひ新聞社のスポーツ、文化への貢献を忘れて欲しくないし、それを支える広告局や、美術展などをバックアップする文化事業局などの存在を忘れて欲しくないと言いたいです。マスコミ論ではあまり取り上げられないけど、ネットメディアがこういった文化・スポーツ事業を展開できるのか、考えて欲しいとも思います。         (以上、広告局完)