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ある新聞記者の歩み 32 おみやげをもらう立場から持って行く立場への大転換(広告局の巻第1回)

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー。佐々木さんは、編集局経済部長のあと、思いがけず広告局への異動を告げられます。それは記者生活から離れることを意味します。記者と広告部門をともに経験した人の証言はたいへん貴重です。今回から3回にわたって広告局時代のお話を伺います。(聞き手=校條諭・メディア研究者)


 

◆経済部と広告局の違いは上座か下座か、おみやげをもらうか持って行くか

Q.佐々木さんは、1993(平成5)年の4月に、経済部長から広告局企画開発本部長に就任されたのですね。以前の回で、記者の多くは会社の売上に関心が無いという話をお聞きしましたが、まさに大きな売上をかせぐ部門に移られたことになりますね。
 
普通は経済部長を終えると、“交番”の編集局次長などになるケースが多いんだけど、畑違いの広告局に行け―というのでビックリしましたね。広告局というのは編集局の裏と表みたいな感じです。編集局はお金は稼がない、それでいて社内では大きい顔しているわけ。だけどその金を稼せいでいるのは広告局なんですよね。

注)編集局長の席の前で、毎日朝夕・交番会議というのが行われる。交番の語源は、「交代の当番」とか「交番のおまわりさんのように紙面に目を光らせている」など諸説ある。第30回参照。 

Q.でも販売収入が大きいじゃないんですか。
それはそうだけど、販売店の売り上げは(会社から見れば)販売戦線の競争に経費がつぎ込まれて戻っていく感じです。だから言ってみれば広告局って「紙面」を「お金」に変身させるマシーンなんですよね。まあ、コスパから言えば濡れ手に粟ですよね。紙面に載せれば1ページ全面広告が本社(東京、中部、大阪、西部)によって300万円とか600万円とか、全本社通しなら千万円単位のお金になる。それに人手も販売局に較べれば、広告代理店が間にはいってくれるからマージンは取られるけど、すごくコストパフォーマンスがいい商売なんですよ。
 
ただこの時、ぼくが何で編集局からそういうところに行かざるを得なかったかというのは、各社ともバブル崩壊による不況時代に入っている時期で、経済部長から広告局というのはコースになってたんですよ。経済部長時代の経済界への“顔(かお)”を利用しようという事なんでしょうね。余裕のあった朝日、日経はそうでもなかったけどね。読売もそうだし、産経なんかもそう、同時期の経済部長が広告局長になっていましたね。それでぼくが行ったのは、おそらく甲府支局で高校野球の別刷りとか、NHK大河ドラマの別刷りといったいろんなことをやって、編集よりも営業的手腕の方が評価されたんだと思います(笑)。
 
この時もうすでに毎日新聞の部数が相当低落してた時期で、公称ではずっと450万部でしたが、それがだいたい400万部すれすれか400万部を切ってるだろうって言われてました。読売が700万部越え、朝日は600万部くらいじゃなかったかな。各社、販売戦線では事実上の倒産―新旧分離で、販売経費などがあまり使えない毎日新聞をターゲットにしていた感じですね。
ぼくが在任中に東京都内で、日経に部数が抜かれたということは噂として出てました。それを知らぬは編集部門ぐらいだったみたいな感じなんだけど(笑)。一方、(広告主の)企業や広告代理店だとかは、綿密な市場調査をしてみんな実部数を知ってるわけです。こうなると企業広告だとか、全面広告なんかでは読売と朝日と日経だけに載せて、毎日をはずすっていうのが増えてきます。それでこれを追いかけて、「全面じゃなくても半面でもいいからちょうだいよ」って、代理店とタッグを組んでクライアント(広告主企業)にお願いするのが、重要な仕事になるんですね。朝日なんかは「紙面はきついけど載せてやる」という感じじゃなかったかなあ。
 
毎日の広告局は、朝日に○○社が全面広告を打つという情報を代理店から聞き込んで、○○社を招待して一席持つんです。その時、経済部と広告局が何が違うかっていうと、編集局のときは宴会に行くと、取材担当の経済部は常に上座なわけ。経済部長なんて当然そうです。ところが我々広告局は常に下座なんですよね。
 
Q.クライアント優先ということですね?
 
まさにそうです。それで向こうがおみやげを持ってくるわけですよ。こっちもおみやげ持っていくわけ。それで宴会が終わるとその場で交換するんです。たとえば「せんべい」とか「おまんじゅう」だとか、果物だとかそういうもんです。それにすごくみんな頭ひねるんですね。それなりの有名店のものを出すんですよ。果物だったら「銀座千疋屋」か「新宿高野」という感じ。
 
Q.おみやげって本当のおみやげ、手みやげなんですね。
 
そう、手みやげです。新橋・目黒にある小川軒のレーズンサンドとか。そういうのをそれぞれがみんな持ち寄って交換するわけです。だから経済部から行くと、その景色が異様に見えてね。経済部記者だったらいつもおみやげもらって帰るだけですよね(笑)。絶対おみやげなんて持っていかないですからね。その辺のところはホントびっくりしましたよ。文化が相当違うっていうことで。でも広告掲載という点では、あまり効果がなかったような気がします、残念ながら。

◆小笠原に飛行場をつくるためのシンポジウム開催

 
Q.その中での企画開発本部って、具体的にどんなことをやるんですか。
 
広告局が期待しているのは、経済部で培ったコネを生かして新たな出稿につなげてほしいということですよね。でもこれはなかなか難しくて、広告局の企画開発本部というのは、編集局の社会部、運動部などからの連中がゴロゴロいるわけです。社命で出すわけで、各部ともエース記者は出てこないよね。どうしても2,3年ならはずしてもいいよみたいな記者が多くなります。それを集めてやるわけです。水滸伝の梁山泊みたいな感じで、面白い奴がいたなー、家庭的に問題を抱えたり、サラ金で自己破産したり、でも記者としては優秀な人材が多かった。
 
Q.エース記者ではないけど優秀な記者・・・ですか?
 
そう!どこの組織にもいると思うけど、仕事はできるけど上司と反りが合わないとか、ツボにはまる上司が来るとみるみる成績を上げる奴とか---。編集局でもそうで、担当官庁で気の合う役人、たまたまそれが時のニュースの中心にいたりすると特ダネ連発、そうじゃなければ抜かれてばかり。そうなると上の覚えが悪かったり、反対に良くなることも。ぼくも経済部の時、官庁担当だったころ、キャップと反りが合わず原稿を書かなった。そしたら部内で飛ばされたな(笑)。
だから企画開発本部でも都庁担当などで、こちらのツボにはまるポジションを押さえている記者がいて、ほんとスムーズにいったなあ。その例が小笠原シンポでした。

企画毎年夏の1週間クルーズ船に一泊して、東京から千キロ離れた小笠原諸島でシンポジウムをやるというのがありました。小笠原の父島に飛行場を作ろうという島民の願いがあるんです。それを東京都が受けて、東京から講師を招いて現地で「飛行場誘致シンポ」というのを毎年やったんですよ。都から“離島振興事業”として相当なお金が出て、それなりの講師を招いて、お客さんを毎日旅行社が募集して、小笠原観光とシンポジウムを合わせるというような仕掛けのプロジェクトなんです。帰ってから見開きで都庁買上の見開きページを作るわけです。だから都庁のその部署に顔の効く記者がいなくては困るんです。
 
Q.記事仕立ての「企画特集」というやつですか?
 
そうです。今、日本経済新聞が「DX(デジタルトランスフォーメーション)をどう企業経営に生かすか」とか、「生成AIは今後の社会をどう変えるか」などといったシンポジウムを伴った企画広告が連日出ていますよね、あれがそうです。SNSなどを見ていて、「連日あんな企画広告ばかり出していて、けしからん」なんて投稿が出ているけど、ぼくなんか裏を知っているから、ホント大変だなと思うなあ。でも中身を見ていくと、記事より話し言葉で書いてありわかりやすいなと思いますがね。

一般紙を見ていると、そういう企画も出来なくなっていると感じで、その基礎体力の消耗ぶりに愕然としますね。
 
Q.毎日旅行社が募集したお客さん達っていうのは一般の人達ですか?
 
そうそう、まあ普通の旅行好きな人達ですね。そういうテーマに特別関心があるっていうわけでもないというか、まあ一応関心はあるんだろうけども(笑)、ホエ―ル・ウオッチング(クジラ見物)ができる小笠原旅行が安くて行けるっていうことで来た人たちですから。でもクルーズ船の中では“恍惚のブルース”で有名だった歌手・青江三奈の“歌謡ショウ”をやったり、小笠原のシンポジウムのあとに島民を対象とするショウを企画したり、それなりに大変でしたがね。まあ、芸能プロダクションのプロモーター役のようなもので(笑)。でも会場の小学校の講堂には島民の人はかなり集まりましたよ。
 

◆日韓国際環境賞では韓国で“爆弾酒”を一気飲み

 
それから、今も続いているのは、「日韓国際環境賞」です。日韓の環境問題を現場で実践、成果を上げている人たちを顕彰しようという賞を作ったんですよ。これは毎日新聞の提携紙である朝鮮日報と毎日新聞が、表彰式はソウル・東京で交互にやりましょう、ということでやったんです。こちらから朝鮮日報にも行ったし、彼らも向こうから社長が来てうちの社長と会ったりとか。いろいろ経緯はあるんだけども、そういうのを作ったんですよね。これのスポンサーを日本側としてどうするかとか。韓国側は韓国側で朝鮮日報が集めたり。向こうはそれこそ韓国を代表する大新聞ですからね。それでいろいろと動いて、お金は当時から環境問題を騒ぎ始めた頃だったから、けっこう集まりましたよね。

第29回日韓国際環境賞の記事(毎日新聞2023年10月20日)

シンポジウムを終えた後、見開き2㌻の紙面を作るんです。見開き紙面を作るには製紙会社に支払う紙代など原価で、やっぱり2000万(円)とか3000万ぐらいは必要です。全国通しでやるにはいくらという計算ができるから、そういう計算の上で各企業に当たってお金をもらうわけですよ。一口いくらみたいな形でね。
この頃の時代っていうのは日韓関係が、朴正煕、全斗煥大統領の30年間の軍事政権が終止符を打ち、それこそ金泳三大統領(1992~97年)と、次が金大中の大統領(1998~2003年)民主化時代に代わった時代だから、今みたいにややこしい感じじゃなかったんですよ。どっちかというと日本が経済面で大幅にリードしていた時代で、韓国が必死になって追いつく時代でしたからね。

だからそういう意味ではすごくいい感じで、ソウルにも行き「朝鮮日報」側と打ち合わせをして、それで夜なんか朝鮮日報幹部と、日本側のメンバーでご苦労さん会を兼ねて酒飲み会をやるんです。ほら向こうは爆弾酒ってあるじゃない?知ってますか?ジョッキにビールを半分ついで、半分ウイスキーを入れて作るんです。それを乾杯して一気に飲むんですよ。飲んだ後にコップを逆さかにして全部飲んだことを証明するんですよ。とにかく参っちゃうんだよね(笑)。僕が一応訪問団のトップでしたから、それを飲み干せないとダメだとか。

 
Q.すごいですね。でも、佐々木さんはそれほど苦もなく飲めたんじゃないですか?
 
いや、そうでもなかったですけどね(笑)。東京の駐日韓国大使館の連中とも事前相談をやったんだけども、終わって麻布の韓国料理屋で爆弾酒やらされてひどい目にあったね(笑)。
でもこのイベントを通じて韓国人のパワーというか、仕事の進め方のすごさを見せつけられましたね。今や日本は韓国にも経済力で追い抜かれそうですが、なるほどなあ、と思いましたね。
 
韓国側の準備だとかなんかっていうのは、なんていうのかな、もう“火事場のクソ力”でね、土壇場ですごいんです。とにかくね、ソウルの一流ホテルのイベント会場で午後1時ぐらいからそのシンポが始まるのに、2時間前の11時過ぎ位までその前の会議をやってるわけですよ、同じ会場で。日本だとちょっと考えられないけど、それでだいじょうぶなのかって言ったのですが、会議が終わった瞬間にワーっと何人も来て、ダーッとやっちゃうんだよね。「日韓国際環境賞シンポジウム-『朝鮮日報』『毎日新聞主催』」なんて、大きな看板を会場に掛けるとかなんか、あっという間。会場入り口で資料を配るだとかなんかっていうのは、ホントにスムーズ。日本人みたいに、順番にやっていくみたいな感じじゃないんですよ。そういう、なんていうか火事場のクソ力っていうのは、この国の人たち本当にすごいなと思ったね。
 
この日韓国際環境賞、今もやってて30年近くになるんじゃないかなあ。 毎年、毎日新聞の紙上で受賞式の記事なんか見ると、この賞「俺が作ったんだなあ」なんて思うことがありますよ。その時、一緒にやってくれた広告局の国際営業部長の森修策君などが実務を本当によくやってくれて、今でもその当時のことを肴に年に2、3回は飲み会をやっています。イベントがうまくいって、帰りに済州島でゴルフをやったのもの忘れられないなあ(笑)。
  

◆儲かった「複雑性シンポジウム」 電通がスポンサー集めに奔走

 
それから一番大変だったのは、広告局に行って最初のイベント「複雑性のシンポジウム」というのがありました。これは地球温暖化など、バタフライエフェクトではないですが、地球上の複雑化したあらゆる問題が予想外の問題を引き起こすという「複雑性」を解明しようというムーブメントが科学の世界で起きていました。この問題に取り組んでいるカルフォルニア大学サンタフェ研究所のノーベル賞学者を呼んでやろうっていうことを決めて、確か電通が持ち込んだ企画だったと思います。ぼくも論文などを読んだのですがチンプンカンプン。以前から存じ上げていた、東大の総長もやられた俳人でもある原子物理学者の有馬朗人さんのところに行って話をしたところ、「そりゃあ面白い。やろう、やろう」ということになって、サンタフェ研究所のノーベル賞学者本人が日本に来たりして、帝国ホテルで有馬さんご夫妻とぼくらとか、科学部の誰だっけな、今テレビでもよく目にする元村有希子さんだったかな?とにかく一緒に食事会で歓迎しましたよ。
 
“先見の明”だったのかなあ(笑)、この企画、わりと企業の食いつきがよくて、けっこう儲かったんです。電通も買い切りでやってくれたんだと思うけど、電通新聞局の毎日担当キャップの辻井敏博君以下、、3~4人の若手メンバーを筆頭に一生懸命やったし、ぼくらも一生懸命やりました。キヤノンだとか東芝とかNECとか、そういうところが協賛してくれてうまく行きました。あとで辻井君などに聞くと「編集局からきて経済部長までやった人の顔をつぶすわけにいかない。でもホントにあれは大変でした」というんだなあ、うれしいじゃないですか。今でも付き合いがあります。
 
広告局企画開発本部はそういう企画をやりながら収益を上げていくわけですよ。それで協賛企業を集めるためには、大手の電通と博報堂をうまく操りながらやらなきゃいけないわけです。

田原総一朗著『電通』(朝日文庫、1984年)

 
Q.日々の広告とは違うわけですね?
 
そう、例えば週刊誌、一面の書籍広告なんかは「書籍広告部」、サントリー、トヨタ、日産、日立など大企業で新聞広告を使う企業担当が「第一広告部」なんかに分かれて日々の広告を担当しています。われわれはそういう日常的な広告とは別に、企業の特別枠で企画広告をもらって、売り上げ増に貢献するというのが建前なんです。いわば広告局のゲリラ部隊だね(笑)。
 

◆編集局としょっちゅうケンカ

 
電通、博報堂には、毎日新聞担当が新聞局にいます。その連中がほとんど毎日来て、「どうするんですか、この企画やりますか、やりませんか」とか、「この広告はうちに扱わせてください」とか何とかというやりとりをします。それで、そういうのをやりながら広告紙面を作っていくんです。さっき言いましたが、部数が落っこってきたり、バブル後の不況で企業が広告を出さなくなってくると、こっちもいろいろ手段を考えなきゃいけないわけです。
 
たとえば四角紙面の通常のものではなく、○△などの変形広告だとか、別刷りだとか、いろんなことを考えるわけですよ。1面の広告の真ん中あたりに、普段は小さい四角形の固い広告が出るんだけども、柔らかい変形広告を出して中紙面の全面広告につなぎたい―みたいなことがあって、それを、編集局に持って行くんですが、こんな“紙面の品格を崩す”広告を1面に出すわけにいかないみたいな反応が返ってくるようなことがけっこうあるんですよ。そうすると、“編集局vs広告局”のケンカになるわけですね。
 
ぼくは広告局の企画開発本部長ないし局次長という立場だから、編集局との交渉の責任者ですよ。編集局長に頼んで何とか入れるようにしてくださいよ、と頼むわけです。その当時の編集局長は木戸湊さんという大阪本社社会部出身の方でした。それで編集局長室に行くと、「こんな広告の1面に!、お前はどう考えてるんだ?お前だって編集にいたんだからわかるだろう!」と怒鳴られるんですよ。だけど、それでこっちも帰ってきちゃ広告局が収まらないから、一応言い争いはして、ふたりで立ち上がって「ふざけんな!」とか言っているんだけど、両方とも編集局育ちですからの心中は、わかってるわけなんですよ(笑)。でも基本的には引き分けだったかなあ。編集局幹部も広告局が苦しいことはわかっているから。

Q.昨年、ジャニーズ問題で、テレビだけじゃなく、新聞も知っていて書かなった―ということが批判されましたが、大手広告代理店とか大手企業の不祥事なんかはどう対処されたんですか?
 
最終的に、載せた場合と載せない場合もあるけども、でも基本的に社会部は書きましたね。でも記事の大きさ、扱いについては、編集局とのケンカというのは、しょっちゅうありました。困るのは、大手の企業でも、東芝、日立とかトヨタとか、大手クライアントの社員が起こした麻薬事件、交通事故だとかになると、彼らも直接じゃなくて、からめ手で来て、電通がそれを引き受けて、「これちょっと、もうちょっと止めてくれませんか」とかなんかっていうことがあるわけですよ。まあそんなことで、編集局への対応っていうのはやっぱり大変なんですよ。

でも今問題になっている基準外労働時間オーバー、ハラスメント問題など電通の体質、代理店制の在り方というような突っ込んだ本質的なことなんかについては書くことが無かったと思います。ジャニーズ問題と同じように、当時は問題にしようというセンスがなかったように思います。広告局自体、そういう代理店体質に依存していたことも事実でしょうね。

でもぼくの在任中でも大手代理店の不祥事、大麻使用、酔っ払い運転、婦女暴行なんかの逮捕事件はありました。警察の逮捕事件ですので社会部は、書かざるを得ません。代理店も分かっているので「お手柔らかにお願いします」といいうくらいでしたね。書かざるを得ませんね。
 
Q.書くっていうことですね。立ち位置が違うっていうことで、書かないと新聞が成り立たないという事ですよね。他社が書いていたら、絶対ダメでしょうね。
 
そうですね。
 

◆高いぞとナベツネから電話、困ったときの東電、新日鉄

 
そういうことがあったりするから、やっぱり広告局もいろんな意味で神経が疲れますよね。でもホントにいちばんつらいのは売り上げが落ちていくことでしたね。やっぱり部数が落っこっていくのに比例して、読者=消費者への影響力が落ちるわけです。それを、クライアント、代理店はちゃんといろいろ測って正確に知っているわけですよ。たとえば広告でも、紙面に大き目の広告が出ると、下の方に資料請求とかなんか小さくコーナーがあるでしょ?
 
Q.宛名がM係とかA係とかというやつですね。
 
そうです、そうです(笑)。あれは結局、経験値として何万部についてどれだけっていう数値があるわけですよね。それが毎日新聞は、朝日、読売と比較して反応が足りないとかってことになるわけですよね。それをチラリと代理店が漏らすわけ。そういうふうなことで、段々と広告の出稿量というのが少なく落ちていくわけなんです。バブルの最盛期は、毎日の広告費の売り上げは500億(円)近くあったんじゃないかな。それがぼくの時で380億ぐらいまで落ちたのかな・・・。それで何とか450億にしたいなんて、全国局長会だったかで言ったことはあるんですが。広告局員は一生懸命にやっているんだけど、結局リカバリーできないんですよね。今はどれくらいか、言わぬが花だね(笑)。
 
一番困ったのは、読売新聞名誉会長の務台光雄さんが94才で亡くなった時(1991年)、いわゆる死亡広告を読売新聞が出すわけですよ。各社に出してくれるわけです。それでね、死亡広告っていうのは毎日新聞最盛期の時の定価なんですよ。で、葬儀後にぼくは、渡辺襄(のぼる)っていう、当時の社長に呼び出されて、「ナベツネさん(渡辺恒雄)から電話が来た」って言うんですよ。死亡広告を出したけども、請求書が来たのを見たら高い!だと。たぶん朝日と同じくらいの値段じゃないのかな。広告料金改定はしてなくて。それでやっぱり、毎日は費用対効果から言えば高いみたいな話になるわけだよね。それで渡辺社長から、ナベツネから苦情言われたぞと・・・。言われたって定価だからしょうがないでしょ(笑)。でもナベツネさんも偉いな、チャント広告局の売上げをチエックしているんだ。
 
相当思い切って部数に見合った“定価改定”しないとダメだよ、みたいな話はしたことがありますが・・・。そうは簡単にはいかないわね。広告っていうのは我々の時代の時は、困った時の東電、新日鉄とか言ってました。経済部なんかの連中が広告にもうちょっと協力してやれとか言われると東電と新日鉄行けばある程度何とかなったんですよ。あとトヨタだな。それと日本興業銀行と野村証券か。そういうところに行けば大体その担当記者の顔を立ててくれて、年1回位、定価で300万とか200万円とか出してくれたもんですよ。でもだんだんそういうのは効かなくなったよね。だから困った時のなんとかなんて、もう今ほとんどないんじゃないかな。

◆新興企業へのアプローチ不足

もうひとつは、毎日新聞広告局というより新聞社全体の広告局に言えることですが、新興企業というか、それこそアメリカで言えば新興企業のGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)のような企業へのアプローチというのがほとんど行われてなかったでしょ。経済記者もそうなんだけども、電通なんかもそうですよね。またそういう企業自体も新聞を相手にしなかった。つまり、経済構造が変化する中で、新聞がドップリ“Japan as NO1”の旧態依然の時代につかっていて、松下電器(現パナソニック)、サントリー、キリンビール、日立とかに、何とかお願いします―みたいな、成長神話に依存する構造から抜けきれなかったんだよね。
 
企業も、ソニーがウォークマンで成功したけども、成功体験があだになってiPhoneとかiPadとか、そこまでいけないわけですよね。広告業界もそういう企業との付き合いは出来始めていたでしょうが、まさかこんな時代まで進むとは思わず、時代に対応した新聞広告の提案をできなかった面もあるんじゃないかな。新聞側もそういうものに対応できる紙面、システムを、作ってこれなかったっていうところでしょうね。
 
逆に新聞を利用したのは、海外旅行を専門に急成長したHIS(エイチ・アイ・エス)ぐらいじゃないのかな。数年前になるけど、テレ東の村上龍の番組で700回記念だったか、ハウステンボスを立て直した澤田秀雄HIS社長が出てきたんです。世界各国270店あるHISの支店の連中がパソコンに出て、その国への旅行希望者に、ベトナムならベトナム、タイならタイの、同時中継で旅行に行ったような気分になってもらうというんです。見てたら笑っちゃったんだけど、昼飯になると、タイに行きたい人のところにはタイ料理屋から昼飯が届くんですよ(笑)。みんなそういう努力やってるんですね。それに合わせて新聞広告をバンバン打って、申し込みを受け付けるんだよね。
 
そういう新しい前向きな動きっていうのを、新聞もウォッチングしていくようなシステムにしていかないと、やっぱり取り残されるよね。もちろん、大震災や飛行機事故といったニュースも重要だし、それは基本なんだけど、広告はそういうところに本当に目を向けていかないとちょっと困っちゃいますね。でもその頃、インターネットなんて見向きもしない時代だからなあ。

◆「電通がそんなに怖いのか」 代理店の力と新聞局の役割

広告局に行ってわかったのは、代理店の力、特に電通の力っていうのがすごく強いということです。最近ではオリンピック関係で政府との間のことで批判されてますが。以前電通では歴代ずっと新聞局の局長を経験した人しか社長になれなかった、成田豊さん(元電通社長、会長、2011年81才で死去)以前から始まってね。だから、戦後長くマスコミ界は新聞一強時代、新聞がいかに大事かっていうのを彼らすごく知ってたから、新聞局に入ってくるのはものすごいエリートばっかりだったんです。安倍晋三の奥さんの安倍昭恵さんも新聞局にいたのは有名な話。新聞局には大企業の御曹司がゴロゴロいたなあ。
 
だから、そういう中で、時代がテレビに移って、テレビ局の人が社長になって、その後は完全にデジタル分野の人が社長に。現に今の社長は榑谷(くれたに)興洋さんという人で「デジタルプラットフォームセンター局長」の経験者。会ったことないけど、デジタル・シフトに生き残りをかけているところだと思います。
 
当時は電通と博報堂とは、売上で四倍の差があったと思います。でも博報堂もガッツがあって、両社とも毎日のように、毎日新聞の広告局に来て、明日の広告紙面がどうなのか、明後日の紙面がどうなのか、どこの代理店の扱いなのか、来週はどうなのかとかチェックしたりしてました。でもやっぱり電通がものすごく力を持っていましたよ。だけどいい人材が両社ともいましたね。当時の両社の仲間とは今でも付き合いがあります。
 
今でも覚えているけども、96(平成8)年の時です。アトランタオリンピックの時に、“ハラキリ”紙面(注:紙面を2つに折っても記事が読める)のところに隙間ができるんですよ。今はどうなっているのかな。0.5段くらいなのかな。その細長い隙間を利用して、そこに広告を入れられるんじゃないかと。ある中堅代理店の毎日担当と話をしていたら、「面白いですね。やりましょう」ということになって。オリンピックの記録かなんかをそこにいろんなやつを入れていこうと。歴代のオリンピックがどうだったかというのを運動部の記者に書いてもらってね。スポンサーも決まりかけて、それでやろうということになったのですが、そこに電通が横槍を入れて、そういう企画は困るってつぶされました。「オリンピックはうちが全部仕切っているのだから」ってね。
 
その時、広告局長にその報告に行ったら、広告プロパーだった局長は「オリンピックは電通仕切りなんだからしょうがないな」ということになってダメになっちゃいました。それでその代理店に「今回は勘弁してよ」って言ったら、「編集から来た佐々木さんなら大丈夫と思ったんですが---。電通がそんなにこわいんですか」とか言われたけどさ(笑)。やっぱり電通の威力っていうのがすごかったなあ。今はどうか知らないですけどね。                  (続く)