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ある新聞記者の歩み 24 「日本一の支局!?」を支えた若手3人


元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書き第24回です。今回は、甲府支局長時代の2回目として、当時の若手記者の中の3人についてのお話です。
いちばん先輩は1983(昭和58)年入社の滝野隆浩さんで、防衛大学校出身の異色の記者。最近は社会部専門編集委員として防衛問題に加えて、人生最終盤のケア、葬儀、墓問題など「周死期」の終活問題を柱に健筆を振るっています。毎週日曜日の朝刊に連載しているコラム「掃苔記(そうたいき)」は私も愛読しています。85年入社の松木健さんは、経済部長や編集編成局長などを経て、今年(2022年)、なんと!社長になりました。新聞社冬の時代にどう舵取りをしていくか。かなりたいへんそうだなあと思うのと同時に楽しみでもあります。もうひとりの隈元浩彦さんは86年入社。社会部を経て「サンデー毎日」の編集長を経験しました。長年、冤罪事件やハンセン病の問題に長年取り組んで、弱い人の声を聞く毎日新聞の路線を担ってきました。定年後、“生涯一記者”をモットーに、現在、埼玉の熊谷通信部の記者をされていると聞きます。(聞き手:校條諭、メディア研究者)
 

◇実は事件頻発だった甲府支局管内


Q.当時の甲府支局には将来大記者となる人材がそろっていたんですよね。中には今の社長の松木さんまでいます。どういう新人教育をされていたんですか。
 
そんな教育なんて、それぞれが持てる才能を十分に生かした、本人の努力だと思いますよ。でも甲府支局時代は、支局長としてめぐまれていました。第一にデスク。前回も書きましたが倒産した地元紙「山梨時事新聞」出身のボクと同年齢の秋山壮一君、亡くなって2年くらいになるかな。その下にあなたがいうように、とんでもなく優秀な記者がいたわけで、甲府支局というのは僕にとってラッキーなところだったと思います。だれだったか入社して新人教育を終えて支局に赴任する時、「甲府支局のデスクは東京本社管内ではナンバーワンの優秀なデスク、支局長は将来の社の幹部。日本一の支局だ」と言われた、というの聞いたというですね。まあ、送り出す方は、新入社員の記者に心配をかけたくないんで、おべんちゃらをいったのだと思いますがね。
 
前回言いましたが、この校條さんのインタビューを受けて初めて気がついたんですが、当時の若い記者たちの苦労や活躍状況、原稿の内容などほとんど覚えていないんですよね(笑)。なぜかというと、結局全部、原稿は秋山デスクにお任せしていたんだという事に気が付きました。
 
Q.支局の記者の原稿が載るのは主として県版ですよね。当時の県版は1ページですか?
 
いや、2ページです。1ページはニュース関連で、もう1ページは、左の面で、週によって企画モノだとか短歌・俳句の投稿欄とか、県庁の役人だった人が「釣り日記」なんてコラムを書いていました。ぼくが行ったときでもう10年も書かれていました。だからそういう人を見つけたりするのは、支局長在任中の痛恨事、食道ガンで亡くなる、次回以降触れますが山田正治君という1948(昭和23)年生まれの記者が中心になっていました。支局長のぼくが毎週1回書くコラムの「やまなみ随想」もそうですけどね。時々、県庁キャップの元気だった山田君に代筆してもらいました(笑)。


1986(昭和61)年5月から88年4月まで毎週佐々木支局長が執筆

Q.ということは、左の面では、支局の記者がこういうことをやりたいと言ったらかなりできたということですか?
 
そういう面もありましたね。
 
Q.個々の記者の方は、記者クラブに所属しているのでしょうけど、そのルーチンの仕事と、それ以外の企画を追うというのはけっこうたいへんな印象がありますが・・・。
 
そんなにサツ回りなんて、事件事故が頻繁にあるわけじゃないから・・・、なんて校條さんのインタビューを受けた時、言いましたが、実は、インタビューのあと、滝野君にメールをしたんですよ。そうしたら、次のような返事をもらいました。

 >>>>>「佐々木さんは事件には一切かかわらず、秋さん(注:デスクの秋山壮一君のこと)にお任せだったからご存知ないかもしれませんが、当時の甲府支局はとんでもない事件ばかりの支局だったわけです。
 私がサツ回りのころは、甲府市議が殺され(未解決)、瑞牆山(注:みずがきやま、北杜市にある標高2,230メートルの山)でOLが山小屋の管理人に殺害され、白根町では妻が夫に保険金をかけて殺させる事件、道志村(注:県最東部の神奈川県との県境にある村)の汚職事件(村長、助役ら4役と村議ら逮捕)があり、山中湖で合宿中の東大生が遭難、水死し、中央高速で二階建てバスが事故、富士吉田市で「身代金目的の誘拐」として捜査本部が立った事件があり---。それはそれはサツ回りには大変な時期でした。
 ワインの名産地の名『山梨』を汚す貴腐ブドウのワインに不凍液まぜて、そのあと県の検査を逃れるためにタンクのワインを入れ替えた事件とか。一課二課事件合わせて、毎月のように事件があり、県警は毎年サンズイ事件(注・汚職事件のこと)をあげてました。」<<<<<
 
参ったなあ。彼の言う事件について、ほとんど記憶にないなあ、まったく僕の認識と反対じゃないですか(笑)。支局長何やってたんだろう(笑)。もはや逃げられないということで(?)、滝野君から行きますか(笑)。


滝野隆浩さん(社会部専門編集委員)

 

◇自衛隊への国民の視線が冷たい時代

 滝野君に限らず3人とも取材には熱心で、腰も軽く、いやがって人に会わないなんてことなかったんじゃないかなあ。滝野君は昔かたぎの新聞記者というか、すごく正義感があって、かけだしたら止まらないという感じの記者でした。“火事場のクソ力”っていうか、要するに突破力がすごくあったような気がします。
 
それでいて滝野君はもてた。女房に聞いたら、滝野さんは背が高く、スマートな感じで、礼儀正しく・・・そりゃそうだ防大出身だもんね(笑)、女房に聞くと当時、幼稚園に行っていたぼくの娘なんか「あたし将来は滝野さんのお嫁さんになるの」と言ってたそうです(笑)。もう結婚して子供もいる当の娘に先日聞いたら、「憶えていない」といってましたがね(笑)。
 
今回、隈元君にも聞いたんだけど、隈元君は「パンチャー室や、事務の女性たちがが滝野さんに熱い視線を送っていたこと、覚えています。お茶の葉も滝野さんだけ玉露だったような・・・。そういえば、記者生活で、職場でお茶を入れてもらったのは後にも先にも甲府支局だけの経験でした」なんて言ってました。
 
さて、いまだったらパワハラで一発で非難されるようなことをぼくは言ってました。防衛大学校っていうのは普通の大学と違うので・・・。
 
Q.パワハラですか・・・。防衛大は防衛大学校で、管轄が文科省(当時文部省)じゃないんですね。
 
そうそう。それで給料もらえるでしょ。「おまえ正式な大卒じゃないじゃないか」とか、「学生時代に給料もらってたくせにとか(笑)」。酔って支局に上がった時かなあ、今じゃ支局長即クビだね。
 
Q.そりゃあ確かにパワハラだ(笑)。
 
滝野君は防衛大を卒業しながら自衛隊に進まず、いわゆる任官拒否をして毎日新聞社に就職しました。受けた新聞社はただ1社、毎日新聞社だけだったんですね。その理由は毎日だけは学歴不問だったから・・・。軍事評論家の小川和久さんが、1987年に出した『リーダーのいない経済大国』(太陽企画出版)の本の中で書いています。
 
その本の元は、小川和久さんが当時「週刊現代」に書いたノンフィクションで、防大生のその後を追いかけたものですが、滝野君が主人公になっている感じです。評論家の竹村健一氏がやっていた出版社からの本です。ぼくは小川さんから借りて今回初めて読みました。滝野君が中心人物になっている感じです。題名と内容が全く違うので、いかにもバブル時代の本―という感じです。
 

◇国体批判の「記者の目」誕生秘話

  3人の原稿の内容は覚えてないとさっき言いましたが、滝野君の原稿についてはひとつ思い出すことがあります。彼は、国体(国民体育大会、年1回各県持回りで開催・開会式には天皇、皇后両陛下が出席)のキャップだったかな。国体が終わってから、本社から国体のことを「記者の目」に書けと言ってきたんです。それで滝野君が書くことになりました。デスクの秋山君が彼の原稿に目を通して、彼が困った顔して「支局長この原稿どうしますか?」って、珍しくぼくに意見を求めたんですよ。言われて読んだんですよ。そうしたら「『かいじ国体』開いてよかったよかった、甲府市内から見える富士山、八ヶ岳など、風光明媚な観光県山梨が伝わったのではないか」というトーンで書いてあったんです。国体賛歌調だったんです。

ぼくも本社の経済部にいて、何回も「記者の目」を書きました。当時の毎日新聞の“目玉商品”でしたから、本当に緊張して、下手な原稿書けば記者生命が失われるという感じで書いたもんです。

それで、支局のソファーに滝野君を呼んで、「『記者の目』にはこんな原稿載せられないぞ、“国体万歳原稿”だ、何にも批判してないじゃないか」と。それで昔、テレビ時代の到来を「一億総白痴化」と評した、キャッチフレーズを作る名人の評論家の大宅壮一が、かって国体開催で各地の開催地が天皇を招くのは、“地元の掃除”になるからだと、「天皇は掃除である」と喝破した話を、彼にした覚えがあります。

どういうことかというと、天皇来県を利用して、“国体様のお通りだ”と、立ち退き反対派などを黙らせて、競技場だとか駅前通りだとか全部改築するわけです。要するに国体というのは国の地方統治の装置として、地方の遅れているインフラを整備するために開催するという側面がある。「ただ駆けっこのスポーツ大会じゃないぞ」と。確かに甲府駅前広場は改装され、駅から車で30分程度のところにある小瀬スポーツ公園までの道は整備され、巨大なグランド、球場、体育館、テニスコートなどが作られました。

 競技施設を作ることで地元の土建屋さんだとか建築関連業者がうるおって、それがトリクルダウンじゃないけども、山梨県の経済を豊かにするという意義があって国体というのは行われている。「地方活性化のため、国の装置として国体はあるんだ。その辺のところをちゃんと書かなきゃダメだぞ。県庁の役人の観光開発に役立ったなんていう、底の浅い見方に同調したら『記者の目』原稿は成立しない」と言ったように思います。そうしたら、彼ふくれっつらしてたけど、書き直しました。そしたらわりとまともな原稿になって、「記者の目」に載りました。     

1986(昭和61)年10月31日付毎日新聞「記者の目」(滝野隆浩)

そのあと、国体の後始末で国の監査があるわけです。そこで無駄遣いをいろいろ指摘されます。当時の調査をやっていた監察官が北海道に転勤させられました。それがどうも当時の自民党の実力者、県政でも絶大な力を持っていた甲府選出の衆院議員・金丸信の差し金だとというのがもっぱらのウワサだった。中央権力と地方権力の動き方、そういう風なことを滝野君は知ったんじゃないかな。上官の命令が絶体という防大時代の呪縛が取れたのかもしれませんね。柔軟なジャーナリストの考え方を会得していったんじゃないかな。当方のかってな推測だけど---。
 
滝野君に今回聞いたところ、滝野君は東京・社会部に来てもその監察官とつき合っていて、よく「官吏道とは何か」という“青臭い”話を感動して聞いたそうです。取材元を大切にする―そういうところはエライと思うな。
 
Q.でも佐々木さんは国体をダシにして、金もうけをやったという話が有名なようですね。どんなことをなさったのですか?
 
滝野君に今回の件問い合わせのメールを出したら「国体はカネがかかるからけしからん、と指摘する記事を書いているのに、一方で、支局長は国体ガイドブックでカネ儲けをしているというアンビバレントに、若い記者だった私は悩んだものです(ウソです、(笑))」なんて冗談めかして書いてきましたよ(笑)。
 
国体には全国の支局、本社の運動部などから記者が集まるんですけど、本社からは特別の予算が出たと思いますが、ご苦労さん会をやったりする経費が足りないわけです。まあ、そもそも支局の台所を少しでも豊かにしようと“金儲け”に走っていたんですよ。(第23回参照) 以下も滝野君からのメールです。
 
>>>>>「『かいじ国体』ではガイドブックをつくって、大儲けして、支局に新しいテレビとか買っていただきましたもんね。ああいう『カネ儲け』(笑)の方法があるのだと、私は思い知らされたわけで、さすが経済部出身の方は違うなあと、新人ながら思っておりました。」<<<<<
 

◇学歴不問の毎日を受けたワケ

  話を戻すと、滝野君は、社会部に上がって、防大卒ということでパワハラ的な空気に抵抗感があっただろうと思います。当時の国民の自衛隊に対する世間の意識は、今とはかなり違いましたから。

【参考】小川和久さんの『リーダーのいない経済大国』(太陽企画出版、1987年刊)では、任官拒否をした何人かの一人として滝野さんを大きく取り上げています。小川さんが、毎日に入った滝野さんのインタビューをしようとしたところ、個人的な問題だから本人了解だけで済むと思っていたのに東京本社の許可を得てほしいと言われたそうです。結局、社からも許可が出るのですが、「ことさらに防大出身ということを強調しないでほしい。新聞のイメージにかかわりますのでね」と念を押されました。
 
「受けた新聞社は毎日一社だけ。かけ持ちは気が進まなかったし、なによりも毎日の“学歴不問”という条件が気に入っていた。『新聞記者を選んだのは、人間と会える仕事だからです。カネ儲けは嫌いだし、金銭感覚も無いボクが、四年間の防大教育をどこかで生かしつつ、しかも人間と会える仕事というのは、新聞記者のほかなかったですね。』」(前掲書)

滝野君は東京・社会部に上がって八王子支局に配置されます。そこで、残虐な、4人の幼児誘拐殺人事件(1988~89年にかけて東京都あきる野市の26歳の宮崎勤が4歳から7歳の幼女を殺害、2008年死刑執行)と出会って、徹底的に追いかけて、『宮崎勤 精神鑑定書―「多重人格説」を検証する』(講談社、1997年)という本まで出しました。このへんからどんどん伸びていくというか、一皮むけて自分自身の新聞記者としての道を築き始めた感じがします。

その当時ボクは甲府支局長から東京本社に戻り経済部長、広告局長などのポジションにいて、直接彼の働きぶりは紙面でしか見ていないわけで、当たっているかどうかわかりません。防大卒という経歴を、それまでの世間的、社内的な“負の経歴”から、それを生かしてジャーナリストとして社会部的なセンスで防衛問題などに取り組んで行くという、“優位な経歴”にしていこうと、腹をくくったんじゃないかな。憲法で存在を認められていない“税金ドロボウ”なんて罵声を浴びる自衛隊から、カンボジアなどへのPKO(国連平和維持活動)などで事実上の海外派遣が実現し、阪神淡路大震災、3.11東日本大震災・原発事故などで活躍する日本に不可欠な自衛隊、自衛隊へのまなざしの世論の変化もあったとも思います。

事実『自衛隊指揮官』(講談社、2002年刊)、『沈黙の自衛隊』(ポプラ新書、2015年刊)、『自衛隊のリアル』(河出書房新社、2015年刊)など次々に自衛隊関連の連載をしたり、それをまとめた本を出版しています。この中で『自衛隊のリアル』は1999(平成11)年の北朝鮮の能登半島不審船を扱っていて、海上自衛隊の護衛艦が追跡し、北朝鮮の武装兵士が乗っているとされた工作船に立ち入り検査できるのか………。第2章の「自衛隊がいちばん死に近づいた日」は手に汗を握る。日本の安全保障の最前線の現状を“リアル”に描いている。読んで損はない本だと思います。
 

(ポプラ新書、2015年刊)


彼が現在のテーマにしている“終活”の問題にしても、ジャーナリストとしてのフラットなスタンスで、現代日本社会が解決を求められている分野で、防衛問題と並んで新聞記者としての自分のポジションを確立したいという想いがあるんじゃないかなー。SNSでもFacebookでドンドンこれらの問題について、発信しています。えらいと思うね。今62歳くらいかな。まだまだ行けるでしょう。
 Q.コロナ禍の最初の“事件”だったダイヤモンド・プリンセス号で起こっていたことをまとめた連載は印象に残っています。

これは、2020年春、乗客・乗員3711人を乗せた横浜港に停泊中の豪華クルーズ船における、国内初の大規模コロナ対策オペレーションなんですが、その船内で何が起きていたのかはあまり知られていませんでした。滝野君は関係者にあたって取材し、新聞で連載、その後『世界を敵に回しても、命のために闘う⋯ダイヤモンド・プリンセス号の真実』(毎日新聞出版、2021年刊)という本にまとめました。ここでも、コロナと闘う医師や自衛官の活動を記しています。その視点には、大災害や危機に立ち向かう医療関係者や自衛隊医官への思いがあり、その一方で、閉ざされた大型客船の中で政府の感染症対策が右往左往した事実を“日本型システム”がもたらしたものと指摘しています。ぼくはすぐ、「かいじ国体」の滝野君の記事のことを思い起こし、嬉しかったですよ。


(毎日新聞出版、2021年刊)

文章も柔らかくてわかりやすい。これからも活躍してほしいなあ。彼を見るたびに「朝日新聞は絶対採用しなかっただろうなー」と思います。理由は言いませんけど(笑)。彼を採用した、そのフトコロの深さというか、ホント、毎日新聞のよいところだと思いますね。
 
ついでながら、滝野君の結婚式の仲人をしたのは我ら夫婦です。奥さんが地元の放送局のディレクターでした。結婚することになって、彼女の甲府の実家で、長崎・佐世保の滝野君のご両親が来たとき、固めの杯の音頭を取ったんです。そのあと、彼女が東京女子大出身だったということもあって、東女大に近いフランス料理で有名な西荻窪のレストラン「こけし屋」の三階で、披露宴をやったんです。きれいな奥さんで、美男美女のセレモニーでした。その「こけし屋」、今年の4月に閉店してしまいました。
 お嬢さんもいてもうお孫さんもいるんだから、当方も年をとるわけだよね。

◇“なまいきな”新人が将来社長に?!


 滝野君から今回、おもしろい話を聞きました。「私の下に一年あいて新人が来るという年のことですが、新人教育のため先輩として話をしろと会社から言われて箱根の社員寮に行ったんです。すると、紙面づくりに関してとっても生意気な新人がいたんです。支局に戻ってきて『あんな新人がきたら大変ですね』と言っていたら、なんとそれが松木さんでした。でも、支局では、滝野、松木、隈元の三人でつるんで楽しくやってました」という話です。
 
Q.それが今年毎日新聞社の社長になった松木健さんですね。では、次は松木さんに行きましょうか。              (次回に続く)