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クロアチア紀行文

アドリア海の真珠。そんな大層な異名を持つのは果たしてどんな街だろうと胸躍らせながら、クロアチアの南の端、ドブロブニクに向かった。

この街が魔女の宅急便の舞台になった街ということで、久石譲の「海の見える街」をイヤホンで流しながら、空港から向かうバスに揺られて20分。

ついに視界が開け、左側の車窓にオレンジ色の屋根とターコイズブルーの海が飛び込んでくる。

バスから降り立ち、改めて視界いっぱいにドブロブニクを映す。知っている海の色は淡青色からコバルト色のスペクトラムに収まっていたから、目の前に広がる海が緑色に近いことが不思議だった。太陽に照らされ、キラキラと輝く青緑色の海。かといって濁っているのではなく、透き通って、海の底がしっかりと見えた。地上には、城壁に囲まれた小さな街がオレンジ色の屋根を連ね、海と壮大なコントラストを成している。

海岸沿いのビーチは、近隣国から夏休みに羽を伸ばしにやってきたたくさんの人で賑わっていた。海で泳ぐ者。パラソルの下で読書にふける者。皆思い思いの形で、降り注ぐ太陽と青い空、青緑の海を楽しんでいる。そう、この街は東欧屈指のバカンス地なのだ。私は、胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。

ホテルに荷物を置き、早速、ドブロブニクの街全体を見渡せるスルジ山に向かった。標高は400mほどで山頂へはロープウェーで簡単に登ることができるのだが、往復32ユーロと観光地価格。意外と高いなと懐具合を気にしたのも束の間、ロープウェーのゴンドラが思いの外速いスピードで山頂に登り始めた。

ぐんぐんとドブロブニクの街が遠くなる。近くをカモメが翼を広げて空に浮かんでいる。私も、アドリア海の真珠の上を飛んでいた。魔女の宅急便のキキがこの街で修行することにしたのは、電車でもなく船でもなくホウキに乗ってやってきたからかしら。きっとそんな気がした。

スルジ山頂の展望台も多くの観光客で賑わっていた。その片隅に身を落ち着け、日が落ちるまで、街を眺める。刻一刻と海と街の色が深くなっていった。豊かだった。

この街は中世から海洋貿易で栄え、かつてはヴェネチアと並ぶ海洋国家に数えられていた。小さな街をぐるりと高い城壁で囲み、ラグーサ共和国として独立を保った時期、隣国のヴェネチアやハプスブルグに支配されていた時期と、その長い歴史の中で様々な文化の影響を受けた豊かな美しい景観を現代の我々に残してくれている。

そう、ただ、豊かで美しいのである。この街にはバカンスに来た人々の陽気な笑い声と眩しそうな笑顔がよく似合う。

それがとても奇妙なのだ。わずか30年前、この街がユーゴスラビア内戦で砲弾を受けていたとは想像もつかない。第二次世界大戦以降バルカン半島で一つの国を形成したユーゴスラビア連邦の政治的実権は、セルビア人が握っていた。そのことに不満を持っていたクロアチア人は、1991年独立を宣言、そこから独立戦争に発展し、クロアチア内のセルビア人、またユーゴスラビア連邦軍(事実上のセルビア軍)勢力との間で激しい戦闘が1995年まで続いた。かつての隣人が突然敵同士となり、互いに銃を手にとって戦った記憶はあまりに生々しく、紛争が集結した現在にも民族間に深く亀裂を残している。ドブロブニクも例外なく戦禍に巻き込まれた。今や観光客をぎっしりと乗せて空の旅を楽しませてくれるゴンドラも、砲弾を受け損壊した建物の一つだった。だがしかし、その面影は、まるでなかった。

夏草や、兵どもが夢の跡。

芭蕉が奥州平泉で詠んだ詩である。かつての戦場が今は夏草に覆われている、そんな移ろう時の儚さを詠んだのであるが、夏草の生茂る平和、それも寂漠とした平和が、かつての様子を「夢の跡」を追う者に想いを馳せることを許すのである。

だから人々の喧騒で賑わうこの海の見える街に、たったの30年前、かつて一つの国を形成していた者同士で争った「跡」がほとんどない、あるいは思い出させることを許さないような意志さえ感じさせることが、「無常」とはどこか哀愁を帯びるものであると考えていた一日本人にとって奇妙に映ったのである。

繁栄の象徴として、世界中からやってくる人々に等しく憩いの場を提供し、毅然と美しく海上で輝き、愛され続ける街。バスの運転手は、出稼ぎにやってきたセルビア人であった。あるいはこれぞ、この街が豊かな由縁なのかもしれない。






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