周回遅れで映画「怪物」を見た感想

去年、坂本龍一が遺した音楽が使われている映画、とだけの情報で見るつもりでいた映画「怪物」。
万引き家族さえ見ていない私は、制作陣の凄さも分からず、賞レースにも無関心、とりあえずそれよりも教授の曲聴かなきゃ、だけで視聴を開始した。ある意味レアケースであろう。

これだけ前情報を仕入れずに見たため、一章あたりは何かサスペンス映画なのかと思った。ヒトブタと聞いて攻殻機動隊を思い出したりした。二章もホリ先生の添削前まではサスペンス要素を疑ってなかった。まあ、ちょいちょい出てくる「普通の家庭」や「男らしく」な発言が引っかかりはしていたので、後で何らかの回収が出てくるのでは?くらいだった。
(あとクラスメイトの女の子がわざわざBLっぽい雑誌?読んでるのが気になった)
ちなみに二章始まった時に、あ、ニーアオートマタ方式だと思った。羅生門方式って言えばカッコいいのかしら(←ここはちらっと何かで先に見てしまい、構成は何となく知っていた)。

三章が始まって、ここから謎が解け始めるのと同時に「あれ、これクィア映画だ!」と気付く。二章の添削シーンで何となくそんな気もしていたけれど、小学生というのが目くらましになっていた。
気付いてからは依里の恐ろしいまでのピュアさと実は湊よりも早熟であることの描写、湊の思春期直前の感情の揺れの描写に圧倒された。いや、脚本が凄いのは承知の上でそれを表現する子役の方々がヤバいと思ったのだ。
特に依里君、あれはどんなディレクションで演じている子は何を考えて表現したのだろうか。空恐ろしい。物凄い俳優さんが誕生することになるのかもしれない。

もちろん、彼らの符牒でもある「怪物誰だ」は、周囲の大人や同級生たちから受ける、善悪関係ないマジョリティの圧力によって生じたものだろうけれど、特に私は彼らの父親が罪深いと感じた。
恐らく世間一般には良い父親だったであろう湊の父は、息子に不貞の挙句事故死したことを知られている(これ、母親は知らないわけないよね。知っていても息子に隠して良いお父さんだったことだけをフューチャーしているのかな)。
分かり易く下衆クズな依里の父(中村獅童さん、凄かった)は、息子の”病気”に気付いており、無理矢理強制させようとしている。50年代のアメリカか。まあ、実質は強制じゃなくて虐待なんだけども。
子供であればあるほど、親子の関係が影響する。これは残酷だな、とかなりメンタルに来た。

ただ、捻くれた私から見ると、彼らは加害者の要素も持っている。
ホリ先生に対する嘘、今のコンプラ最優先時代において、子供の嘘で一人の大人が自死を選びそうになるほどの大事になるのだ。二章は本当に三章とは別の意味で見ていて辛い。

だからこそ、ただシンプルに「可哀想な子供たち」としてではなく、個を持った人間としての最後のシーンを見られたんだと思う。上手く言えないけど、セクマイであることは誰かから「許される」「認められる」ことではない。セクマイだから「美しい」のでもない。あるがままだ。
私自身が完全なシスジェンダーじゃないからそう思うのかもしれない。

ラストシーンは、恐らくこの映画好きな人は色々受け止め方があるんだと思う。公式の見解出てるのかしら?これ書き終わったら調べてみよう。あくまでも無知な人間が真っ白な状態で映画を見た際の感想を残したいと思ったからだ。

私は生存エンドだったらいいな、と思ってるけれど、一つ謎な描写がある。
ラストシーンで緑の中を走り抜ける少年達の前に、今まであった行き止まりの柵がない。
あれを見た時、昔のゲームだがLIMBOのラストシーンを思い出したのだ。ひょっとしたら、柵(マジョリティからの圧力)が無い、生まれ変わる必要がない世界に行ったんじゃないかと。台風で吹き飛ばされてる可能性もあるけど。

何にせよ、湊と依里が一緒にいられればいいな、とそんなロマンチックなことを強く願いました。
久しぶりに凄い映画を見ましたよ、と。





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