〈折り目〉のアスペクトについて――世界の全体性についての試論

本記事に至るまで、私(同一 / Neurospace)は絶えず〈全体〉を注意深く眺めることに尽力していた。そして、その絶対的な地点を見失うまいとしているうちに、気がつくと様々な副産物が私の思索内容として表れていることに気がついた。今回の記事もまたその副産物についての試論であるが、もしかするとこの試論は読者に私の何らかの問題意識を共有することができるやもしれぬ。少なくとも読者のうちだれかひとりには伝わることが、本試論の目標である。


我々は、時間を当然「あるもの」として考えている。過去があり、現在があり、未来がある。そしてそれらの内容は、現在を通して、未来方向から過去方向へと流れていく。
だが不思議なのは「現在」についてである。未来や過去について、我々はときにそれらを観念と見、過去は歴史、未来は憶測としてあげつらうこともある。だが「現在」について、我々はそのようなことができない。もしも現在について表現しようと思えば、それは瞬時に過去へと流れ出し、現在を捉えることができない。更に不思議なのは、その捉えられないものはまさしく我々の視点が措定される場であるはずだということだ。我々は過去地点に、いわんや未来地点に現に視点があるとは思わない。それは端的に現在にあるはずなのであって、それ以外ではないはずなのだが、なぜだかそれを表現することができない。できるのは、あくまでも「現在」という概念であって、現在そのものではないのだ。ならばもし、この現在そのものの位置を少なくとも今よりもましに表現することはできないのだろうか。

このことは、たとえば二枚の紙(純粋時間のタブラ・ラサ)によって示されるだろう。
ある紙A(以降紙Aと省略)と、ある紙B(以降紙Bと省略)が隙間なく重なったとする。
このとき、その重なりの中間、それこそが現在であるということになる。
このたとえの重要な部分は、決して紙Aと紙Bの間に隙間は空いていないにもかかわらず、その中間にまさに現在はあるということだ。これは未来や過去について我々は直接的に示しうるにもかかわらず、現在はそれと同様には示し得ないという構造のスライドになっている。また、紙Aと紙Bの間に実測的(実際的)な落差はないのだが、なぜだかそこに知覚的な落差を生じさせる(観測を生じさせる)何ものか(以降「中空」と呼称)があり、このことは単に「未来そのもの」や「過去そのもの」だけがあってもよかったはずの世界に、なぜだか「現在そのもの」ができているという意味で我々を驚愕させもする。
もしもこの「中空」の存在が消えれば、世界は単に紙Aと紙Bの密着のみになって、全くのっぺりとしたものになるに違いない。このことは「中空」の時間(世界)における中心性を指し示している。

だが、問題はここからである。我々はこのような試みによって何とか「現在そのもの」を「中空」としてあぶり出すことができた。しかし、現在そのものとはそんなにも概念的なものだろうか?いやそうではない。現在そのものはむしろ概念以外の存在なのであって、我々はそれを示そうと試み続けていたはずだ、と一定の読者は思われるかもしれない。とはいえ、ここまで読めている読者ならお気づきの通り、現在そのものとは事象内容ではない。すなわち現在そのものは、紙Aや紙Bにおいて記述されることがないのであり、「中空」という紙からの隠微な凹凸はどのように示したところでその接近の位置は変わらない(当然、概念の文法を脱臼することで、概念の示したい言語そのものへ到達せんとすることは可能であるが、そのことはもはや問題ではないのだ)。我々は現在そのものによって時間を観測することができるのであった。ならば現在そのものとは、時間そのものを包摂するものでなければならない。すなわち、現在そのものとは全体そのものであると言わなければならない(無論、どのような意味でもそのように発語する倫理性はないが、そのように言えないのならそのことは私の問題ではない)。それを部分によって示し、いわんや語るのは、哲学においても詩においても不可能事である。ならば我々は「現在そのもの」だとして穿つことのできた(と思い込んだ)「中空」をどのように扱うべきだろうか。

我々は紙を語り、「中空」を示した。すなわち我々は時間において、未来を語り、過去を語り、そしてここでは現在を示した。だが現在とは即ち全体である以上、そのようにして示されること自体が既に本試論において追究している現在そのものから外れていたわけだ。さて、であれば、現在そのものはこの「中空」以前にその萌芽を見出すほかにない。その追究には紙の「本質的皮相」(イロニー)を乗り越え「中空」の「中心的実相」(実存的指示)をも乗り越えねばならぬのだ。このとき、我々は紙という「三次元」を超え、「中空」という「二次元」(三次元の隙間なき中心に挟まれるのは二次元にほかならない)を超える。よって、その次は「一次元」(二次元以前 すなわち指示以前の次元)と仮構される。それこそが、本題でもある〈折り目〉であり〈今〉にほかならない。

〈折り目〉とは何か。それは密着して重なる紙Aと紙Bとを、連続して接着する境目である。このとき重要なのは「中空」が紙Aと紙Bとを媒介としつつも、それは事象内容的に表現されないにもかかわらず紙を非連続的に繋げていたのに対して、〈折り目〉は端的に連続的であるということだ。すなわち、紙と〈折り目〉の間に認識論的な差異もなければ、存在論的な差異もない。そこにある差異とは、あくまでも様相上(アスペクト上)の差異に過ぎない。そして、だからこそ〈折り目〉は認識論においても存在論においても(存在論とはこのとき形而上学を含みこむ)紙と同一となり、ひいては全体としてその存在様態を示すこと(指示以前の指示)が可能的(このときそれは実現しない)になる。また〈折り目〉の存在は紙と(すなわち全体と)相即であるため、それを消去するということは端的に思考もできなければ想像もできない。なぜならば〈折り目〉は紙の中心ですらないためだ。もしも思考を試みたとして、我々はそれによって何を失ったのかすら判別や想像をつけることができないのである(そしてこの表現自体もまた、私は「中空」を意識しているが、もしかすると〈折り目〉を失って示しているやもしれないのだ)。そのため〈折り目〉を示そうとすればするほど、ひいては自壊的なアイロニーを用いれば用いるほど、それはむしろ「中空」によっていってしまう。なぜならば、言表によって表せるのは認識論的または存在論的な差異にほかならないため、認識論的な差異を強調すればそれは紙の内容に寄ってしまい、存在論的な差異を強調すればそれは「中空」に寄ってしまうためである。

ではこのとき〈折り目〉とはどのような表現で示されることが試みられるべきだろうか(当然、それによって示されるものは何一つないというのが大前提だ)。私はこれに「可能態」という表現を提言したい。可能態とは元来アリストテレスの術語であり、その潜在性が現実化することによって現実態になるというものだ。しかし、私はこの用法における「可能態」に、そのような潜在性は認めない。私は可能態という言葉を〈実現しない〉という意味で用いたい。たとえば、もしもこれがアリストテレス的用法であれば、可能態としての芽が、現実態の花になると説明するだろう。しかし私は、現にある花に対して、まさにその背後に可能態を見出すのである。そしてその背後には、決して実現されているものはない。だが決して存在しないのでもない。(私の用法における)可能態とは、いかなる意味においても実現しないものでありそれはいかなる非存在も含めた存在様態すらも実現しない(いわんや本質を、中心をや)。そしてそのことはまさにアスペクトであり、態である。そして、そうした〈実現しない〉可能態によって、世界が豊饒に満たされていること。これを私は〈全体〉と見る。可能態とはあらゆる実現に先行する。そのため、実現したものの総体は〈全体〉に到達することができないのだ(そしてこのとき総体は〈全体〉にとって部分であり、これもまた徹底的に近づき得ない)。またこのとき重要なのは、決して〈全体〉は総体と「重ね描き」のような関係にあるのでもないということだ。重ね描きとは同一平面上で発生する二種類の本質であるが〈全体〉と総体は(明々白々ながらも)次元が違うので、そのようなことも言いようがない。そしてこれは否定神学的アプローチでもない。可能態とはまさしく≪背後≫にあるのであり、潜在でも顕在でもないのである。
またこの可能態の語るものは、あくまでも我々の言語活動における「可能性」に過ぎないのであり、可能態は実現されたものの既にあるにもかかわらず、実現されたものは何一つ示すことができない。可能態は徹底的に我々の言語活動に「しみこんで」しまうのだ。

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