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転がり始めた人生①~1997年2月カンボジア

代わりに行ってくれる?

母の知人がカンボジアの中学校に校舎を寄贈した、という話を聞いたのは1996年末ごろだったと記憶しています。

その知人から一緒にカンボジアに行き、校舎の贈呈式参加のついでにアンコールワットも見学しようと誘われていたのは母でした。しかし自宅で茶道・華道の教室を持ち、2004年に地元和歌山の世界文化遺産となる熊野古道で当時いち早くガイドも務め多忙を極めていた母は、指定された日程で知人に同行できそうにもありませんでした。

そして「もし代わりに行ってくれるんやったら旅行代金全額お母さんが出すわ。ちょうど2月やし卒業旅行になるやん。」と、自分の代理にするべくわたしを誘ってきたのでした。

当時のわたしは大学4回生、卒業を控え同級生たちとの話題もどこに旅行するかでもちきりだった頃でした。神戸で一人暮らしをしていて、アルバイトをすると勉強しなくなるからと親から禁じられ、仕送りで生活費のすべてをまかなっていました。
仲の良かった同級生たちのようにアルバイトで貯めた資金のあてもなかったわたしにとって、母の「全額出すわ。」という言葉に行かないと答える選択はなく、「謹んでお受けいたします。」と承諾。

めでたく卒業旅行の行先が決定し、同級生たちの旅先の選択肢にも挙がらなかったカンボジアに行くことになったのでした。


関空から一路プノンペンへ

母の代理で参加することになったカンボジア校舎寄贈記念ツアー。親しい人たちの中でアンコールワットに足を踏み入れた人がいなかったこと、なにより母が旅費を全額負担してくれるという提案がなければ行くという決断には至らなかったでしょう。

振り返ってみると、両親もいくら知人が同行するとはいえ、渡航に関してはまだ注意喚起の出ていた1997年のカンボジアによく大学生の娘を行かせたものだと思います。

1997年2月、厚いコートに身を包み「気をつけてねー。」とニコニコ手を振る母に見送られたわたしは関空を出発しました。
カンボジアが東南アジアのどこに位置するのか、事前に調べることすらもせずに飛び立ってしまいました。当時のわたしは、そのくらいひどくポンコツな学生でした。

タイ航空でまずはフィリピンのマニラを経由し、バンコクへ。そこからプノンペン行きの便に乗り換えました。目的の学校があったのは首都プノンペンから300キロ以上離れたシェムリアップ。
プノンペンを拠点に国内線で飛ぶか陸路移動をする以外にシェムリアップをはじめとする地方に行く手段はありませんでしたが、陸路は襲われる可能性が高く観光客の選択肢としては考えられない、まだそんな時代でした。

バンコクでわたしたちを待っていたのは小さな小さなプロペラ機。
「ほんまにこれ飛ぶんか??」と、驚きを隠しきれなかったことを覚えています。
ただわたしはそういうときでも周囲に動揺していることを知らせたくない性分なのでその機体を見てがやがやと騒ぎ始めた周りの人たちを横目に、驚いていることを悟られないよう努めて冷静な表情を作りつつ搭乗しました。素直に驚いておけばいいのに面倒な性格です。
胸に秘めた不安をよそに小さな機体は滑走路から何事もなく飛び立ち、わたしは無事に機上の人となりました。

バンコク上空から見えたのは区画整理された農地でした。空から見れば日本の田舎とそんなに違いはないなあなどと考えていたら高度が上がり、やがて雲しか見えなくなりました。
バンコクを飛び立ってから1時間余り、プロペラ機は高度を下げてまた陸が見えてきました。眼下にはどこまでが畑か沼なのか境界線が曖昧で、緑と茶色の入り混じった大地が広がっていました。
それはバンコクで目にした風景とは全く違っていました。
なんとなくですがそこでもうカンボジアに入ったのだろうなと感じながら、ぼんやりと窓の外を見ていました。

タイもカンボジアも東南アジアの国、さほどの違いはないんだろうという認識だったわたしも飛行機の窓から見た風景の違いに気づき、もしかしたらカンボジアはとんでもなく田舎なのでは・・・と思い始めていました。

ぼーっとしていたら急にドンッという着陸の衝撃があり、わたしはプノンペン・ポチェントン国際空港に到着していたのでした。

空港にはターミナルと飛行機を繋ぐボーディングブリッジはなく、機体の扉部分に接続されたタラップで地上に直接降りなければなりませんでした。
足元のコンクリートから這うように上がってくる熱気。それはまさに酷暑期のカンボジアを象徴するものだったのかもしれませんが、初めての場所に来たという高揚感からか暑さはそれほど気になりませんでした。


空港で待っていた人

徒歩でターミナルまで入り、イミグレーションカウンターに向かいました。

そこで目にしたのは職員の額にある大きく丸いアザ。しかも一人や二人ではなく、見かけたほとんどの人たちがまったく同じアザをつけながら涼しい顔で仕事をしていました。
そのうちの一人がわたしのパスポートを確認すると、バンッと大げさな音を立てて入国スタンプを押しました。

後で聞いた話によると、あの丸いアザはチョップ クチョルと呼ばれる民間伝承医療を施した痕であることがわかりました。小さな瓶にろうそくなどの炎を入れて中を真空状態にし患部に吸い付ける、日本でもカッピングと呼ばれている治療方法です。
あの額のど真ん中にあった内出血のような痕は頭痛を治したときの名残りだそうですが、その姿で平然と仕事している様子が妙に記憶に残りました。

イミグレーションを通過すると、次は預け荷物を受け取るターンテーブルに向かいます。

そのときふいに、「皆さんおつかれさまでした!お荷物お持ちします!」と日本語が聞こえてきました。声の方を見ると、真っ白な歯を見せて、ニコニコしている男性がわたしたちのグループのそばに立っていました。

日本語??日本人っぽいけど誰??、いや、日本人ちゃうかも・・・。
飛行機乗ってないのにここに入ってきてもええんか??

一瞬の間にいくつかの疑問が頭の中を巡りましたが、すぐに母の知人から、彼が校舎建設の現地カウンターパートであると紹介されました。
彼はインドシナ難民として中学からは日本で育ち、大学院を出たあとカンボジアに戻り、プノンペンにあった日系企業に勤務していると聞きました。
現地旅行会社の営業ライセンスも持っていたので、当時は観光客の出迎えをするために預け荷物の受け取り場所まで入ることができたと聞いて、すべての疑問が解消されました。

彼の第一印象は、快活そのもの。初対面のわたしたちにも気持ちよく対応し、このツアーの参加者全員が好印象を持った様子でした。
そしてなによりも彼の話す流暢な日本語は、みんなの気持ちを一瞬で惹きつけ、カンボジアというなじみのない国に来た不安を払拭する力強さがありました。

それでもわたしは感情の動きを態度に出さないタイプだったので、そのときはまだ、なんだか自分とは全然違う人だなぁと少し距離を置いて見ていたのでした。

のちにこの人と結婚することになるとは知る由もなく。


あれから23年、普段は忘れていてもふとこのときのことを思い出します。
母が「代わりにカンボジアに行って来てよ。」と言ったあのときから、わたしの人生がゆっくり転がり始めていたんだな、と。

【写真】
1997年@プノンペン・ホテルソフィテルカンボジアーナ
身の丈にまったく合っていないホテルに泊まるポンコツ学生のわたし

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