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卒業生・ラーヴォの物語~出会ったころ、そして忘れられない一言

スナーダイ・クマエの卒業生について書くとなると、やはりトップバッターはこの人。
卒業生最年長で、現在スナーダイ・クマエ団体代表を務めるまでになったラーヴォについてじっくり書かせていただきたいので、今回はその第1弾とします。

*カンボジアには「孤児院」と呼ばれる施設が数多くありますが、卒業のその後をモニタリングできているか、というのは施設の運営が適切かどうかを測る一つの基準になるかと思います。

ハレの舞台へ

2015年のある日、わたしは自ら運転する車でシェムリアップの幹線道路である国道6号線を南下していました。
カンボジアの衣装を身にまとい、額には少し汗がにじんでいました。助手席、後部座席には同じくカンボジアの衣装を着た日本人の友人数名を乗せていました。
カンボジアが擁する東南アジア最大の湖、トンレサップ湖にある水上集落コンポンプルックの少し手前にある村へ。
少し急いでいたわたしは前方の安全を確認しつつアクセルを踏み込みます。

シェムリアップ市街から国道を30分ほど走ったところで、右手にある赤土の道へ入ります。未舗装の道路で土埃を巻き上げあげながら、わたしの愛車ハイラックスヴィーゴは軽快に進んでいきます。
赤土の道とその脇に並ぶ高床の小屋、半裸の子どもたちが走り回る姿など、多くの人が持つカンボジアのイメージに近いかもしれませんが、もう街の中ではなかなかお目にかかれません。
大きな車を運転するわたしを珍しそうに見る子どもたちの前を通り過ぎ、目的地までもうすぐのところまで来ていました。

車を停めたわたしたちを大音量のクメール(カンボジア)音楽が迎えてくれます。一足先に到着していたスナーダイ・クマエのスタッフと今日のために取っておいたお気に入りの服を着てウキウキしている子どもたちの姿も見えました。

実はこの日、今から15年ほど前に「スナーダイ・クマエ」を卒業したラーヴォの結婚式だったのです。

カンボジア語で「ニャムカー」と呼ばれる披露宴の会場は、彼の奥さんの実家です。敷地から少し道路にはみ出す格好でテントが張られ、その中に入ると円卓が並んでいます。カンボジア中流層の標準的な規模の披露宴とはいえ、よくここまでの準備をしたものだと感心しました。
卒業生初の結婚ということもあり、子どもたちはいつも以上にはしゃいでいるように見えました。みんなの声とクメール音楽が入り混じる中で、わたしはついにこの日が来たのだなとひそかに胸を熱くし、幼かったラーヴォのことを思い出していました。

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第1世代の成績優秀者

わたしがラーヴォと最初に出会ったのは2000年4月。それまで住んでいたプノンペンから、「スナーダイ・クマエ」があるシェムリアップに引っ越してきたときでした。
団体設立からまもなく受入れられていた子どもたちの1人がラーヴォだったのですが、わたしは彼らを施設の第一世代と位置付けています。
夕方になるとほとんどの男の子たちは施設の隣にあった空き地でサッカーに興じるのに、彼はそこから少し距離を置き女の子たちと一緒に座っておしゃべりしている様子をよく見かけました。そんな彼を当時のわたしは独特の世界観を持っている子、というふうに認識していました。

今はどっしりと貫禄のある風貌になりましたが、当時身長は割と高いほうで、立つと両足の太ももには隙間ができるほどの細身でした。
みんなからは顔が水牛に似ているという理由で、アカバイ(牛ちゃん)というあまりにもストレートすぎるニックネームをつけられていました。
カンボジアの人たちはこういうところに遠慮がないというか、容赦なく愛着を込めて呼んできます。そして言われる方も気にせずにそれを受け入れているあたりにカンボジアの人たちのおおらかさを感じることができます。
その頃の施設内でも、それぞれの子どもたちにこういったニックネームがあり、みんなも普段はそちらで呼ばれていました。

彼はがむしゃらに勉強するタイプではないにもかかわらず、いつも学校からは成績優秀者として表彰されていました。

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わたしが施設に住み始めた頃にはそれまで日本語を指導してくれていた先生はすでに離任していましたが、彼をはじめとした数名の子たちは日本語をよく覚えていて、わたしにも積極的に日本語を使ってコミュニケーションをとってくれました。
早朝や深夜に黙々と勉強する子もそれなりにいたのですが、彼はそういう子たちとは全く対照的に施設の時間割で決まっている起床就寝時間をよく守り、規則正しく生活をしているようだったので、いつ勉強しているのだろうかと不思議に思っていました。
大人になってから聞いてみると、授業中の先生の説明だけでほとんど理解できたうえに記憶もできていたそうで、施設で決められていた自習時間だけで十分だったということでした。

教室から聞こえた一言

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わたしが施設に住み込み始めて数か月が経った頃、新しい日本語の先生を迎え入れることになりました。前任の先生が帰国してから1年ほど経っていたので子どもたちも待ちきれない様子で楽しみにしていました。
日本語が上手で気性の穏やかだったラーヴォは、新しい先生が着任してすぐに助手に選ばれていました。
授業前に先生がホワイトボードにその日教える単語を書くと、横でラーヴォがクメール語訳を付けていきました。授業後のボードを消すのも彼の役割となっていました。
先生はクメール語ができなかったので、ずいぶん彼には助けられたのではないかと思います。

そうしてラーヴォが先生から頼られる一方で、わたしは日が経つにつれ先生に嫌われてしまったようでした。
当初はにこやかに接してくれていたのですが、段々と無視されたり、普通に話してくれたりと態度にムラを感じることが多くなりました。若さによるわたしの至らなさが、年配の先生の気に障ったのかもしれません。
やがて日常会話をすることすらおっくうになり、先生への苦手意識が強まってきたころ、わたしはあることを子どもたちから聞いてしまいました。

先生が授業中、子どもたちに手をあげている

わたしもすべての授業をチェックしていたわけではなかったし、無償で子どもたちのためにカンボジアまで来てくれた先生がそんなことをするのかと当初は半信半疑でした。子どもたちの日本語もわたしのクメール語もまだたどたどしい頃だったので、英語のできるスタッフにも手伝ってもらいながら慎重に確認していきました。
子どもたちが言うには、宿題を忘れたり授業中質問に素早く答えられなかったりすると、拳や平手で叩かれたり、答えがわからないままの状態でずっと立たされたりしているということでした。

教室の後方には子どもたちの食堂があり、二つの場所には壁がないのでときどき食堂のテーブルを利用して仕事するようにしました。わたしがいることで授業が教師と生徒の密室にならないようにという、そのときのわたしにとって精一杯の先生へのけん制でした。
そしてある日、一瞬だけ先生が手を振り上げたように見えたのでわたしがそちらに目をやりました。先生はその瞬間に握りしめた拳を後ろに隠しました。なにか見てはいけないようなモノを見たような、子どもたちの話が嘘ではないという証拠をつかんでしまったような、複雑な気持ちになりました。

自分よりもかなり年上の先生にこの件をどうやって切り出そうかと思案している間にも、子どもたちは次々と先生の体罰を訴えてきました。
拳でお腹を殴られた、教科書の角で頭を叩かれた、宿題提出が遅れたらノートを床に投げられて自分で拾えと言われた、そんなことを言いながら泣く女の子もいました。
これ以上放置するわけにいかないという思いと、あの気難しい先生と向き合わなければいけないのかというおっくうさがせめぎあっていました。
もし今こんなことが起きたら、きっと先生への最善の問い方を見つけ出し、子どもたちにとって一番良い結果を導き出すための手立てを必死に考えているはずなのに、そのときのわたしにはためらいがありました。

そんなとき教室からラーヴォの声が聞こえてきました。

「もうぼくは、ほんとうに、いやなんです!」

はっきりとそう聞こえました。
普段は落ち着いた口調で話す彼が大きな声を出したことに驚きました。
最初の頃は喜んで授業補助をしていた彼が、先生から選ばれることを完全に放棄した瞬間でした。叫ぶと同時にマーカーを机の上に投げ出して、そのあとの授業は欠席しました。

自分だけいい子ぶっていると他の子に責められたのか、勉強が苦手な子を冷遇する先生に対して彼自身が嫌悪するようになったのか理由はわかりませんでしたが、普段強い主張もせず、どんなことでも飄々とこなす彼からは想像ができない行動でした。
そしてその後まもなく子どもたち全員が授業のボイコットを始めてしまい事態の収拾がつかなくなりました。
そこまできてやっとわたしも先生と対峙することになったのですが、何度か話し合いの場を持ちながらも最後までお互いの意見に折り合いをつけることができませんでした。問題が明るみになってから態度を一変させ、今日からあなたの言うことをなんでも聞くから子どもたちに勉強するよう説得してほしいという先生の存在そのものが、当時のわたしにとっては受け入れられませんでした。
わたしが子どもたちに授業参加を強いるのではなく教師と生徒として先生自らが関係の再構築をするべきだと思い、それを伝えました。
その上自分のやってしまったことが原因なのに他人任せにして、わたしの助けを得るために態度を簡単に変えてきた先生を嫌悪してしまいました。この部分に関してはわたしの若さゆえの至らなさもあったと思います。

生徒からの信頼を失い、関係修復が不可能と判断した先生は「スナーダイ・クマエ」から離れるとわたしに告げました。

わたしが食堂で見た先生の握り拳は、子どもたちを支配するための象徴として記憶されています。
先生と向き合う勇気をくれたのは、ラーヴォのあの一言と「体罰や言葉の暴力による支配」を子どもたちが全力で拒否する姿でした。

このときのことを振り返ると、子どもたちのためになぜもっと素早く行動しなかったのかと自分が恥ずかしくなります。
その思いは「今の状況の中で最優先事項は何か。」という現在の考えにつながっています。

ラーヴォが振り絞って発してくれた一言が、一歩進むきっかけになったことをこれからも忘れてはいけないと思っています。






【見出し写真】
2019年ラーヴォとわたし@シェムリアップ
ラッフルズグランドホテルでティータイム

【写真1】
2015年ラーヴォの披露宴にみんなで出席@シェムリアップ
【写真2】
2015年披露宴のラーヴォとナリーちゃん(奥さん)
【写真3】
2003年ごろ 成績優秀により学校から表彰されたラーヴォ
【写真4】
2020年「スナーダイ・クマエ」の教室 現在はPCと英語教室として使用


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