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卒業生・ラーヴォとわたしの物語~繋いでいくこと

ラーヴォについては書きたいことがあふれてくるのですが、今回は彼との関係性の中で育ったわたしの価値観のようなものを書きたいなと思いました。

前回の話「卒業生・ラーヴォの物語~出会ったころ、そして忘れられない一言」も併せて読んでいただけるとうれしいです。

鈍感なおかあさん

前回投稿の最後の章で書いたことはかなり非日常的な出来事です。
子どもたちは通常半日学校に通い、あとは院内で決められた時間割に沿って穏やかに過ごしていて、それは昔も今も変わりありません。
だからこそ施設の歴史の中で記憶に残る出来事になったともいえます。

ラーヴォもあの一件が落ち着いてから、新しい日本語の先生の下で再度日本語を学び、日本語能力試験N2を取得しました。高校も優秀な成績で卒業し、卒業後はいくつかの仕事を経験しました。

今の彼を見ていると、社会に出てからずいぶんもまれてきたな、と感じます。語学力を活かし、通訳・翻訳・観光ガイドなどの仕事を経て、縫製工場の経営に乗り出したこともありました。人を雇用し、生産計画、製品管理などをする、最初はどの役割も任せられる人がいないという環境で、そうとうな苦労をしたと思います。
特に人を育て仕事を任せていくことの難しさは、身をもって実感したのではないでしょうか。
その上結婚して家族もいるので、独身のときのように自分の都合だけで決められないことも多々あったと思います。いくつかの仕事を掛け持ちして家族の生活費を稼ぐという時期もありました。

そんな忙しい日々の合間にも、他の卒業生と比べてダントツに多く時間を見つけてはわたしに会いに来てくれるのがラーヴォでした。
なにか特別に相談があるわけでもなく、ただわたしの部屋に来てコーヒーを飲みながらあれこれと語り合うのです。

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話が乗りすぎて、そのまま食事していくこともありました。
忙しくしていても夕方から夜は自分と家族のために時間を使う、というのも家族をなによりも大事にするカンボジアらしい過ごし方です。

そのときの会話の流れでなんとなく、わたしがラーヴォに訊きました。
「ラーヴォはなんであんなに一生懸命勉強できたん?今施設にいる子たちは卒業生を見てるから目標にできるけど、ラーヴォの時代には先輩がいなかったやん?」

ラーヴォは早口でこう答えました。
「えーーーーーーーー!!おかあさんが言ったんですよ!将来のためにがんばって勉強しなさいって。それ、僕に訊きますか??」

ラーヴォが言い終わって、二人で大笑いしました。
そうだよね、たしかにそうだ。愚問でした、ごめんなさい。

幼いときに母親を失ったラーヴォは、本当のお母さんに関する記憶はほとんどないと言っていました。その後12歳年上のちょっと世話のかかる日本人をおかあさんと呼ぶようになったわけですが、そんなわたしに母を投影し、わたしからの言葉を素直に受け止め前向きに取り組んでくれていたのでしょう。
ここでしんみりせずにお互いに大笑いできる、わたしがラーヴォと気兼ねなく話せるゆえんです。

昔はよく仕事やプライベートでぐずぐず悩んでいたわたしが「まだ起きてもいないことを不安に思って悩む必要はない。なにかが起きたその時に考えればいい。」と思えるようになったのは、豪快に笑いながら「たいしたことじゃないですよ。まだなにも起きてないんだから。」と言ってくれるラーヴォがいたからです。

お父さんになったラーヴォ

ラーヴォは結婚して1年後にパパになりました。
第1子が生まれたとき、わたしは一時帰国中。名古屋で子どもたちの絵画展の準備をしていた時にラーヴォから連絡がありました。

「かわいくて、ずっと見ていたい気持ちです。」と。

この言葉と共に気持ちよさそうに寝ている赤ちゃんの写真を受け取り、心が幸せで満たされていくというのはこういうことをいうんだなと思いました。
これから奥さんと2人でこの子をどんなふうに育てていくのだろうか。
自分の子どもの教育にも「スナーダイ・クマエ」の教えを活かしてもらえたらと願わずにいられませんでした。

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わたしは教育の専門家ではないけれど、26歳になる年から今までカンボジアで子どもたちと暮らしを共にし、わかってきたことがあります。
その一つが、「教育とは、世代間で何をどのように受け渡しするかということ」です。当たり前のことでしょうと思われるかもれませんが、一般論ではなく自分の体験に基づいて実践することは簡単ではありません。
決して押し付けることなく、「人生において大切にしたいこと」を次の世代に渡していくことなので、そういうものを常々自分の中に感じていない人には伝えることができないはずです。自分が若い頃に、上の世代の人が自分を思って教えてくれているのだなと感じられるような体験をしていれば、逆の立場になったときも相手のことを考えた上で行動できると思います。

それは必ずしも親から子どもへという形だけではなく、もっと大きな枠の中で年長者から次世代に伝えていくことだともいえます。様々な立場の人がそれぞれに大切にするものがあることを知らせる、それが重要であり、これが正解であると相手に強制することではないのです。
この点に関しては、何事にもおおらかなカンボジアの人々と長く接することで育てられた考え方だと思っています。

そして自分よりも若い人たちに大切なことを伝えようという気持ちがない人を大人とは呼べないのではないか、と思うようになりました。
伝える側が年上であることを笠に着て上位に立とうとするのではなく、相手を慮ることを前提としたいのです。
これが本当に難しくて、ある意味修行のようなものでもあります。
自然体でできている人を見かけると自分もそうありたいなと思わせてもらえるので、できるだけそういう人と接する機会を持ちたいと思っています。

わたしはラーヴォをはじめとする「スナーダイ・クマエ」の第一世代のそれぞれの人生に深く関わらせてもらうという体験の上で、この考えに至りました。
そのおかげで第二世代、第三世代とあとに続く子どもたちに対しては、最初の頃よりもかなり余裕をもって接することができたと思います。

ラーヴォならきっと自分の子にも自身の体験を通じて彼が何を信じ、大切にして生きているのかを伝えることができます。

「先輩がまだいないあの頃のスナーダイ・クマエで、頼りなかったわたしの言葉を純粋に信じ、ついてきてくれてありがとう。」

ラーヴォに子どもができた今、今度はわたしが彼を信じる番になりました。

代表になったラーヴォと共に

その後ラーヴォにはもう1人子どもが生まれ、数年前から働いていた首都プノンペンで家族4人が暮らすための家も購入しました。
卒業生たちの中でも一番遠いところに住んでいるはずなのに、あいかわらずわたしと一番よく会ってくれるのは彼です。
2019年からラーヴォは、「スナーダイ・クマエ」の団体代表に就いたので、プノンペンにいる彼と現場で働くわたしが情報を共有しなければならないことも多く、以前よりもさらに細かく連絡を取り合うようになっています。

離れていても連絡をすることが難しくない時代になったとはいえ、イタリアンが好きな彼とピザを食べながら顔を見て話す時間がやはり落ち着きます。
「ラーヴォは高校を卒業してから、就職、転職、夜間大学への入学、起業・・・なんでも自分で決断したきたね。」とわたしが言うと、彼はこう答えました。

「そのときそのとき自分はそれが決断だとは考えてなかったんだけど、こうして振り返るとそのひとつひとつが決断だったんだなと思いますね。」

言われてみればそういうものなのかもしれません。
この子とはこうして物事を測る時間軸も含めてつくづく感性が似ているなと思いながら、その言葉に深くうなづきました。

ここで暮らし始めた20年前に子どもだったラーヴォとこんな話ができるようになったのですから、やっぱりこの仕事はやめられません。
彼と話していると、この先起きるであろう様々な出来事を乗り越えて、今いる子どもたちともまたこんな風に話せる日が来るのだと、自分の未来に射す一筋の光をもっとたどりたくなるのです。


卒業生のラーヴォに「スナーダイ・クマエ」(カンボジア人の手によるもの)という名の団体代表を託した今、少しだけ先に生まれた者としてわたしが大切に思っていることをさらに伝え続けることで、お互いの理解を深めていきたいと考えています。
それはきっと今ここで暮らす子どもたちが大人になった時に、「スナーダイ・クマエ」の教育を振り返りどうやってそれを自分自身に反映させていくかということに影響すると思うからです。



【見出し写真】
2020年@プノンペン ラーヴォの自宅で家族と

【写真①】
2019年@シェムリアップ わたしの部屋でカレーを食べるラーヴォ

【写真②】
2017年@シェムリアップ ラーヴォの第1子を膝に乗せて


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