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★旅の記録★ 吉野ヶ里遺跡への旅

先月末に長年の念願だった吉野ヶ里にようやく行くことができた。

★吉野ヶ里遺跡とは?(佐賀県観光公式web siteより引用)
「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、神埼市と吉野ヶ里町にまたがり、全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の環壕集落(かんごうしゅうらく)跡です。 弥生時代全時期の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超えるかめ棺墓、弥生時代中期の王の墓と考えられる墳丘墓(ふんきゅうぼ)などが発掘されています。墳丘墓からは、高度な技術を要する有柄銅剣やガラス製の管玉などが出土し、中国大陸や朝鮮半島との交流をうかがわせます。 平成元年に一般公開されたときは、中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に記された邪馬台国の姿を彷彿させるとして大きな話題となりました。 吉野ヶ里遺跡は、朝鮮半島経由で伝わった米作り文化や青銅器・鉄器文化を取り入れたムラが、クニの中核集落へと発展していく姿をたどることができる貴重な遺跡として国の特別史跡に指定されています。平成13年4月にオープンした吉野ヶ里歴史公園には、物見やぐら、竪穴住居、高床倉庫等が復元され、弥生時代の雰囲気を十二分に体験できる空間となっています。園内は、広大な敷地を「入口ゾーン」「古代の森ゾーン」「環壕集落ゾーン」「古代の原ゾーン」と4つのゾーンに区分けし、「入口ゾーン」では、吉野ヶ里歴史公園の利用に関わる様々な情報を知ることができ、「古代の森ゾーン」では、弥生時代の植生に近い森を再現。「環壕集落ゾーン」では、弥生時代の建築物である主祭殿や物見櫓の見学、弥生人の生活や文化なども体験でき、併設の展示室では出土品などを見学できます。「古代の原ゾーン」では、広大な芝生の中に物見櫓風の大型遊具などがあり、体を動かして楽しむことができます。」

南内郭~王や支配者層が住んでいた場所~

◎甕棺墓列
大型の素焼きの土器(甕棺)に死者の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法。弥生時代中頃のおよそ200年の間に行われていたとのこと。吉野ヶ里全体では装丁で15,000基を超える数が埋められている可能性がある。

◎環壕
外壕で囲まれた範囲は、南北1km以上、東西は最大で0.5km、面積は40ha以上。幅2.5mから3m、深さ2m前後が一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3m。一部、環濠の底の部分に入ることができるが、その高さはなかなかの迫力。ムラ全体が城のような場所だったことがよくわかる。

環壕
環壕

◎主祭殿
柱の太さ・間隔から3層2層建ての高床建物となると考えらているもの。古代中国の記録などから想像して復元されているよう。吉野ヶ里全体の重要な会議や祀りなどを行っていたと想像されている。これほど巨大な建物をよく建てられたなと感心しきり。

主祭殿

◎高床住居
よくある高床式倉庫とは異なり正方形に近い、特殊な形をした高床の建物。主祭殿と呼ばれる建物のの近くにあることから、倉庫ではなく、最高司祭者の住居だったと考えれれている。卑弥呼さんもこんなところに住んでいたのかなと想像をたくましくできる場所だった。

高床住居

◎王の墓
北墳丘墓とよばれる人口の丘から14基の甕棺が発掘され、その中にはガラス製の管玉や銅剣が一緒に埋められているものもあったことから、歴代の王の墓だったと考えられている。弥生時代中期紀元前一世紀頃のもの。

北墳丘墓の一つ

【感想】長年行きたい場所だった吉野ヶ里遺跡にようやく訪問。東京ディズニーランドと同じくらいの面積と言われて納得の広大さ。復元建物だけでもどんだけあるの?(100棟くらいあるらしい)という感じで、まさに古代史アミューズメントパークという感じ。駐車場には大型バスを含めてそれなりの数が止まっていたけど、歴史公園内が広いので、中に入ると人はまばらな印象を受けるくらい。
復元建物の規模や数、環濠の深さや大きさにびっくりしたが、一番の圧巻は甕棺墓列。復元された甕棺が発掘当時の様子のまま並べられた野外展示はすごい!
こういう場所を小学生くらいの時に観ると、古代史が教科書の中のものではなく、今につながる生活の場として実感できるようになるだろうなと、還暦まじかのおじさんも感動したのでした。
ゆっくりとほぼ全域を巡って約3時間。園内には巡回するマイクロバスもあるので、一通り巡って、最後はバスに乗るというのがお薦め。最寄りの吉野ヶ里公園駅から徒歩10分余りの道中も親切なサインもあって、わくわくしながら進むことができる。
大満足の楽しい旅になった。


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