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季節の谷間の鎌倉散歩 鎌倉宮 護良親王に参拝 20.03.15 12:40

建武中興15社の一つ鎌倉宮。
祀るのは後醍醐天皇の皇子、護良親王。
出家して比叡山天台宗の座主だったが、後醍醐天皇の挙兵により還俗、吉野で楠木正成と時を同じくして挙兵。鎌倉倒幕の立役者となるも建武の新政で足利尊氏の政治力に敗れて鎌倉に流罪。中先代の乱の折、足利直義の家臣淵野義博により殺害された。のがこの場所。恐ろしや恐ろしや。

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護良親王の通称が大塔宮と呼ばれていたことから、鎌倉宮も通称大塔宮とも呼ばれている。呼ばれていたと言っても、自分が呼んでいたわけではないのでホントのところはわからないし、呼ばれていたと言っても紙上の話。音としておおとうのみやが正しいのかたいとうおみやが正しいのか、それとも全く違った読み方をしていたのかは正直わからないはずなのだけれども。

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護良も親王なのだから、仏門に入ったのなら経を読んでいればよかったし、そうでないのなら歌でも歌っていればよかったのに。
なれない武器をとって戦ったりしたって所詮は公卿。本職の武士には敵うまい。

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鎌倉宮が属する建武中興15社ってのは明治に入って作られたもので、明治というものが建武以来の朝廷主導による政府ということなので、改めて鎌倉幕府倒幕の立役者たちを祀ったもの。

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なので、神社としての歴史的にはまだまだ浅く、鎌倉宮にしても鳥居はコンクリートだったりと近代的。

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もっとも、建武の新政も後醍醐天皇のわがままが過ぎて結局人々から支持されることもなく足利尊氏により南北朝を経て室町幕府へと時代は移ったわけだが。
明治という形こそ天皇主導の時代だって、太平洋戦争に負けて天皇は主権から象徴へと価値観がガチャポンしたわけだけれども。

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鎌倉宮に来ると価値観の移り変わりというものを認識させられる。
それでも、明治の人っていうのは偉いもので、建武の功労者をちゃんと覚えていたってこと。朝廷は何百年も忘れてなかったんだね。ちょっと怖い。

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あの時代、後醍醐天皇のために命を落とすような人たちがたくさんいたということも驚き。
そして、後醍醐天皇のために命を落とした護良親王のために命を落とす忠臣の村上義光。その死にどれほどの価値があるのか。現代となっては、身捨つるほどの祖国はありやなのだが。
終焉間近の鎌倉幕府の政治がそれだけ酷かったってことなのだろうか?





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