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一点透視図法。キューブリックの構図に癒される〜北海道稚内市を中心に。

写真を整理していたら、コロナ禍に入る前の夏、北海道稚内市を旅したときの写真が大量に出てきました。あのときはサロベツ原野とはどのようなところなのか、自然観察目的で行ったのだけど、目の前に次々と現れる一点透視図法の風景にココロ奪われ、やがて旅の目的がそっちに変わって行ったのでした。
この構図、映画監督のスタンリー・キューブリックが多用したことでも知られています。しばらく後で気づいたのだけど、この構図の風景を眺めながらクルマを運転していると、頭の中に浮かんでは消えるいろいろな思いが、すっきりサワヤカに整理されて行きます。
このあたり、オートバイに乗る人には聖地のようでもあり、今年の夏にお勧めの旅先でもあるので、写真を中心にまとめておきます。

留萌から稚内に至るオロロン街道。

旅の始まりは旭川でした。旭川空港でレンタカーを借り、行きたい店がいろいろあったので、その日は旭川駅の見えるホテルで一泊。そして翌朝のようすがこの写真です。何気ない早朝の駅前ですが、さすがに北海道ですね。すでに一点透視の構図が見え隠れしています。

20年くらい前まで、旭川にはスノーボードでたびたび来ていました。久しぶりに来てみると、駅前がすっかり変わっていたのにはびっくり。昔の駅も、シブくてよかったんだけどな。

旭川から士別方向へ、内陸を真っ直ぐ行く道が近いようです。でも急ぐ旅ではないので、まず留萌に出て、日本海沿いの道、通称『オロロン街道』を北上することにしました。

旭川を離れる前に、とにもかくにも『蜂屋』のラーメンだけは食べておかねば。焦がしたラードの強烈な味わい。僕はラーメンの燻製と呼んでいます。以前は旭川駅にも支店がありましたっけ。
留萌に向かう途中で出会った、函館本線の納内(おさむない)駅。跨線橋がかわいい。ところでこの駅は無人駅なのだけど、駅舎は地元の役場の出張所として使われていた。こういう使い方をすれば、無人駅も寂れずに済みますね。もっと全国でもやればいいのに。
留萌駅を経由して日本海へ。いきなり演歌が似合いそうな海に出た。このときは7月だったけれど、寒いのなんの。
この道は「にしん街道」とも呼ばれているんですね。かつての栄華、にしん御殿の跡も見学できます。見どころ満載で、ここには一時間くらいいたけれど、その話を始めると長くなるので先を急ぎます。
カコクな自然と一本の道。気分が出てきたので、クルマを停めて撮影。

北海道の原野のような道を走りながら、やがて農地が現れ、続いてガソリンスタンドやクルマの販売店が現れると、「あ、次の街が近いんだな」と思う。街の隅の方には、たいてい床屋さんがありますよね。

こうして街に入っても…
またすぐに、もとの景色に戻るわけで…
バス停! 荒野のような寂しい道が続くと、このようにとても日常的な施設が愛おしくなる。
バス停くらいだったら愛おしいけれど、ここまで巨大な人工物は、かえって不気味でもあり。

やがて天塩川流域の天塩市に入る。このあたりに日本最北端の田んぼがあると聞いて、探してみたもののわからなかった。雨も強くなってきたので、とにかく先を急ぎましょう、と。

はるばる来たぜ、稚内。ここは国境を学ぶ街。

稚内かぁ。とうとう来てしまったか。などと、たどり着いた実感は、道路上の行き先表示を見ると湧いてくるものです。

宿は、北防波堤ドームのすぐ近くと聞いている。
初めて来た街では、まず最初に駅を見に行く。やったぜ最北端の終点。
駅前の商店街では、ロシア語が目立つ。
そして何より驚いたのが、この建築物だった。稚内のランドマーク、北防波堤ドーム。

北防波堤ドーム。なんなんだ、これは!
稚内港の《北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、昭和6年(1931)から昭和11年(1936)にかけ建設された防波堤です》(稚内観光情報より)とのこと。

真横から見ると、こうです。美しいでしょう?

ここが旧樺太航路への通路だったということは、かつて、この北にも日本があったということ。そして第二次世界大戦後、旧樺太に住んでいた多くの日本人が、着の身着のまま北海道まで引き上げてきて、ここを歩いたはずです。
そしてその中に、母親とともに引き上げてきた昭和の大横綱、少年時代の大鵬の姿もあったとのこと。

稚内の道の駅、『稚内副港市場』に併設された『稚内市樺太記念館』は、国境を接する稚内市ならではの資料館で、とても貴重です。
かつて北の島や海には、土地を所有するという概念を持たない平和な人たちが暮らしていた。そこに北から南から、違う文化を持つ人たちがやって来て、それぞれが領有を主張し、歴史が大きく動き始める。
入場無料、資料の閲覧も写真撮影も自由。もしも稚内に行く機会があれば、ぜひとも訪れてほしい施設です。

前述の横綱大鵬についての話は、ここで初めて知りました。
貴重な資料が多い。これを読み込むには数日間通わねば。
かつて、旧樺太に置かれていた旧ソ連との国境を表す石。
『稚内副港市場』内には、このような施設が復元されています。
稚内でのお土産は、だいたい『稚内副港市場』で揃ってしまいそう。
稚内市内のどこでも買えるこの牛乳が、とても美味しいのですよ。

さて、と。北の国境について学んだ後は、再び一点透視の世界へ戻ろう。

湿原に木道が敷かれている理由は、自然保護だけではないのです。

翌日はいくぶん天気が回復したので、利尻富士が見えるかな、と思って再び昨日の道に戻ったのだけど見えませんでした。

利尻富士は諦めて、この看板に従って右へ。
幌延ビジターセンターよりの眺め。北海道では、釧路湿原に次ぐ広さの湿原なのだという。
ほら。ここにもキューブリックの構図が。

木道を吹き渡る風が心地よい… などと書きたいところだけど、湿原ってけっこう怖いところなのですよ。
まずこの木道は、なぜ敷かれているのか? もちろん何十万年もかけて育った貴重な自然を守るためでもあるけれど、もうひとつ、危ないところに踏み込まないためでもあるのです。
なぜなら、こうして見ているだけではサワヤカな草原のようだけど、ここは湿原。上からのぞき込むと、けっこう水たまりなのです。そして水たまりの深さもさまざま。中には深さ数メートルの穴もあり、そこに落ちた動物は、草がからまって出てこられなくなるのだとか。もちろんニンゲンでも同じこと。
怖いよね。僕はそういう話を聞くと夢に見てしまうことがあります。だからこそ、木道を大切にしなくてはなりません。踏み外してはなりません。自然はこうして、いろいろな方法で身を守っているんですね。

最北端のいろいろ。

せっかく稚内に来たのだから、いろいろな最北端も見ておきたい。で、おなじみのこちらから。

ここ、いろいろな人が記念撮影するので、無人の状態を待つのが意外に大変です。
なんと、最北端の碑の裏には階段があった。日本最北端の階段と、日本最北端の波打ち際。
最北端の階段から見た海。沖に小さな岩がある。あそこがホントの最北端かな。そして最北端の鳥。僕はこの時、日本列島のいちばん北にいる日本人だった。
何も書かれていないけれど、これが日本最北端の信号機。
最北端の碑は、けっこう気持ちの良い公園の中にあります。つまり日本最北端の公園。
さてと、そろそろ稚内を後にするかな、と思ったら、もうひとつあった。日本最北端の給油所。ガソリン価格は2019年7月のものです。
それでは、宗谷岬を後に、紋別まで行って一泊し、旭川に戻ります。

オホーツク海沿岸の一点透視構図。

ここから先も写真中心に繋いで行きます。

浜頓別の街を通過。街の外殻には、たいていガソリンスタンドがあり、そこから先は広い農地。
何とか、日があるうちに紋別に到着。

そして翌朝は、オホーツク海沿いに少し戻り、興部(おこっぺ)という街から山に入り、旭川空港を目指しました。

オホーツクの短い夏。ここもまた、冬〜春には流氷に覆われるのかな。などと思いに耽る。
途中で見つけた「オムサロ原生花園」の道。こうして写真で見るとのどかなのだけど、実はアブが多くて、払いながら歩くのが大変だった。
山道に入り、途中、西興部の街で見つけたゲストハウス。廃校を利用している。ご主人に話を伺おうと思ったけれど、あいにく留守のようだった。
ほら、ここもこうして見ると、一点透視図法。
そして再び街が現れる。ここも道はまっすぐ。
上川盆地に入ると、真っ直ぐな宗谷本線のお出迎え。
いつかnoteでも紹介した瑞穂駅は、この時に撮影したものです。

これほど同じ構図を見ているうちに、浮かんでは消えるいろいろな思いが、ひとつひとつ整理されて行くような気分になるのです。

旭川空港へ行く前に、『六花亭』でコーヒーなど、と思って立ち寄る。あら、ここにも一点透視図法が。西から当たる木漏れ日を取り入れた、エントランスがうつくし。
レンタカーを返却し、旭川空港に入ると、わたしを現実の複雑な構図に連れ戻す飛行機が待っていた。

以上です。話が横道に逸れるといけないので今回は端折りましたが、サロベツ原野にも稚内にも話したいことはたくさんありました。その話は、いずれ改めて。最後にひとつだけ、稚内のツブ貝がとても美味しかったので、記念に貼っておきます。



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