自分の正解

 『ナナメの夕暮れ』を久々に読んでいる。この前友人と本屋に行った時に、彼女がナナメの夕暮れを買っていたからだ。なぜだかすごく嬉しかった。「やっぱりそうだよな!!」と思ったからだろうか。次会ったときは、絶対にナナメの夕暮れの話をするんだ!!と心に決めた。そのための準備だ。こんなにわくわくして楽しい読書は久しぶりだ。(『ナナメの夕暮れ』は僕が(勝手ながら)この世で最も影響を受けている人物の一人である、オードリーの若林正恭さんのエッセイ本だ。)

 どんなに繰り返し読んだ本でも、久々に読むと発見があるのが読書のいいところだと思う。一人の人間が懸命に、時間を割いて綴った言葉には、一度では味わい尽くせないくらい濃い感情が込められている。読書の楽しさを再確認できたことは、ここ4年間ほどなぜか本が読めなくなっていた僕にとっては何物にも代えがたい価値がある。『ナナメの夕暮れ』に「自分の正解」というタイトルの章がある。この章がとても心に残ったので、少し引用する。

『他人の正解に自分の言動や行動を置きに行くことを続けると、自分の正解が段々わからなくなる。〜(中略)〜 自分の意見は殺さなくていいということだ。自分の正直な意見は、使う当てのないコンドームの様に財布にそっと忍ばせておけばいい。それは、いつかここぞという時に、行動を大胆にしてくれる。』

 僕は自分の正解がなんだかもうよくわからない。大学に入ってからずっと、自分が「ごろう」なのか「わたる」なのかよくわからないものを演じているような気がする。5年ぶりの社会に復帰、久しぶりの下級生ムーブ、ミスしまくっていたたまれなくなる週3の部活、同回生からネット経由で届く匿名の悪意、そんなものにてんやわんやで、久しく自分のめんどくさい本音をぶちまける機会がなかった。しかし、この前岡山にいる親友(と僕が勝手に思っている友人)に会ったとき、久しぶりに何も気を使わず喋れた気がした。頭がおかしくなりそうなくらい楽しかった。朝4時までへとへとになるまで喋りまくった。最高の時間だった。「僕はこういうかたちのモノだったな。そうだったそうだった。」という独り言を帰りのバスで言ってしまうくらい。まあこれは嘘だけど。

 本当の自分なんて、そうそうさらけ出せるものではない。そんなものさらけだしたら僕は部活にも大学にもいられなくなる。だからこうやって一人で文章を書くなんて気持ちの悪い趣味に興じているわけだし。僕だけじゃない。みんなそんなもんだろう。僕みたいなもんにとっての自分の正解は、財布に入れられるようなまとまった綺麗なものではなく、20Lのゴミ袋に入れて持ち歩くくらいがちょうどいい。まだ自分の正解がなんなのか、本当の自分がなんなのかなんてわからないし。久しぶりに、20代前半でみなが済ませると噂に聞く『自分探し』とやらを再開してみようと思う。どこでおっことしたんだろう。

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