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【エッセイ】詩を書く理由

「言葉」には「紡ぐ」という動詞が宛てがわれることがあり、
「文章」には「編む」という動詞が宛てがわれることがある。

言葉を紡ぎ出して、文章を編み出す。
編み出すというのは「考えて手を動かす」ということ。つまり「自分の伝えたいことを言葉で話そう、何かを表そうと考えて、手を動かす」ということ。

海外旅行に行ったひとなら一度は経験すると思う。
異国の地で、言葉が分からない状態で、とにかく自分の伝えたいことを何か形にしようとする、というのはなかなか大変なことだ。

何故、わたしは、それだけの労力をかけて、言葉を紡ぎ、文章を編むのだろう。
それはきっと、「戦う」ということだからだ。

何と戦うのかと訊かれたら、それは自分自身の内側にある怠惰だ。
その怠惰とは、他人の用意した言葉に、何の疑問も考えも抱かないまま、鵜呑みにすることでやり過ごそうとする、受動的な姿勢のことである。

「言語は思想を伝える機関であると同時に、思想に一つの形態を与える」

『文章読本』谷崎潤一郎

谷崎潤一郎という作家の言葉だ。
彼は同時に「最適な言葉はただ一つしかない」とも言った。
言葉は思想に、ひとつの形を与えるものだという。
つまり、言葉は思想の容れ物であり、言葉を選ぶということは、自分の思想をもっとも正しく体現する容れ物を選ぶことに繋がる。

この言葉を転ずると、誰かの選んだ言葉をそのまま使う、ということは、誰かの用意した容れ物をそのまま使って、自分の思想をそのなかに納めるということになる。
その容れ物が自分に合った大きさ、或いは自分より大きい容れ物だったのなら、問題なく過ごすことができるのかもしれない。

問題は、その容れ物が小さかったり、自分に合わない形だった場合にある。
一度立ち止まって考え直さなければ、その容れ物から溢れ出してしまった自分の一部はどうすることもできなくなってしまう。
そうして、相手の用意した理想や価値観の容れ物の外側に向かうことができなくなる。

すると必然的に、自分に対して何かしらの忍耐を強いなければならなくなるのだが、自分で納得し、その忍耐を甘んじて受け入れたわけではなく、他に方法を思いつくことができなかったから、その思想以外の思想に触れることがなかったから、そうなってしまったとなると「何故、自分に合う思想を相手は用意しないのか」という、理不尽な他人への憎悪ないし、負の感情が自分の内側に生まれてしまうことがある。

自身の怠惰さが自身の首を絞めているだけなのにも拘らず、その負の感情は常に被害者の顔をしている。そして「何故自分に合う思想を相手は用意しないのか」という、この台詞が「大義名分」と言う名のナイフに変わり、周囲と自分とを傷つけていく。

つまるところ、この怠惰さを自分に許してしまうと、自分の考えを他人へ委託せざるを得なくなり、人生の主体を自分に置くことができなくなる。
その結果、自分の存在や自分にとって大切なもの、自分の居場所を尊重し、人間らしさを保ちながら、自分らしい生き方をすることができなくなってしまうのではないか。と、わたしは考えている。

だから、わたしはできるだけ「誰かの言葉をそのまま借りて自己を表現する」ということはせずに、自分が考えて紡ぎ出した言葉で、文章や詩を編んでいる。

自分にとって大切なものを明らかにし、自分らしい生き方を守るために。

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こう書くと、ずいぶん大層なことをしているように聞こえる。
しかし、それだけ、わたしにとって「文章を編む」ということ、とりわけ、その中でも「詩を書く」ということは、大切なことなのだ。
例えるなら、心の内側で、いつのまにか埃を被ってしまった大切なものを拾い集め、手入れをするような行いに近い。

ここまで、わたしが言葉を書く理由について、長く書いていたが、わたしは決して言葉そのものを信頼しているわけではない。

言葉は平気で嘘を吐く。
それは相手に対してだけではなく、自分に対しての言葉も同様で、大切なのは「何を、どうして、その言葉にしたか」というところにある。

わたしが詩を書くのは、綺麗な言葉で何かを飾り立てたいからではない。
自分の感じたことに対して、名前をつけて、ひとつにまとめることに意味を感じているからだ。

多くのひとが、自分が感じたことや考えたことを見過ごしてしまうように思う。
その内容が辛かったことことや苦しかったことなら尚更、価値のないものに思ってしまうのではないだろうか。
文字にして残しておくことに何の意味がある、と。
だけれど、わたしは、その見過ごされてしまう経験が自分を形作っていると考えている。

わたしは、希死念慮に苛まれるような経験をした際、自身の現状を乖離させて、客観視することでしか自分を保つことができなかった。
自分の苦しんだ経験を基盤に、言葉と音楽を使ってその状態を客観視し、供養することで、荒れた心をコントロールしようとしていた。

自分が今まさに苦しみの中にいるというときに、誰の言葉も響かないということがある。自分が心理的にどういう状態に陥っているのか、正確に推し量ることができるのは自分だけだからだ。
他者は、いちばん近い仮説を立てることしかできない。
(もちろん、その仮説が救ってくれることもある。或いはそれ以外の方法で救われることもあるから、そういった他者がいてくれることは、かけがえのないことだと思っている)

そういった、誰の言葉も響かないときに、「何をどういう風に感じていて、だからどんな選択をしていたか、それによってどんな結果を得たか」ということは、同じような境遇に陥っているひとにとって、有益な情報になる。自分の心理状態を推し量る材料になるからだ。

そのうち、わたしはまず、何をどのように感じていたかということを最も重視している。これを忘れてしまうと、その経験を自分の中で他人事にしてしまうからだ。

だから、わたしは、詩を書くうえで「自分の経験や体験、感じたことから目をそらさないで書く」ということを、いちばん大切にしている。

次に。
それら経験や体験に、名前をつけてひとつにまとめるとは、どういうことなのか。

わたしの作った詩、特に、「人形の夢」のアルバムになっている曲たちの下敷きになっている詩は、わたしが世界を見て、何を感じて、それらをどう名付けたかを並べたものだ。(※下記が同アルバム)

名付けた、といっているが、厳密には何か言葉を新しく一から創作したわけではなく、実際にあった出来事を、既存の名称に置き換えている、という方がより近い。客観視するためでもあるが、そのままの言葉で書いてしまうと、あまりに生々しく聞くに耐えない経験も存在する。だから、別の言葉に置き換えて眺めている。

名付けの元になっている感情は、祈りであることもあれば、賛美であることもある。嬉しかったこと。悲しかったこと。自分の心が揺れ動いた事柄に、何かしらの名前をつけて置き換えると、その事柄をひとつの形にして身近に保存したような感覚になる。

名称が与えられて初めて、それが実際に存在していることに人間は気づくものなのだ。そうして、世界の新しい一部分が誕生してくる。

『悦ばしき知識』/ ニーチェ

そうして保存した自身の経験は、わたしの心の内側で、どんな宝石よりも鮮やかな記憶になるし、そうして紡がれた言葉はどんな剣よりも強く、自分も他者も裏切ることがない。

だから、わたしにとって「詩を書く」というのは意味のある大切なことだ。
自分自身の経験をより身近においておくために、そして、それを裏切らない形で他者に伝えられる一歩にするために。

この記事の冒頭に「自分にとって大切なものを明らかにし、自分らしい生き方を守るために、自分の言葉を書く」と書いたが、

どんな剣よりも強く自分らしい生き方を守ってくれて、
どんな宝石よりも鮮やかに輝く体験を明らかにしてくれる、
そんな言葉を、詩を、これからも紡いでいきたいと思う。

それが、あなたの心を震わせるような言葉であったなら、なお嬉しい。

しののめより。


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