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【エッセイ】昼と夜の境目

「世間にたそがれの味を、ほんたうに解して居る人は幾人あるでせうか。」

泉鏡花『たそがれの味』より

これは、私の好きな作家の言葉だ。
今回は、そのひとの言葉をお借りして、話をしようと思う。

日本語には「たそがれ」という言葉がある。
そのひと曰く、
「たそがれと夕暮れは違うもの」らしい。
「多くの人は、たそがれと夕ぐれとを、ごっちゃにしている」と言う。

この文章を読んでくれているあなたは「たそがれ」に対して、どういう印象を持っているだろう。
どちらかといえば、夜の色を帯びているというのか、暗い色という印象の方が強いのではないのだろうか。
しかし「たそがれは、暗い色ではない」という。
かといって、昼の光に溢れているわけでもない。

「昼から夜に入る刹那の世界、光から暗へ入る刹那の境、そこにたそがれの世界があるのではあるのではないか」
そのひとはこう言った。

たそがれは暗でもなく、光でもない。
また、光と暗との混合でもない。
光から暗に入り、昼から夜に入る、あの刹那の間に、特別に存在する一種、特別な、微妙な色彩の世界。

それが、「たそがれ」だ、と。

また、暗から光、夜から昼に入る合間にある色彩の世界のほうは「しののめ」だという。
(※しののめ→東雲と書く。一般的には夜明けを指す言葉として用いられる)

私の名前は、この言葉から取っている。

「光と影」「白と黒」「明と暗」「善と悪」「男と女」といったように、世の中には二分されている物事がある。

しかしながら、何かを伝える際に、わかりやすいようにそういう分類がされるだけであって、実際のところ、物事はそう簡単にふたつに分けられるものばかりではないと、私は思う。

「光と影」もしくは「明と暗」の間には、そこに至るまでの階調(グラデーション)があり、それは「善と悪」「男と女」の間にも、同じように横たわっているのではないだろうか。
本当は、明確に境界とよばれるものはなくて、曖昧な何段階もの階調が存在しているのでは。

そう考えて周囲を見渡すと、そのグラデーションの色が豊かになるときには、一種、ときめくような発見があり、豊かになればなるほど、鮮やかに世界を見ることができる。

パレットに載せる色を集めるように、自分なりの物の見方を、ものさしを、増やす。
自分なりの特別な、微妙な色彩の世界をつくる。
そういう目で、世界を見ている。

***

周囲と自分が食い違っているとき、「違うものだから」とあきらめて、切り分けてしまうと苦しくなることがある。

そういうときに、この「間を見る」というのは便利で、ふたつの間を見ると、確かに違いはあれど、自分と周囲は明確に分断されているわけではなくて、ただ、距離が離れているだけで、一続きのものだと感じることができる。
大切なのはその間を伝えることで、どう違うのか、何が違うのかを伝えることができれば、残りは、その間をどう埋めるのか考えるだけだ。

微妙な色彩の世界を大切にすることで、自分がどう相手と違うのか、違いがある上で、どうお互いを大切にするべきかが見える。
そう思いながら日々を過ごしている。


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