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2023年下半期の文芸誌を振り返る! 第170回芥川賞候補作予想〜!

 ごきげんよう、あわいゆきです。

 いよいよ師走、一年もあっという間に終わろうとしているこの頃。
 みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

 しかし……2023年、まだ終わらせてしまうわけにはいきません。
 なぜなら——12月14日朝5時、第170回芥川賞と直木賞の候補作が発表されるから!

 私のような芥川賞・直木賞の候補作を予想するために生きている人間にとって、心臓を高鳴らせながら菊池寛さん(日本文学振興会の公式アイコン)を見つめつづけるこの日は、年に二度のお祭りのようなものです。いまから気分が高揚して仕方ありません。


 そのため今回も勢いのままに、2023年下半期に文芸誌に掲載された小説を振り返っていこうと思います!

 なお、すべてを振り返ろうとすると数が膨大すぎるうえ、私も網羅できていません。
 そのため純文学系の文芸誌に掲載された創作のなかから「芥川賞未受賞作家の中篇小説(原稿用紙100枚以上300枚未満)」「新人賞受賞作」に絞って振り返っていきます!
 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。
 はじめに下半期の五大文芸誌+αについて振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!


振り返り

文學界

 上半期は「ハンチバック」が芥川賞を受賞した文學界。芥川賞の選考をしているのは日本文学振興会(実質的な文藝春秋)なのもあり、必ず一作は文學界の掲載作が芥川賞候補に入ります。

 なかでも下半期最注目は朝比奈秋さんの「受け手のいない祈り」(12月号)
 地域唯一となってしまった救急病院で働いている外科医が次第に壊れていく本作では、 医者が生きている人間の身体を合法的に切れてしまう、あるいは次々に人間が亡くなっていく環境に対する精神的な疲弊が生々しい筆致で描かれています。
 そして医者が「危機迫る人の命を救う仕事である」という職業的な通念を反転させる形で発生する医者自らの人命軽視、自助するべきだと自覚しているにもかかわらずできない状況が「内臓」と「私」(肉体と精神)の分離を招いて狂っていく過程など、書こうとすると思わず尻込んでしまうような現実の数々は、あまりの濃度に息をつく暇がありません。
 また、本人にとって不可視な「内臓」が人間の生死と生活サイクルの反復を規定している、として悟りを開く瞬間(死に至る瞬間)までをも描いており、過去作である「植物少女」「あなたの燃える左手で」を経たうえで、その先にある“人間”とは何か、という観念に到達している印象すらあります。

 朝比奈秋さんは今年の春に『植物少女』、秋には『あなたの燃える左手で』でそれぞれ三島賞と野間新人賞を受賞しており、今年最も躍進をした作家さんといっても差し支えないほどです。いまだ芥川賞候補には縁がありませんが、満を持してここで初候補となるのではないでしょうか。


 また、朝比奈さんと同じ号に掲載されていた加納愛子さん「かわいないで」(12月)にも注目。観察者、傍観者的な立場から己を自制して(極めて理性的に)行動していた女の子が、教室やバイト先で発生する不十分なコミュニケーションの当事者になることで脱・脳内コミュニケーションを試みていきます。
 “カクテルパーティー効果”というあまり知られていないフレーズを取り上げながら、他人事のように世界を眺めていた語り手が徐々に現実へ引き摺り込まれていく展開は読み手を没頭させます。
 また、語り手が他者の声・音に耳を澄ませているだけあって、会話のテンポが心地よくなるよう描かれていたり、「音」がモチーフとしても活かされていました。読みやすい一作です。

 そしてもう一作、注目したいのが奥野紗世子さんの「享年十九」(11月)。 芸能界で常態化してしまっているハラスメント/性暴力の内実を示しつつ、同業者に向けられた告発を見て、いまさら湧いてきた罪意識に怯える50過ぎの男性を描いています。
 metoo運動で告発される可能性があることをしてきた、後ろめたさを抱えた男性の「どう在れば穏健に事を落ち着かせられるか」的な現状維持の心理を、現代的な(“アップデート”された)価値観となんとか擦り合わせながら考えていく思考過程に読み応えがあります。 その男性も「男らしさ」的なジェンダー規範の押し付けによってプライドを植え付けられていることが繰り返し示唆され、ある種のミサンドリー(あるいは同族嫌悪)に陥っているなど、作中に登場する人間たちはいずれも、一面的な人間としては描かれません。それによって、物語に奥行きがでています。

 ほかにも、芥川賞候補に選ばれたこともある石原燃さんの「いくつかの輪郭とその断片」(8月)は有力作のひとつ。50代の女性二人を視点人物に、妊娠/中絶をめぐる女性身体への偏見あるいは在日外国人女性の待遇など、マジョリティな他者からかけられる同調圧力的な抑圧が描かれます。「話すことでその経験に光を当てたかった」という言葉を軸に、 Metoo運動のような連帯を、世の中を変えていく大きな運動としての意義のみならず、経験の共有による自己救済として個人的なスケールでの有用性を見出す視点は興味深いものでした(もちろん、言いたくなければ言わなくても良いと、作中ではフォローされています)。

 そして「ADHD」や「ASD」としてラベリングされてしまいそうな人間を類型から外しつつリアルに描いてきた三木三奈さんは今回も例に漏れず、「アイスネルワイゼン」(10月)で生きづらさを抱えた女性の1〜2日を淡々と描いていきます。 地の文を状況説明のみに留め、自省的な語りの一切を省いた三人称が特徴的。
 語り手の琴音は社会に無理やり適応するため、本音を隠しながら過剰に相槌をうって共感のふりをし、 親や友人知人、交際相手に至るあらゆる人脈を”消費“して目の前の状況を生き延びようとします。 ただ、そうした生き方は他者からすれば「人間味がない」「自分勝手」と外側だけで受け取られ、彼女が抱えている内側まで理解されることはありません。 そして度重なる社会との「噛み合わなさ」に疲れ果てた語り手は、自棄になって自覚的な〈自分勝手〉に傾倒していきます。 ひとと繋がらずにはいられない切実さと哀愁を漂わせながらも、〈自分勝手〉の内訳が他者から判別できない事実を示している作品です。

 杉本裕孝さん「ジェイミー」(11月)は時代の不文律によって「仕事が恋人」にならざるを得なかった40代ゲイセクシャル男性の半生を、友人であるジェイミーとの交流を軸に、ランダムな回想によって辿っていきます。
 当時の社会規範ではゲイセクシャル同士の結びつきを持つのが現代よりも難しかった、という時代性を鑑みながらも、 作中には「facebook」「LINE」のようなSNS的ガジェットを持ち込まれており、 これによってランダムに張り巡らされた回想がSNSのアーカイブをDigしているような感覚と同期されているのが特徴的。ジェイミーの人間としてのフレッシュさも、古めの時代設定にうまく風穴をあけています。


 そして仙田学さんの「その子はたち」(9月)は、前作の 「赤色少女」に続いて子持ちの主婦を語り手とした旧い家族制度の破壊と、新たな家族像の提示が描かれます。
 血縁に縛られた家族制度を鮮やかに、なおかつ斬新に解体しながら、本作では血縁による結びつきの強さも描くことで、より問いかけとして成立していました。

 水原涼さんの「誤字のない手紙」(7月) は、郵便局の一部門、「手紙のなかにある誤字を修正する」仕事についている男性が主人公。架空の職業でありながら、実在しているのではないかと思わせるほど細かい描写には隚目するばかりです。
 作中ではタワマンに住んで順風満帆な人生を送っている兄とパニック障害を患っている自らを比較しつつ、誤字(=エラー)を修正する(=正す)行為が行われます。しかし上手くいかないのは人間が根本的にエラーを抱えている生き物であるがゆえ、とも読めて、人間と手紙の違いに迫っているのが面白いところです。

群像

 上半期で4連続受賞の記録が途絶えた群像ですが、相変わらず新進気鋭な作家さんの良作が目立ちます。
 特に今回注目したいのは、群像新人文学賞を受賞した作家さんの受賞一作目。


 まず平沢逸さんの「その音は泡の音」(9月)。お笑いサークルのメンバーが合宿の旅をする様子を描く、素直な青春ロードノベルとして高い完成度を誇りながらも、一人称として〈わたしたち〉を用いているのが特徴。〈わたしたち〉がメンバーのうちの誰でもないような語りをし、知り得ないはずの未来を語り、まるで世界全体を俯瞰しているような視点人物として振る舞うことで、独特の読み味を生み出していました。〈わたしたち〉と総体で括られたサークルメンバーを俯瞰的に捉えながら読み進めることで、いくつものオブジェクトの重なり自体を覗き込んで複雑さを体験する、まるで万華鏡を覗き込んでいるような感覚をもたらしているのです。
 そしてこの万華鏡的な構造が、人間が備えている“五感”、あるいは人間の記憶にも適用されていきます。 たとえば表題にもなっている「音」は世界に溢れかえっていて、仮にいま耳を澄ましたとしても、個数として正確に数えられるものではありません。音はいくつも重なり、ひとつの大きな集合体として〈せかい〉に存在します。 人間の記憶も同様にn個として数えられるものではなく、やがて曖昧になってしまうところまで含めて、他者との関わり合いによって「いまこの瞬間」ひとつのものとして形成されていくでしょう。
 終盤ではそうした〈万華鏡のように捉える発想〉を活かし、それでは万華鏡のオブジェクトを一つだけ取り出したらどうなるのか……?と、さらに意外な展開へと発展していき、最後まで飽きさせません。ロードムービーとしての完成度もさながら、実験性にもあふれている一作です。


 次に小砂川チトさんの「猿の戴冠式」(12月号)。 人間による訓練を受けた経験のあるボノボのシネノと、競歩選手のしふみが動物園で出会う、想像による人間と猿のシスターフッドです。
 高度に知能の発達した猿の存在はよくある設定でありながら、本作では動物園のなかに閉じ込められているシネノに強い共感を抱く、人間のしふみが登場します。そして彼女がシネノに境遇を重ねすぎるあまり想像を深くしていき「わたしは猿と一緒に訓練されていた」「シネノがおねえちゃんだった」と本気で思い込むようになる(現実から離れて一体化していく)過程を描くのです。想像内における半ば一方的なシスターフッドを結んで「社会的な規範に囲まれた檻のなかにおける反復」から脱出しようと試みる展開は一癖二癖あります。
 また、現実と想像が混線してひとつの大きな主体になっていく過程を、一人称と三人称(あるいは二人称)の混在によって表現しており、己の手で己に冠を被せて自尊心を保とうとする、想像では及ばない現実における救済も用意されていました。勢いがある描写や皮肉めいたセリフも散見され、 決して堅苦しくない勢いのよさを保ちながら、どこか切実さも抱かせます。

 そして最後に村雲菜月さんの「コレクターズ・ハイ」(12月)は、お仕事×推し事な「オタク」小説。 本来触れられるのが嫌なはずの頭部を「オタク」ゆえに託し「オタク」ゆえに差し出す、対象の異なるオタク内での仲間意識とその崩壊が描かれます。
 様々なオタクがいるなかで「推す」行為の本質が失われ、目的を遂行するための手段と化したり、推しを道具化したり、犯罪に近い行為に走る、という暴走は現実に多くあるものでしょう。 ただ、「推し」を信仰として実存に近づけていく小説はあれど、「道具化」してしまうことの負の側面を描いた小説は稀。 「オタク」の多様さと仲間意識ゆえに顕出し、その多様さが崩壊を招く構図は面白いものがあります。 オタク的行為の対象となる事柄が仕事と結びついているか否かで正当性がうまれ、「お金を払ってオタクする」「お金をもらってオタクする」不均衡みたいなものが発生している視点も興味深いです。

 また、ほかのマスコットキャラや企画案となるデザインは事細かく説明されるのに、語り手がハマっている肝心の〈なにゅなにゅ〉がわざと一切説明されず進むので、すっとぼけたツッコミ不在の面白さも醸し出しています(それ自体も「推し」の本質にディテールは関係あるのだろうか、と考えさせるためのトリガーにはなっている)。
 語り手の造形も、ケチで楽したがりで浅ましいところもある俗っぽい人物として描かれており、そのおかげで語り自体が面白くなっていました。一方でそれは親から連鎖してしまったものではないかとも仄めかされており、明らかに笑いを誘おうとするツッコミどころを用意しながらも、テーマと結びつけているあたり一筋縄ではいきません。
 逃れられない外部からの影響、を強く感じさせる小説になっています。


 上のような受賞第一作以外にも注目。鈴木涼美さんの「トラディション」(8月)は、芥川賞候補にもなった過去作たちと比べるとモチーフ・メタファーを用いた技巧面が抑えられ、かわりに「私」や周辺人物の内面の掘り下げが際立っていました。
 今回の語り手「私」はホストクラブの裏方として働き、ホストクラブにやってくる「姫」を内心で小馬鹿にし、「姫」が得られないものを身近に置くことで優越感を得ています。一方で、「姫」のお金に生活を依拠している状況に陥ってもおり、単純に小馬鹿にできる立場ではありません。同じ場所にいるがゆえの表裏一体さ、から生まれ出てくる焦燥や不安が、観察めいた語りに揺らぎをもたらしていました。 ホストクラブの構造 / のめりこむ心理も詳細まで描かれていて、 「別れや絶縁の言葉を繰り返したぶんだけ意味が削ぎ落とされていく」、外部的な価値へ傾くにつれて空虚になっていく自らの身体性をつまびらかにしていきます。
 “光”の側とは言えない業界にかかわる女性(あるいは男性)を、「私」が近い地点から観察するいつもの作風でありながら、決して同工異曲にはなっていません。

 青木淳悟さんの「春の苺」(12月)は、いつぞやの新潮に掲載されていた「ファザーコンプレックス」のおそらく前日譚的な位置付け。亡くなった父について書こうとするものの、踏ん切れない語り手を描いていきます。
 些細な嘘を重ねることで「強大な現実から逃れようとする」、語り手の心情は父親の死と向き合うことへの怯えが背景にあります。しかし現実はフィクションを凌駕する——その象徴としてコロナ禍が扱われるのは流れとして妥当でしょう。 編集者と作家のソーシャルディスタンス的なやり取りは面白く、本音を隠すように用いられる丸括弧もその独特さが効いていました。


新潮

新潮新人賞が発表された新潮。今回は二作が同時受賞というかたちになっています。

まずは一作目、伊良刹那さんの「海を覗く」(11月)。 男子高校生が同級生に寄せている関心→恋心、が、 “俗”性を徹底的に拒んだ観念的な文章で終始描かれます。
 作中では芸術的感性を通して、美と死や実存を巡る思索が全編通して張り巡らされており、耽美的な装飾を過剰に施すことで意図的に現実からの乖離がなされているものの、思索自体が深い域に達している印象は感じません。だからこそ「理解し合えない他者との関係や、理想と現実の乖離にもがく若者の悩み」としてひどく単純化してしまえる余地がうまれており、世界に対して関心/無関心な若者が世“俗”に適応されていく典型的なイニシエーションを描いている、とも読めます。 ただ、そうした読み方を登場人物は明確に拒み、“俗”への堕落的展開で終わらせようとはしません。最終的に「完全なる美への挑戦」に到達する瞬間にはカタルシスがあり、そうした作中の姿勢は、“俗”を何が何でも取り入れようとしない三人称文体の一貫性と噛み合ってもいました。
「高校生らしい猥談や恋話を上手く取り繕いながらこなし、カードゲームや雑談に明け暮れる」ような、観念世界から離れた高校生のリアル(いわば世間の“俗”らしさ)が垣間見える一瞬にも面白さがあります。


もう一作が赤松りかこさんの「シャーマンと爆弾男」(11月号)。 シャーマンだと母親から教育(洗脳)されて育った女性が、他者から信仰されることで纏っていたはずの神秘性が剥がれ、翻って抱いていた信仰の崩壊を招きます。 自然の現象を人為的にコントロールしようとすることでマジックを起こそうともがく、ある種のリアリズムです。
 まず自然⇄現実の二項対立が据え置かれており、その背景に族長/教授、アリチャイ/優子などの二面的な名前がそれぞれ与えられています。 ただし被虐待児の洗脳を解く、というような真っ当さを求める方向には進まず(というよりそちらの意趣は押し通されず)、直視せざるを得ない現実を知るなかでどう自分の内側にある「妄想」に縋って生きていくか、を軸に描かれている点が興味深いです。社会性の象徴として登場する「警官」の憎めなさも絶妙でした。


新人賞受賞作以外からの注目は、九段理江さんの「東京都同情塔」(12月)。 「犯罪者」に対する差別的扱いを変えるべく、「ホモ・ミゼラビリス」と呼称するようになった世界で、ミゼラリビスを収容するタワーを建築することになった牧名沙羅が主人公。
 前作「しをかくうま」に続いて要素を詰め込んでいる本作では、生成AIが他人の言葉を継ぎ接いで「言語」を組み立てていく行為、言語によって構成される「人間」の営み、人間が出入りする建物の「建築」がそれぞれ段階的に結びつけられます。
 そして、言語ー人間ー建築の接続によって、カタカナの濫用とポリティカル・コレクトネスの相関性、言葉の分離による会話の不成立、当事者と非当事者のあいだにある断絶、生まれた「家」の違いによる生育差、母語であるはずのものを混乱させていく日本人の気質・文化など、限りなく多くのテーマを横断していくのです。
 また、数多くあるトピックを詰め込ませた結果、「カタカナに嫌悪感を示して当事者的な言及を試みようとする、ヒトを自立走行式の塔と認識してその内部に検閲者を住まわせている建築家」というやや過剰にデフォルメされた性格の人物がうまれているものの、破綻はしていません。むしろその過剰さが、序盤から連打される面白いエピソードの数々につながっていました。  そしてこの過剰な性格は決して荒唐無稽なものではなく、現在を生きる多くの人間が抱えているであろう葛藤・問題意識に深く通じています。 特に牧名沙羅は現代を生きる人間の典型として共感を呼びながらも、理解から遠いカリスマ的な魅力を兼ね備えた、魅力ある人物でした。
 後半の展開は昨今蔓延る「逆差別」という単語自体を風刺したものとしても読め、いずれにせよディストピアSFとして先を読ませる良い出来になっています(言葉の制限によるユートピアの形成はその実ディストピアの反転でもある、のは言うまでもなくその点でありふれたアイディアではあるが、先に示した他トピックとの結びつけが上手く、差別化できている)。前作に続く意欲作であり、大作です。


そして野々井透さんの「柘榴のもとで」(12月)は、 事象を曖昧なまま留めておくことで「個」を保とうとしていた女性が、子どもを産んだことによる家族の距離の接近(→大きなひとつのものになってしまう感覚)と向き合います。
 丁寧語を使った隙間のある距離、その距離がなくなっていくことへの気持ち悪さ、子どもが親を支える状況、世間的に見たら「不幸」と呼ばれそうな関係性に対する抵抗など、デビュー作の「棕櫚を燃やす」とある程度共通はしていました。 ただ、本作では生まれたばかりの子どもを「君」と呼ぶことで語りに対する距離をつくっています。物語に登場する男性陣、修爾、馬込にかかわるエピソードをそれぞれ羅列して「知っている」と無意識に思い込んでいそうな心理を描き、それを覆す展開も自然です。


すばる


 ここ二年、芥川賞候補からは遠ざかっているすばる。
 ただ、今年のすばる文学賞を受賞した大田ステファニー歓人さんの「みどりいせき」(11月)は要注目。 大麻売買をする高校生(あるいは若者たち)の「生」を描いたLOVE & PEACEな青春小説となっている本作は、身内間で通用するような言語を説明なしに連打する文体が、読んでいてとても気持ちいいです。
 主人公の桃瀬が巻き込まれた若者集団は国内で違法とされている「薬物売買」に手を染めており、社会通念を通して見れば間違いなく〈よくない集団〉にはあたります。 ただ、本作ではそのコミュニティに属している者たちを「現実からの逃避行為」「刹那的な享楽」「自堕落的な傷の舐め合い」などと第三者視点でいかにも批評的に括ることはしません。かといって擁護(正当化)も図りません。内輪でしか通用しないような口語体を駆使して、当事者にとっては当然の結びつきと友情を(秩序に縛られていない生き方を)活写します。
 さらに登場人物の名前を「ルル」「モモ」「グミ」などと身内で中性的かつ人間から遠ざかるように希釈することで、性別や家族(規範)に囚われない「新しい共同体」として提示していました。 その風通しの良さは縄文時代や野球や屋上のようなモチーフ、あるいは薬物によって得られる解放感とも噛み合っています。
 作中で提示される「新しい共同体」に潜り込んで、その内側にあるLove & Peaceを体感できたような、作品世界へ思わず引き摺りこまれてしまう小説です。

 また、すばる文学賞受賞第一作となる大谷朝子さんの「僕はうつ病くん」(8月)も秀逸な作品です。管理職への昇進によるプレッシャーでうつ病になったみゆと、専業主夫である裕翔の関係が描かれる本作では、 前作よりもストーリーラインがはっきりして読みやすくなりながら、「裕翔」の存在が奥行きを与えていました。
 うつ病に対する世間の典型的イメージが「一日中気分が沈んでいる」「死んだ方がましだと思う」と序盤で提示され、それを裏切るかたちで「自分では普通だと思い込んでいるのに」病んでいってしまう過程がじっくり描かれています。これ自体は、むしろ作中で描かれている症状こそが世間から見た定型では、とも感じるものの、それよりも面白いのは、裕翔の描き方と、旧来的なジャンダー規範を覆している夫婦設定です。
 学歴もよく良い会社に就職したみゆは持病を抱えた裕翔との結婚に対し「せっかく勉強も仕事も頑張ってきたのに」と周囲に言われ、専業主“夫”の役割を担わざるをえない裕翔は「ゴミ虫ですみません」みたいな態度でいるよう周囲から言われます。 ここには「女性は家事をするべき」という価値観から脱した現代にあるリベラルフェミニズム的な「働いている女性の像」からくるねじれと、それに対して「男性は働くべき」という価値観からは十分に脱していないマスキュリズムの現実が示されていました。

 また、基本的に「夫婦の助け合い」を押し出しているようにみえる本作ではあるものの、病気を抱えた裕翔の生き方に関しては否定的な読み方もかなりできるようになっています。 体調を崩している様子が現在軸で描かれない、うつ病の指摘をぎりぎりまで避ける、スマホでゲームやったりインスタばかりみてる、みゆのクレカで服を買う、などなど。胡散臭いところがけっこうあります。
 だからこそ「うつ病になった妻のエッセイ漫画を描く」というラストは、「夫婦の助け合いが実現する瞬間」と読める反面、「エッセイを利用した身内の搾取による金稼ぎ」として受け止めることができるでしょう。 二ヶ月で仕事を辞めたのも、仕事に対する強迫観念への解放を示しているのではなく、単なる怠惰の表出にすぎないのではないか(あるいは裕翔自身もうつ病なのではないか)、という可能性が物語に奥行きを与えるようになっていました。
 そして、裕翔の胡散臭い人物像が意図的であると暗に示す材料として、裕翔の視点で描かれている作中作でありタイトルにもなっている、「僕はうつ病くん」が機能しています。 勝手に家に上がり込んで「居心地がいい」と言い、やがてみゆに取り込んでいく「うつ病くん」は、みゆをうつ病になるまで搾取する裕翔にも重ねられます(働いていない〈夫〉を自虐的に描いているのも説得力がある)。 「僕はうつ病くん」の〈僕〉は裕翔を指しているのだろうと窺わせます。 (ただ、自虐していたり「幸せにするね」のくだりなどからするに、加害意識があるわけではなくむしろ罪悪感がある可能性は高い。それでも仕事が続かない事実は、裕翔自身が隠れた「うつ病」くんでもあるからか)。

淡々とした筆致ながら、その奥に得体のしれなさを忍ばせている一作です。


ほかにも、足立陽さんの「プロミネンス☆ナウ!」(7月)は、小学生の歩が自称〈ゲージツ家〉の叔父のもとで暮らしながら、同い年のアヤンと秘密基地で交流を深めていきます。
 不法就労している外国人が廃材によってなんとか生き延びているなか、叔父はその廃材を芸術のモチーフとして利用することで状況の表現を試みています。 ただ、切羽詰まった状況で生きている人間からすれば「芸術」による表現活動は特権的であり、不平等の象徴にも映るでしょう。それをずばりと指摘するアヤンの言葉は痛烈です。
 一方、芸術が「爆発」することで人命にかかわってくる展開は、芸術と生命活動が切っても切り離せない関係性であることへの示唆も含まれていて、決して芸術を不要なものとは片付けません。芸術によって得られる心強さも示していました。

 そして温又柔さんの「二匹の虎」(12月)は、 「台湾人だけれど日本で育った」女性が祖母の死をきっかけに台湾に向かうところからはじまります。台湾に住む父やその親族との繋がり、ルーツによる距離の有無を描きながら、 いつぞやの「祝宴」は父親が娘に眼差しを送る物語だったのに対して、本作は娘が父親に眼差しを送る物語となっていました。
 両親にとっては「帰ってくる場所」である台湾、従妹にとっては「憧れの場所」である日本、そうした状況に挟まれながら「私は私のいるところにいる」と自覚していく過程が丁寧に描かれており、読みやすいです。 題にもなっている台湾の童謡「二匹の虎」も上手く用いられており、その童謡からうまれたグーチョキパーのエピソードは物語の山場で、特に胸を打ちます。

 小山内恵美子さんの「奇妙なふるまい」(9月)では、引越し先の家から見える、駅のホームで奇妙なふるまいを続ける女性との交流が描かれています。 隣人が過剰なお節介をかけてくる小説、は多く存在するものの、 その「お節介」の原因を家父長制における抑圧の反動(アイデンティティを侵略されてきた過去からの擬似的な解放として、逆に他者の領域を侵略していく)としているのが興味深いです。認知症は侵略した(された)過去を忘れることができる一方、多くの場合において現実における忘却は叶いません。
 戦争 / 線路内侵入 / 神社の注意書き などの「侵犯的行為」を示すモチーフの挿入もさりげなく、 タイトルの「振る舞い」も、当初は女性の奇妙かつ個人的な言動を指していたものが、終盤で他者への贈呈(「振る舞う」)へと切り替わっており、この反転も侵略される→するのテーマと結びついており上手です。短いながらも読みやすく、小説としてよくまとまっていました。


 そして同じ号に掲載されているのが天埜裕文さんの「糸杉」(9月)。 あまり接点のない相手と急きょ行くことになったローマ旅行の途中、高校時代に通信制高校のクラスメイトと過ごした日々を思い出していきます。
 それによって示されるのは、親密さに依らない時間の共有、積み重ねによる幸福です。 主人公は毎週月曜日に東京都の端から端まで泊まりにいき、何もなく同じことを反復するように過ごしています。 あまりにも変わり映えしない(いつなくなってもいいと思っているような)日々を回想として淡々と描きながらも、その反復行為のあいだに破綻可能性への恐怖が漂っていて、ストーリー自体の単調さに反して読み進めるのが楽しい一作です。


文藝


文藝賞は優秀作を含めると中長編部門から三作、限定開催の短編部門から二作が受賞する大盤振る舞い。

 そのなかでも中長編部門の頂点に輝いたのが小泉綾子さんの「無敵の犬の夜」(冬季)。 九州に住んでいる中学生が「強く」なろうとする単純明快なストーリーでありながら、 指の欠損によって世界における「普通」からはぐれてしまったと同時に、その欠損自体に依拠して明るい未来を見出そうとする(「個性」として世界における希少性を信じる)設定が面白いです。
 田舎の閉塞感を思春期/暴力性などのトピックに結びつけて「巨大な世界」に対する自意識を描くのは特段珍しくもない構造ではあるものの、エピソードを田舎→東京→……に大きく発展させていく過程の心情描写がとても滑らかでした。 教室内の狭い「世界」でのみ得られた承認をそのまま大人/東京相手にでも適用させてしまうような無謀さ、橘が抱える人間的矛盾(矮小さ)への反発と自意識の肥大への接続、田中杏奈との「いかにも中学生カップル」的な会話の応酬が抽象的話題にスライドしていくさま、実態をまだ掴める「東京」から実態を掴めないカルト宗教に引き摺り込まれていく展開など、読みどころが多く存在しています。
 意味を持たない空虚な「死ね」を連呼していた語り手が他者から「死ね」と本物の悪意を浴びせられて崩壊する展開は上手く、迂回手段を知らずに森のなかを彷徨い続ける暴力的なゾンビという絵面も面白いです。
 いかにも危なっかしい自意識の膨らませかたを自然に描いた、受賞に相応しい一作でしょう。

そして優秀作から図野象さんの「おわりのそこみえ」(冬季)は、 買い物依存症で借金を抱えている、「明日なんてない」25歳の女性が地獄の底に向かって突き進んでいきます。「いま」を凌ぐために無意識的に先のない選択をしてしまう衝動性の活写が巧みです。
 軽やかかつ自嘲的な文体が勢いよく連打され、周縁人物も癖の強い人間ばかりで役割もはっきりしています。 〈そこ〉に向けて転げ落ちていく過程も整然としており、新たな情報を開示して意表をつく、読者に向けたエンターテインメント的なひっくり返しも何度か見られるので、全体的に物語的な読み心地を意識している印象を受けました。
 また、「その場にいる行き詰まった人間を放置して、他の人間のところに感情のまま赴く」行為による場面転換が散見される(特に終盤)のも、勢いを感じさせるようになっていて面白いです。 語り手自身も行き詰まった境遇に身を置いている人間ではあるものの、即物的な関係の取捨を軸に生きているため長期的な関係性(いわば「連帯」)に繋がらない、という閉塞した状況もなるほどと思わせられます。終盤〜ラストの家族絡みのシーンは絵面的にとても面白く、本音とファッションのあいだで揺れていた「死にたい」願望すら〈刹那的な感情〉と割り切ることで他人に後々を委ねようとするのも潔いでしょう。終始勢いを感じさせます。


そして、受賞作のなかでも異彩を放っているのが佐佐木陸さんの「解答者は走ってください」(冬季)です。「怜王鳴門」なる登場人物を中心に展開される本作は、「創作された登場人物にとって、創作した側の人間は登場人物に等しい」状況を逆手にとって、現実と虚構の枠組みを「破壊」していくメタ小説となっていました。
 まず作中における「最深層」では怜王鳴門が生まれ、半生が創作されていく世界を「パパ」の視点から荒唐無稽に描いていきます。ツッコミ不在の世界観でリアリズムからの逸脱がぎっちぎちに勢いよく描かれていて息をつく暇もなく、掴みとして意味不明でも楽しい感覚を味わえます。
 続く層ではイマジナリーな存在に創作を与えることで「現実にする」、いわばマイナスにマイナスをかけることでプラスにするような試みが行われており、そのプロセスを経て現実⇆虚構の交換を行う点がとても面白いです。 「最深層」がとある人物の自己救済として存在、あるいは描かれていたことが判明し、だとすれば自己救済の生贄として利用される自己の鏡像はどう救われるべきか(自由意志を獲得できるか)という問題に対するアプローチとしても新鮮なものとなっていました。
 さらに二つの外側にある「佐々木」なる作者と思しき人物が登場する「限りなく現実に漸近した層」も、私たちが存在している現実すら「現実世界」という〈層〉であり、私たちは登場人物にすぎない、と示唆する意味で重要な役割を果たしています。 このパートによって私たちの現実が正しくフィクションと接続され、ここまでに描かれてきた「書かれる」ことに対する問題が創作論的な机上の他人事だけでなく、私たちが「生まれる」、いわば生を営むことへの向き合いとしても広がっているのです。
 そしてそれを象徴するように、怜王鳴門はこの層をも容易く「破壊」して、あらゆるフィクションと混雑させていきます。

 キャラクターを無限的な創作によって恣意的に「産む」「育てる」、いわば物語る行為が暴力的な危うさを秘めている指摘と、その強制に対して虚構側が反乱を起こす、という筋書き自体は王道的でしょう。 ただ、同性愛者への被差別が無意識的な異性愛願望によって表面化している(それによって〈サッちゃん〉の設定にズレがある)設定があったり、「怜王鳴門」が「現実」の破壊を複数層にわたって試みる(ことによって現実と虚構自体を同列に置く)展開に運ぶため、より重層的となっています。 手のひらの上で遊ぶ方向に走ってしまいがちなメタフィクションを「論」だけでなく現実問題に落とし込もうとする鋭意も優れていました。メタ小説として複雑でありながら、よくまとまっています。


 また、文藝賞を受賞している作家さんの新作にも注目。

 日比野コレコさんの「モモ100%」(秋号)は、まだ社会に出ていないモモが恋愛を武器に、学校/家庭を生き延びる“サバイブ小説”。
 ……にカテゴライズはできるものの、 周囲との交流を経て、「生き残り方を知っていて、生き方を知らなかった」という絶望に帰着させる点が目を惹きます。この絶望はサバイブ(=生き延びる , 生き残る)とされる行為がそもそも「生き方を知っている人間」にしか適応されない事実を残酷に示してもいて、 環境によっては生き方自体を知らない、それゆえに生き残り方を知っていても社会からはぐれてしまう人々が存在するはずです。 特に学校/友人/家庭のような小さなコミュニティが社会そのものとなっている学生のうちは、そこで習得した「生き残り方」が社会に出ても通用せず、最終的にその「生き残り方」だけで社会をもがくしかなくなります。
 本作ではそれをはっきりと描いており、モモが友人のサンタとかかわっていくうえで「わかりあえているはずなのに、シスターフッド的な関係を結べない」終盤の訣別が象徴的かつ素晴らしいシーン(サンタは生き方を知らないまま社会に出てしまった)。 文体やモモたちの生き方に醸し出される軽やかさと、表裏一体の絶望感がよく反映されていました。
 また、物語は単なる絶望で終わるのではなく、「生き方を知らない」困難に対する呼応として、生き“残る”(つまり生き続けようとする)執着から解放されることで希望を抱きます。「明日と今日は死んでみて、あさってにはまたスキーに行きたい」のような語りには、〈生き残り方〉に宿されていた軽やかさが〈生き方〉レベルにもコミットされた感覚があり、読んでいて気持ちがいいです。
 総じて、“サバイブ”という概念を上手く掘り下げている小説でした。

 一方、日比野さんと同時デビューした安堂ホセさんの「迷彩色の男」(秋季)では、 同性愛差別や人種差別が重なり、単一的な抑圧の眼差しを送られる「内側」にて、怒りのベクトルを屈折するかたちで起こってしまう暴力が描かれます。
 クルージングスポットを市民権のある〈地上〉と区別しつつも構造の同一性を指摘して、明るい肌の人間が「青色」に照らされて区別がつかない状況を作り上げる。それによってブラックミックスが「ブラックミックス」として単一に扱われてしまう状況を眼差し返す設定が面白いです。 また、このように個ではなく「色」を用いて一絡げに扱う視野狭窄は、あらぬ偏見や差別を助長してしまいます。 その群集心理を逆手にとった「事故」を起こすシーンはアイロニーが効きすぎていて鳥肌もの。
 また、「内側」内で屈折した暴力が発生してしまう原因に「私たちがいつも出しそびれた叫びを、簡単に響かせていた」、偏見や差別に抗う声を上げられず〈地下〉にいるしかなかった、という状況も存在しています。
 そして片方が地下に潜んで性行為をする一方、もう片方が他者の視線を前提とした性行為をしている——偏見をうけている同性愛自体がその内部で〈地上〉〈地下〉に「区別」されてしまうことで、声を上げられない暴力性の発露が「内部」に向くのも興味深いです (上げられない、のが問題ではなく、上げないといけない状況/構造に問題がある)。

 また、山下紘加さんの「煩悩」(秋季)では、語り手が幼なじみの杏奈に抱いている名状しがたい感情や関係性を追懐しながら、執拗かつ理性的な描写によって言語化しようとします。
 語り手が杏奈に希求している感情や関係性は年森瑛作品的に言うと〈かけがえのない他人〉でありながら、実態は〈馬鹿な女〉のような憐れみを「かわいい」でコーディングした支配感情(あるいはそれを裏返した依存心)に近いようには感じます。 ただ理性的で在ろうとする意思が強いため、杏奈に対する本能的な執着は「煩悩」として処理されます。 杏奈に執着じみた描写を施す語り手は「杏奈について考える」ことで関係性を強固にしようとするものの、 語り手視点で「なにも考えていない」ように見える杏奈が唯一仔細に喋ろうとするのは好きになった男性についてである、この一方通行なねじれは印象に残ります。
 同性に対する友愛と性愛、そこに入り混じる同性嫌悪の境界線を探る小説です。


そのほか

 五大文芸誌以外の掲載作についても、少し触れていきます。

 新人賞からは、太宰治賞を受賞した西村亨さんの「自分以外全員他人」(太宰治賞2023ムック)。 要請される社会規範や自己的に定めたルールに従うことで本能的衝動を抑制し、ままならない現実をサバイブする語り手を通じて、自らをメタ的に捉えて生きていくことの限界を描きます。
 語り手は自分以外の要因(社会規範や他人の言動)を取り上げることで不満や苛立ちを抑制しています。そしてこの、他人の有り様を否定/あるいはルールを徹底することで感情を抑制する行いは、自分を相対的に「良い子」として扱うことになるので、自らの言動から無意識に目を逸らした「自己正当化」の手段としても成立してしまうのです。
 だから母親からは「自分のことしか考えていない」と図星をつかれるし、「私の自転車を移動させるな(ルールに従え)」と憤りながら自分はルールに従うために他人の自転車を移動させる、一種の倒錯を発生させてしまう。それをいかにも最後まで自覚させず、さも同調させるように描いているところに本作の面白さがありました。


 そしてことばと新人賞からは二作品。受賞作となった池谷和浩さんの「フルトラッキング・プリンセサイザ」(vol.7)は、IT業界で働きながら〈プリンセサイザ〉と呼ばれるVR空間に飛び込んでいきます。
 ITやVRに関する知識を一見要しながらも、説明を完全に省きながら描いているのが本作の特徴。主人公の働いている会社や人間関係をはじめとした世界観、あるいは架空のゲームである〈プリンセサイザ〉のシステムはほとんど説明されません。しかし、語り手が述べていく独特の視点は面白く、世界観の全容も少しずつわかるように意趣を施されているので、知らないうちに物語を理解できるようになっています。
 また、「説明しない」手法は他者からの視線に惑わされない、個の尊重をもうみだします。たとえば本作において主人公は「うつヰ」という非現実的な名前をしており、一人称の「うつヰ」で進行していきます。そのため一見して男性か女性かわからないようになっていました。また、注意欠陥と思わしき描写も散見されますが、それに対する症状説明や生きづらさの説明はなく、あくまでも日常的な動作・思考として提示されるのです。
 説明を省き、語り手からみえている世界をありのままに描くことで、うつヰになったような気持ちで読める作品です。


 また、佳作からは藤野さんの「おとむらいに誘われて」(vol.7)。こちらの作品では「生きていないものを生きているかのように描写する」行為を徹底することでオリジナルの世界観を立ち上げていました。単なる比喩表現として「擬人法」のような技法こそ多く用いられていますが、本作ではその枠を超えて、非生物自体(池や雨、文字など)を人間と同様に扱っているのです。
「紙ひろい」「言葉ひらき」のような架空の職業も多く登場し、文字を通じて否応なく想像させようとする、未知の魅力にあふれています。

 そしてTRIPPERから長井短さんの「私は元気がありません」(夏季)は、 楽しい人生を送っていると理由をつくって思い込んでいた女性が、元気がないと認めるまでを描きます。
 著者特有の、相変わらず理屈をこねた喧嘩がテンポ良く読ませて飽きません。何度も繰り返される会話の反復を、ト書きを用いて表現しているのも独創的でした。


予想

展望

 下世話ではありますが、芥川賞候補に何が入るのかの予想も立てていこうと思います。
 作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。


 まず、芥川賞を主宰しているのは日本文学振興会(実質的に文藝春秋)なので、例によって文學界に掲載されていた作品の検討から。
 今回は掲載作が少ないのもあってか、絶対的と呼べるほどの作品はありません。それでも、今年破竹の勢いだった朝比奈秋さん「受け手のいない祈り」はおそらく候補に入るでしょう。
「植物少女」も「あなたの燃える左手」も下馬評の高さに反して候補作にすらあがらず、結果的に三島賞や野間新人賞に先をいかれてしまいましたが、今回ようやく取り上げられることになりそうです。

 そして最近は新人賞受賞作から一作以上選ばれるのが定番。
 かなり多くの新人賞受賞作が対象期間内に入っている今回ですが、特に世評の高い大田ステファニー歓人さん「みどりいせき」が有力にうつります。次点でありえそうなのは作風が徹底している伊良刹那さん「海を覗く」でしょうか。
文藝は受賞作一作と優秀作二作ですが、いずれの作品も完成度が高く優劣をつけるのは難しいです。過去には大本命と目されていたすばる文学賞受賞作「ミシンと金魚」ではなく佳作だった「我が友、スミス」が選ばれた回もあり、優秀作が候補に入ってきても驚きません。

 また、前回は「それは誠」と同号掲載だったがゆえに候補入りを逃した感もある、九段理江さん「東京都同情塔」も有力そうです。以前に芥川賞候補になった「Schoolgirl」は受賞作に次ぐ評価を得ており、野間文芸新人賞を受賞した勢いもあります。

 残る二作については悩むところですが、完成度の高い作品が多かった群像から平沢逸さん「その音は泡の音」村雲菜月さん「コレクターズ・ハイ」が入るのではないかと予想します。とはいえ文藝の日比野コレコさん「モモ100%」や安堂ホセさん「迷彩色の男」も捨てがたく、群像と文藝で一作ずつになる展開もあるかもしれません。


 というわけで、今回の予想はこの五作品です!ででん!

第170回芥川賞 候補作予想

朝比奈 秋「受け手のいない祈り」(文學界12月号)
大田 ステファニー 歓人「みどりいせき」(すばる11月号)
九段 理江「東京都同情塔」(新潮12月号)
平沢 逸「その音は泡の音」(群像9月号)
村雲 菜月「コレクターズ・ハイ」(群像12月号)
(五十音順・敬称略)

 もしもう一作品入るとするならば、前述した通りに日比野コレコさん「モモ100%」や安堂ホセさん「迷彩色の男」あたりが有力でしょうか。
 文學界なら二作品入るときは石原燃さんの「いくつかの輪郭とその断片」、新人賞受賞作が二作品の場合は伊良刹那さん「海を覗く」と踏んでいます。


 そして最後に、私の好みだけで選んだ、私的芥川賞候補(下半期のベスト5作品)も記して終わろうかと思います。

私的ベスト五作

大谷 朝子「僕はうつ病くん」(すばる8月号)
九段 理江「東京都同情塔」(新潮12月号)
佐佐木 陸「解答者は走ってください」(文藝冬季号)
日比野 コレコ「モモ100%」(文藝秋季号)
平沢 逸「その音は泡の音」(群像9月号)
(五十音順・敬称略)

村雲菜月「コレクターズ・ハイ」や、小砂川チト「猿の戴冠式」も捨てがたいところです。

 下半期もよい小説がたくさんありました。あとは芥川賞の候補発表を楽しみに待ちましょう。
 それでは、ごきげんよう。

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