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落ちた後の思い出

 中学入試の後は、落ちてから中学入学までかなり時間があったような気がする。

 それまでは勉強だけしていれば良かったが(店の手伝いは別枠)、父の方針で家事を手伝うようになった。

 料理はメインではしなかった(私が本など見て作ると、費用がかかりすぎると叱られた覚えがある)が、食器や鍋の洗い物か、または食器や鍋を拭いて仕舞った。母と洗い物と拭きものを交互に毎日したし、お米を洗ってしかけるのは私の仕事だった。洗濯は、中学のとき自分の水着だけは帰ってすぐ洗うように言われていた。塩素臭くて傷むから。
 
 家事は役に立った。どんなに忙しい時でも食器洗いなら鼻歌交じりにこなせる。疲れているときはダメだが。

 しかし思えば、それまで小6まで家事をしなかったのが不思議なくらいだった。小学2年の時、友人のナツミちゃんだったかの家に遊びに行ったら、彼女のお母さんは仕事に行くので、彼女は「ご飯作っとくのよ」と言われていた。私はうちではまだ包丁を触らせてもらえなかった(4歳ぐらいの時に、洋裁の断ち鋏を高所から取ろうとして椅子でバランスを崩して、耳に鋏を突き刺し流血の惨事に、親がトラウマになっていた)ので、目を丸くして見ていると、友人はナマのイカを取り出し、ゲソを抜き、甲の皮を剥き始めた。ビックリしすぎて、その後を覚えていない……。まあ、家によってそれぞれだということではある。

 それから中学入学前の春休みには、父が私と妹を連れて、バドミントンをした。昔、夏は住之江公園やプールに連れて行ってくれたが、それはもっと小さい時で、さらに言えば、一緒に何かしたのは、中学入学前のバドミントンが最後だった。私は喘息で、風邪ばかり引いており、入試の時も鼻水が止まらなかったから、鍛えたかったのだろう。……ムリだったけれど。

 6年後、大学に落ちて一浪した春は、母は「格好悪くて外を歩かれへん」と言った(中学入試に落ちたときは何も言わなかった)が、父は「病気で休むよりは良い」と言った。腹膜炎で一年棒に振った父は、変なところで寛容だった。高校に入った時点で、諦めていた節はあった。PTA会長が「一浪は人並みと言いまして、住高は四年制だと思ってください」と一席ぶったらしい。実際、入学実績を見てもそういう感じだったし、そもそも、中学とレベルが違いすぎて、高校一年で落ちこぼれかけたので、仕方がない、と父は思ったらしい。

 むしろ高1の時の父の方が迷惑だった。父は朝型だから、朝4時に起こして勉強させられた。しかし、母や母方の祖父に、顔も血圧も似た私は、朝の寝起きも祖父や母同様、最低だった。余計に体調を崩したので、私が高2になると、父は諦めて放任になった。
 母はその頃どうしていたか、覚えていないが、高3の時は、めちゃくちゃ迷惑だった。私が勉強している横で、「このスカートを縫い上げないとみゆきが落ちる‼️」と言いながら、母は足踏みミシンを高速で踏んだ。良いミシンだったが、ガシャガシャ結構な音がするので、ものすごく迷惑だった。私は変人だとよく学校で言われていたが、単に親の因果が子に移っただけなのだ、と理解した。

 中学に入ったら、自分の好きな子(案外これが中学入試失敗の間接原因か?)も、なん人もの友達も同じ学校にいたので、大変幸せに過ごした。
 大学一浪した時は、クラスに女子が少ない(200人中30人)ので、初日から友達が出来、毎週月曜日には模試の後、友達とソフトクリームの食べ歩きをして、難波シティ中のソフトクリームを制覇した。しかもいつも一緒に歩いた友達がとても可愛い感じだったので、私たちはいつも大学生バイトとおぼしき店員さんに、ソフトクリームを山盛りにしてもらっていた(ワタシは太った)。

 何にしても、人生は楽しまなければ、なかなか結果が出ない。しなければいけないことをルーティンで組み込んで、何か楽しいことを見つける、これに越したことはない、と思った。
 人生は麗し、されど儚し。

 こんなことを書いているから、「先生、いつ死ぬの?」なんて質問が突然出るのだろう。……他に何かあったかしら。皆驚愕していたけれど。

 

  

 


 

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