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阪神大震災の思い出①

 今日は『孫子』をお休みして、阪神淡路大震災の時の思い出を書きます。割と記憶鮮明なタイプだと思っていたのですが、さすがに年月を経て、記憶が遠くになってきました。

 1995年(平成7年)、私は高校教諭をしていて、枚方(ひらかた)公園駅前のレディースマンションで一人暮らしをしていました。
 ある朝、窓を開けると、やたらしーんとしているのに気がつきました。向かいは原っぱで、冬だから虫はいないとしても、いつもはピーピーチーチーと鳥が鳴く声で起こされるのに?
 5階に住んでいたので、淀川の流れが見渡せたのですが、そこにも鳥のいる様子はありませんでした。
 その頃、パソコン通信が始まり、持っていたワープロでも通信できて、川向こうに住んでいる人とチャットをしていたのですが、時々通信できなかったり通信が切れたりするのです。
 そう言えば、磁気の定期や切符を通す自動改札(当時はまだピタパやICOCAはありませんでした)も調子が悪い、しょっちゅう故障していると思っていました。自動改札は、まず京阪の枚方公園駅や寝屋川駅、次に大阪市営地下鉄(当時)の淀屋橋駅で、最初は一台、次第に増えて4台あったら3台まで故障で、大丈夫な一台に一列に乗客が並ぶ有様でした。週一回帰るのが親が賃貸の保証人になる条件だったので、だんだん増えていく自動改札の故障に困っていました。ついに南海でも自動改札に故障が出た時には、困るというよりも、一体どうなっているの、と思っていました。
 その晩、何度試しても、パソコン(ワープロだけど)通信が繋がらないので、あきらめて寝ました。
 割とぐっすり眠るたちなのですが、突然「○○○(本名)、起きろ‼️」と耳元で叫ばれたような気がして、パッと目が覚めると、次の瞬間、ドン‼️と突き上げられるような縦揺れが来て、宙に浮いたと思いました。
 飛び起きたとたん、今度は横揺れが来て、ベッドの横に置いてあったパイプとスチールの本棚がこちらに倒れて来たので、思わず押し返したのですが、その本棚も壁も私もユサユサ前後に動き、大量の本が載った本棚がベッドに倒れて来ないように必死に押さえました。
 とりあえず、本震が止まって、何が何か分からなかったのですが、スチールの部屋のドアを開け、隣の人と非常扉の鍵を開けて、非常階段の柵の向こうに、真っ暗な中に街灯のともる街が変わりなくあったのを見て、ホッとしたことを覚えています。
 夜が明ける前に、実家に無事を知らせるため、電話しました。父が出て、「こちらもみんな無事で、揺れたが本棚の前の物が落ちただけで、被害はない」と言われました。
 次第に明るくなってきましたが、テレビもまだ大したことは言っておらず、地震があったこと、大阪が震源でなく神戸方面らしいことはわかりましたが、それ以外は全然でした。
 夜が明けて、もう一度、実家に電話をかけてみましたが、この時にはもう繋がりませんでした。
 七時過ぎに、京阪電車が動いている音がし始めたので、一人でいるよりマシだと思って、斜めに移動していた食器棚と、二、三歩歩いていた冷蔵庫を元の場所に戻すと、高校に出勤することにしました。(次回に続く)

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