見出し画像

【MR】『ジュラシック・ワールド』シリーズの中に見えた『トイ・ストーリー4』と同じテーマ追求の罠

 先日、スティーブン・スピルバーグの傑作『ジュラシック・パーク』シリーズの完結作『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』を鑑賞してきた。

 幼い頃、恐竜にハマり、その時に初めて『ジュラシック・パーク』を見て三部作全てに目を通した。『ジュラシック・ワールド』シリーズが始まった時、ぜひ見たいと思っていたが何だかんだで見れず終いだったのだ。

 今回完結編が公開されるということで前5作が金曜ロードショーで放映されたので一気見した。昔は理解できていなかった細かい設定が理解できるようになっていたり、恐竜の魅力に思いを馳せたり。何よりワールドシリーズになってからの映像美は圧巻だった。

 しかしワールドシリーズの評価、特に2部目にあたる『炎の王国』、完結編『新たなる支配者』は評価があまり高くないという話を小耳に挟んだ。

 個人的にはそんなことないだろうと思いつつ劇場に足を運んだが、やはりそんなことなかった。何なら、鑑賞後に買う予定のなかったパンフレットまで買ってしまった。

 まあ、でも批判する人の気持ちもわからなくない。

 ここからはネタバレなしで簡単な自分の考察を書く。

 『ジュラシック・ワールド』は『ジュラシック・パーク』の、『ジュラシック・ワールド 炎の王国』は『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』のリメイク的作品であった。

 一作目でパーク内で問題が起こる→パークからの脱出。二作目はパークが封鎖されたところから始まり、悪党により恐竜が本土へ。と大まかなシナリオは同じだ。異なる点は、ワールドシリーズでは新たな要素としてバイオテクノロジーによって生まれた新種の恐竜が登場していること。そして二作目において恐竜が本土からパーク内へ戻されなかったことである。

 恐竜が世界に解き放たれたことでワールドシリーズのタイトル回収も行われたわけだが、舞台が世界に変わったにも関わらず完結作品では恐竜の出番が少なかった。この感想はSNS上で多く見られた。


 つまり、観客が求めていたものとは違うラストだったということだ。言い換えると、悪い意味で観客を裏切るラスト。この感覚は身に覚えがあった。はて、何だっただろうかと記憶を探ってみると、すぐに『トイ・ストーリー4』だと思い出した。

 この作品もあまり好評ではない作品であった。個人的には傑作だと思っているのだけれど、既に公開されて月日が経っているのでネタバレをするが、持ち主であるボニーの元にウッディが帰らないという終わり方をしていた。これが議論を巻き起こしていたのだ。

 どんな事件に巻き込まれても必ず持ち主のところへ帰る。それが今までの『トイ・ストーリー』シリーズのセオリーだった。それがなぜ破られたのかにはもちろん理由がある。

 ウッディはボニーに全く遊ばれなくなっていたのだ。おもちゃは子供に遊ばれるものだとこのシリーズはずっと主張してきた。つまり遊ばれないということはおもちゃとしての死を意味するのだ。

 ウッディは物語の中でこれを認められずにいたが、ラストでそれを認め、まだ子供の手に渡っていないおもちゃを子供たちへ届ける命を吹き込む側に回るという選択をする。勘違いされやすいのは、かつての恋人的なポジションのキャラクター・ボーとその仲間たちとこれをするから、持ち主よりも女を選んだと誤解もされているのだ。

 ジュラシックシリーズではそのような誤解はないものの、どちらも「遺伝子操作」「おもちゃは子供に遊ばれるもの」という作品テーマを一貫して描いてはいる。しかしそれによって観客が求めるエンターテインメント性が損なわれる、という事態が発生することが天下のピクサーやハリウッド作品でも起きるのだ。

 創作って難しいなあ。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?