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#6 大地の芸術祭、アートのある日常

「買い出し前にちょっと、芸術祭の作品でも見て回ろうか?」
 
そんな会話が日ごろからできるのも、十日町市に暮らしていればこそだ。松代から十日町市街地のスーパーへ向かう途中、少しだけ遠回りをして、中里エリアの「たくさんの失われた窓のために」→「ポチョムキン」→「中里かかしの庭」を回ることにする。

大地の芸術祭とは、十日町市を含む『越後妻有』の広大な里山を舞台に20年以上続く芸術祭だ。3年ごとにトリエンナーレを開催して、それ以外の年にも通年で企画展やイベントを行なっている。

「なんでこんな雪深い十日町へ越してきたの?」と聞かれれば、僕らは間違いなく「芸術祭があったから」と答える。

「ポチョムキン」(カサグランデ&リンターラ建築事務所 2003年)

横浜市出身の僕が新潟市出身の妻と結婚してまずしたことは、新潟の実家へ帰省するときはなるべく新潟県内の高速道路を走らない、ということだった。高速道路だと風景は遠く感じるし、なにより移動速度が速すぎる。歩いてまわるほどの時間はないけれど、せめて下道を走りながら新しく縁のできた新潟を感じたい、と思ったからだ。
 
「子育ては自然豊かなところでしたいね」という話をするようになってからは、より真剣に下道から新潟を観察した。
 
東日本大震災やコロナ禍を経て、暮らし方の意識が変わりつつあるという。都市部から農村部へ、働き方も暮らし方も変わる移住をする人が増えた。僕らもそんな流行りにのったと言えなくもない。
 
僕らが移住を考え始めたとき、まず候補地を妻の出身県である新潟県に絞った。当初話していたような漠然とした「自然の豊かなところ」であれば、新潟県は自然の宝庫である。海もあれば、山もある。候補地だって無数にある。移住を考える人間の側から見れば、移住先の選択肢は無限にある。

「中里かかしの庭」(クリス・マシューズ 2000年)

「さあ、どうしよう」と思いながら車を走らせた。そんな中、妻が松代にある農舞台を案内してくれた。僕としては単純に海より山の方が好き、ということもあり、好印象だった。
 
さらに、妻は2009年に開催された大地の芸術祭で作品制作の手伝いをしたことがあるという。松代の会沢集落で展示された友人のアンティエ・グメルスさんの作品「内なる旅」だ。しかも三省ハウスに1ヶ月ほど滞在しながらどっぷりと。無数にあったはずの移住先候補地の中で、十日町市がキラリと輝きを放った瞬間だった。

会沢の集落センターに残っていた2009年当時の写真(左)。作品の前で写る妻と五十嵐鉄司さん。右の写真は2019年に五十嵐さんと作品のあった森を再訪した妻と息子。五十嵐さんは僕らが越してきたことを喜んでくれた。

そこからはトントン拍子で話がすすみ、僕らは2016年4月、十日町市松之山へ越してきた。移住後初めての芸術祭となった2018年は家族でチケットを買い、夕方には農作業を切り上げ、作品を見て回った。大地の芸術祭の作品は十日町市と津南町の全域で広範囲にわたって点在しているため、作品を見るだけでも結構な労力が必要だ。ただ実際は、作品から作品への移動中のドライブですら楽しい。信濃川沿いの市街地からまだ訪れたことのない集落へとつづく沢沿いの道に入るだけで冒険心がくすぐられるのだ。
 
実はこのころ、松之山で借りていた家をお返しして、新たな家を借りようとしていた。作品とともに作品のある集落の雰囲気や地形など、僕らの興味は多岐に渡っていた。そんな中で、現在住んでいる松代の蓬平集落と出会った。夜になると各戸の軒先にマーリア・ヴィルッカラの作品である金色に塗られた山笠に灯りが浮かび、「黄金の笠の村」ともいうべき幻想的な集落となる。

「ファウンド・ア・メンタル・コネクション3 全ての場所が世界の真ん中」(マーリア・ヴィルッカラ、2003年)。僕らのとっての世界の真ん中に優しい灯りがともる。2023年8月撮影

しかも、蓬平集落の隣は、妻が作品制作の手伝いで通った会沢集落だった。芸術祭が終わってすぐ、僕らはその「黄金の笠の村」に引っ越した。なんというご縁だろうと思っていたのだが、ご縁はそれだけでは終わらなかった。
 
新しい集落での暮らしにも慣れてきたころ、十日町市では次の芸術祭に向けて動き出していた。「ここで暮らす作家(妻は画家だ)として芸術祭の作品を制作して、さらにその作品をここで展示してもらえるよう、作品の公募に応募しよう」と集落の方に提案されたのだ。
 
十日町市に越すにあたり、僕は密かに「いつの日か妻には大地の芸術祭に作家として参加してほしい」という夢を抱いていた。「夢が叶う!」と妻より僕の方が興奮してしまった。
 

「山の奥 海の底」(蓮池もも、2022年)。僕らの移住してからの生活が10mの絵巻で表現された。僕にはまるで絵日記を見ているかのようだった。


幸いにも公募に通って作品の展示が決まり、10数年前に作品制作の手伝いでお世話になった会沢集落の方々にも再びお世話になることとなった。コロナ禍の影響で1年開催が延期された昨年、「山の奥 海の底」が公開された。これは約10mほどの絵巻の中に、僕らの暮らしが描かれたものだった。
 
今年の夏も僕らは車を走らせて作品を回っている。同じ作品を何度も見るの?と思われるかもしれないが、何度も何度も見るのが楽しいのだ。特に屋外に設置されている作品は、それを見る季節や天気、1日の中の時間によっても様々な表情を見せてくれる。
 
買い出し前に行った「たくさんの失われた窓のために」(内海昭子、2006年)はちょっと時間が早かった。太陽が作品の頭上にありすぎて光がよくない。なによりゆっくり鑑賞するには暑すぎた。加えて風が強すぎてカーテンが窓のフレームに絡まっていた。

「たくさんの失われた窓のために」(内海昭子、2006年)。
買い出しの翌日、夕暮れ時の光を求めて再訪したときの写真。

「また来よう」。そう言って、「ポチョムキン」(フィンランド・カサグランデ&リンターラ建築事務所 2003年)に向かう。川や田に囲まれた場所に、真っ赤に錆びた鋼板で塀のように囲まれた空間が広がる。白い石が敷かれ、遊具やユンボのバケットが置かれている。作家が「文化のゴミ捨て場」と表現する作品は、かつての子どもたちの遊び場で、いつしか不法投棄のゴミで溢れた場所にある。そんな大地が、再びアートの力で人が集う場所に生まれ変わった。

「ポチョムキン」(カサグランデ&リンターラ建築事務所 2003年)。
買い出し前に作品で遊ぶ。

作品や場所の背景に想いを馳せながらアートと向き合う。その横で息子がタイヤのついた遊具で遊び出す。ベンチに座り、作品や大地に包まれながら妻と家族の話をする。日常にアートのある暮らしは、アートとの関わり方もコロコロ変わる。それでも常にそこに存在しつづけてくれるのが、大地の芸術祭の作品群だ。
 

「中里かかしの庭」(クリス・マシューズ 2000年)。
輝く茅が夏の終わりを告げている。草刈りも大変だろうな、とつい地元目線で作品を眺める。

木陰もあってのんびりしすぎたが、「中里かかしの庭」(イギリス・クリス・マシューズ 2000年)に移動する。このかかしは運転していると必ず視界に入るので頻繁に見ていたが、車を停めて鑑賞するのは初めてだった。いつも「どうしてこんな道路脇の草むらにかかしがいるのだろう?」と思っていたのだが、芸術祭の担当者がその理由を教えてくれた。作品の設置当初は美しい石積みの田んぼが広がっていたんだそうだ。それが時を経て休耕地となり茅場になってしまった。作品の裏に高齢化する集落の現実も見え隠れする。常にそこに存在するアートとそれを受け止める土地の関係も変化する。
 
この夏、嬉しい出会いもふたつあった。蓬平、会沢とつづく集落のさらに隣の清水集落にある妻有アーカイブセンター(旧清水小学校)で作品の公開制作をされていた造形作家の川俣正さんにお会いすることができた。同センターの赤い屋根は、僕が週末だけ営業しているコーヒー屋からもよく見えて気になっていたのだ。その外壁には昨年制作された「スノーフェンス」もある。

造形作家・川俣正さん。妻有アーカイブセンター(旧清水小学校)で

「夏といえば妻有」と話すフランス在住の川俣さん。芸術祭が始まる前の1999年に十日町と出会い、土地との関係を深めてきた。芸術祭というと、遠くで制作された作品がただ運ばれてきて展示されるだけ、と思っていた僕は作家と土地との関わりに興味をもった。

作品制作をする川俣さん。エアコンのないアトリエは妻有の夏特有の濃密な空気に包まれ、
夏の午後の光がさしこむ。

「最初は(集落の人も)外から人が来ることを拒んでいたんですよね。変なのが来て村を荒らすんじゃないかって。野菜とか取って帰るんじゃないかと。それが3、4回あたりから随分と変わりましたよね」とふり返る川俣さん。今では「畑から勝手に(野菜を)持っていっていいから」と言われるまでになったそうだ。そして、関係が深まる中で、清水小学校を実際に建てた人や学校に通った人と出会い、交流が生まれた。
 
パリや十日町など、制作する場所が作品にも影響するという川俣さん。作品もその大地に根を張っているのかと思うと、なんだか嬉しくなる。
 
もうひとつは、僕の大好きな作品の1つでもある「脱皮する家」(2006年)を手がけた彫刻家の鞍掛純一さんとこの夏、彼が教える学生らと一緒に作品を回る機会があったことだ。「脱皮する家」のある星峠集落の盆踊りに学生と訪れたのだという。鞍掛さんもしっかりと土地や人と結びついている。
 

教え子に元教え子も加わって、作品を案内する彫刻家・鞍掛純一さん(左)。

築150年を超える古民家の柱や梁、床など見えるところ全てが、鞍掛純一さんと日本大学藝術学部彫刻コース有志の手で彫られた作品だ。完成までの2年半に延べ3000人が彫りつづけた。家の上部から彫り下がっていったのだそうだ。家主を失い抜け殻となり、なくなろうとしていた空き家がアートへと脱皮し、今も在りつづけている。
 
農家民宿として宿泊もできるこの家に、移住前に泊まろうとしたことがあった。しかし、問い合わせたのがあまりに直前だったため叶わなかった。2018年の芸術祭で初めて家の中へと足を踏み入れた。僕は目の前に広がる途方も無い数の彫り跡に圧倒された。次に手の平で作品の感触を確かめ、歩くたびに足の裏でもその凹凸を知覚した。そして、この家で暮らしていた住人も見てきたであろう、変わらぬ景色を眺めた。

「脱皮する家」に初めて行った2018年。息子は1歳だった。
変わらぬ作品と成長をつづける息子。

「変わり続ける都会に住みながら、変わらない場所に感謝したい」と鞍掛さんは作品に言葉を寄せている。ここは変わらない場所なのだろうか?と自問する。僕が蓬平集落に越してきた5年ほど前、僕らは集落の44世帯目の家族だった。それから冬が来るたびに、集落を離れる世帯があり、今では30数世帯になってしまった。
 
ここ十日町市では、集落を離れる際、家を壊して更地にして出ていくことが多い。空き家のままでいると、雪の重みで家は数年で倒壊してしまうからだ。ここでは残しておきたいものの多くが自然の力や人の力で壊されて消えてゆく。変わらないでほしいと思う風景やものが少しずつ姿を変えてゆく。
 
脱皮する家はアートとして生まれ変わることで変わることを免れた。もちろん、これは稀有な例なのかもしれないが、アートが家を守ったことに変わりはない。
 
ここ十日町市・津南町には、そのほかにも僕の大好きな作品がたくさんある。日常にアートのある暮らしは確実に僕らの暮らしを豊かにしてくれる。

彫刻家・鞍掛純一さん。作品だけでなく、作家本人と直接言葉を交わせる幸せをかみしめた。

「でもね、作品はいいか悪いかで好きか嫌いかじゃないんだけどなーって思っています」。鞍掛さんと何度かやり取りをする中で、こんなメッセージをもらった。僕はこれを読んだ時、身の引き締まる思いがした。そこには、作品を創り出す作家の覚悟が在った。

『究極の雪国とおかまち ―真説!豪雪地ものがたりー』 世界有数の豪雪地として知られる十日町市。ここには豪雪に育まれた「着もの・食べもの・建もの・まつり・美」のものがたりが揃っている。人々は雪と闘いながらもその恵みを活かして暮らし、雪の中に楽しみさえも見出してこの地に住み継いできた。ここは真の豪雪地ものがたりを体感できる究極の雪国である。
 


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