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紫式部と清少納言をジェンダーの観点から語ってみた話。

ほぼ同時代を生きた女性作家として、何かと一緒にされたり比較されたりする紫式部と清少納言。

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公ですね。
二人に関する本を、ちょこちょこと読んでいます。

この二冊↑は面白いし、まず内容を把握するのにぴったりだと思います。

私は古文が苦手なので原文が出て来るとひるんでしまいますが、下の二冊は現代語訳がわかりやすくて良かったです。

どれも楽しく読ませて頂いたのですが、『人生はあはれなり…紫式部日記』で気付いたのです。彼女達は共に賢く文才もあったけれど、ジェンダーと言う観点から見れば正反対の生き方をしたのだろうなと。

平安時代のジェンダー規範から見る紫式部と清少納言

前提として、当時は「漢字は男のもの」「漢詩や漢籍の知識がある女は生意気だし女らしくない」と言う価値観がありました。
意外にも「宮仕えをする女ははしたない」とも言われていました。貴族の成人女性は夫や恋人以外の男性に顔を見せないのが当たり前だったのが、宮仕えをすると多くの人の目に触れたからです。

紫式部の場合

このようなジェンダー規範に大きな影響を受け、内面化してしまっていたのが紫式部だと思います。

彼女は子供の頃から頭が良く、兄弟が父親から勉強を教わっていたのを傍で聴いていて理解してしまいました。
しかし父親は褒めるでもなく、「お前の方が男だったら良かった。お前が男でなかったのが私の不運だ」と言い捨てたそうです。

ひっそりと書いていた『源氏物語』が有名になり、ついには一条天皇の后である彰子の女房としてスカウトされた時も、同僚達に敬遠されました。
紫式部は「おバカキャラ」を演じ、漢字のいちすら読めない書けない振りをしてようやく周りに馴染んだのです。

自分はこのような苦労をしているのに、とっくに引退した清少納言は漢籍の知識を活かした言動が宮中で語り草になっている。そんなの間違ってない?
そう考えていたからこそ、紫式部日記に書かれた清少納言の悪口は強烈だったのかも知れません。

清少納言の場合

紫式部と比べたら、清少納言は当時としては珍しく伸び伸びと自らの才能を発揮出来た女性だったと思います。
父親に可愛がられ、学ぶ事も咎められたりしませんでした。その父親もなかなかユニークな人だったようですが。

一条天皇の中宮だった定子の女房になれたのも幸運だったのでしょう。定子は漢籍漢詩の知識を持った才女で、清少納言とその内容を踏まえた会話を楽しんでいたと言います。
交流があった男性達とのやり取りでも、彼女は手紙などに漢詩の知識を取り入れました。それが興味深く面白いものだったため、しばしば話題になったそうです。

清少納言の幸せな日々は長く続いたわけではなく、定子が関白だった父の死で後ろ盾を失った時は女房達まで権力闘争に巻き込まれ、彼女は一旦実家に戻っています。そして定子は若くして亡くなり、のちに清少納言も引退するのでした。

枕草子が書かれ始めたのは、清少納言が里帰りしていた時期だとされています。
彼女が思い付くままに綴ったのは定子と過ごした楽しく充実した日々であり、その生活の中で感じた事でした。定子と言う素晴らしい后がいた、その傍らに自分がいた、宮仕えも素晴らしい仕事だった。そう言いたかったのかも知れません。

それぞれの生き方が生んだ文学作品

女性が学ぶ事すら嫌がられた時代、恵まれていたように見えて苦労も多かった紫式部と清少納言。
そんな二人が、長く語り継がれる物語と随筆を生み出しました。

鬱屈した感情や情念を解放し、恋多き男と個性豊かな女達を描いた紫式部。
思い出の中の輝く一瞬を捉えて、それを紙にとどめた清少納言。

彼女達が書いた作品は普遍的とも言える価値がありますが、そこに見え隠れするのは平安時代当時の価値観であり、彼女達自身の価値観でもあるのではないでしょうか。



※ヘッダー画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借り致しました。ありがとうございました。

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