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自立について

 自立についていろいろな考え方がある。一般的には身辺動作の自立と経済的自立がなって初めて自立しているとみなされることが多いと感じる。実際、障害者支援や高齢者福祉などでもこれらの自立が強調される場面は多い。一方、アメリカから広まった障害者の自立生活運動は、そのような狭い自立観が障害者を苦しめていることを指摘し、例え身辺動作などで全面的に支援を受けていても自分の生活において自己決定権を有して、それを行使しているならそれが自立だという新しい自立観を提唱した。それは社会の恩恵を受ける対象とみなされるのではなく、コンシューマーとして、専門職と契約し、その支援を受けつつ自己実現を目指す新しいあり方の提唱でもある。措置から契約へというこの数十年の介護や障害者福祉の流れはそれに沿ったものとも言える。元々健常者と呼ばれる多数派は多数派であるゆえにこの社会を自分たちに都合良いように好き勝手に設計してきた。自分たちに都合の良い環境と制度に囲まれて、自分たちがどれほど生活においてそれらの恩恵を受けているのかに無自覚になっているだけである。自分たちは環境から十分の支援を受けながら、障害者に対しては、支援を受けているのだから自立ではないと言っていたようなものである。ようは誰もが支援を受けつつ自己実現を目指している。障害を持っていても持っていなくてもそれは変わらないというだけのことである。そもそも障害を持っているという言葉がおかしいのかもしれない。よく言われることだが、車椅子の人が階段を登れない。この場合、障害の原因はその人が歩けないことなのか、それとも階段の横にスロープがないことなのか、どっちが障害なのかという問題である。

朝日新聞に気になる記事があった。高齢者の「自立」をめぐって何人かの人物に意見を聞いているという記事である。財政学の有名な教授はある日病院でこういう言葉を高齢者から聞いた。「歳をとるのも大変です。したくなくても運動をしなければならない」この教授は、現在強調される介護保険における自立支援とは誰のためのものなのかと問う。本人のウェルビーイングのためなのならいいが、そうではないのではないか、財政難の改善のためではないかということである。そうであるなら自立を強いられる高齢者にとって不幸なことである。
別の識者はこう言う。重要なのは身辺動作の自立と精神的に安定していること、そして経済的な安定です。彼は某市の職員で、ケアプランチェックを通じて、自立を促すプランを指導している、その成果が財政面で大いにあるということをいう。動作が自立すると言うことがその人の尊厳の保持にもつながるという。私はこれは順番が逆だと思った。たとえ介助を受けていても尊厳が保持されていれば、生き生きと生きられる。自分の自己決定が尊重されている、自分の価値観が蔑ろにされていない、自分の言葉にきちんと向き合ってくれると感じて初めて生活に対する意欲というものも出てくる。強いられる自立はその人の意欲を低下させ、尊厳も損なってしまう。
財政難→自立支援→尊厳保持、このサイクルはうまく回らない。お金がないから自立支援をしようと言われても、支援者は「お金のためか」と思い、自分たちの仕事の意義を疑うだろう、そして無理強いされる自立支援に利用者は辟易する。
尊厳保持→自立支援→財政というサイクルはうまく回る。自分たちは大切に思われている、自分の価値や意見が尊重されている、安心だ、信頼できると感じた利用者は生活場面でもいろいろなことに意欲を示しチャレンジする、それを尊重しつつ支援者が自立支援をする、そうするとその利用者のための仕事であるという実感を支援者も持つことができ、支援者の意欲も高まる。結果、身辺自立などの狭い意味での自立が進み、財政難が改善する。みんなが頑張ったおかげで財政難が改善しましたよとわかれば、利用者も支援者も嬉しくなってもっとやろうとなる。
順番は大事。財政難から始めるアプローチは最悪、私はそう思う。

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