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死について語る②

目指せスーパースター。蕎麦宗です。

身近な多くの人を若くして亡くした、という話を昨日書いた。

人間、誰であってもいずれ死ぬ。そしていつどこでそれを迎えるのかは分からない。なので、精一杯《今》を楽しんで《生きよう》と覚悟を決めたのが僕の生き方。

だけど、みなが皆その答えに辿り着く訳ではなく、身近な人を亡くしたからこそ《死にたくない》と考える人もあるだろう。それも勿論アリなの責めるつもりはなく、ただ、世の中的に圧倒的多数なその考えを強要されたくないだけ。だから同様に『みんなも《生きよう》』と言うつもりもない。そんな押し付けは迷惑だ。誤解なきように。

さて、母方の祖父は20歳の末息子を交通事故で亡くした一年後に59歳で他界、、父方に至っては我が子(父)を身籠っていた妻(祖母)を残して戦死した。だから、僕には爺さんはおらず、すっかり婆さんっ子。で、母方の祖母との想い出については【正解だらけのクルマ選びその10】に書いた。父方には幼き頃から散々連れて歩いてもらっているので、良くも悪くもまぁ沢山ある。その一つの《死に際》の話。

終戦後に*テテナシゴを抱えて出戻った田舎で苦労を重ねて、*お針子さんと農業で貧しい暮らしをしていたせいか、とっても屈折して放蕩な婆さんだった。

71歳で亡くなった当時(1988年)、ガンは不治の病。見つかった時には助からないのが普通な時代。また、告知しないのも常識で、医師からごく近親者だけに伝えられ、本人や僕ら孫達には知らされなかった。最終的に胃ガンからあちこちに転移して国立東静病院(現静岡医療センター)に入院して最後を迎えた祖母。そこへ高校2年生だった僕がお見舞いに行った際のこと。

『〇〇買ってきて』

と、婆さんから小遣い渡されて、自分の食べたいものの買い物を頼まれた。息子夫婦(両親)には却下されるから孫に頼むのだが、医者から禁じられているモノばかりで、病からの復帰を信じていた僕は、真面目にも毎度断った。少しでも早く良くなって欲しかったからだ。すると、代わりに弟に頼み、性格の違いからか何も気にせずに応える弟を褒め、

『あんなに面倒見てあげたのに…』

と、散々嫌味を言われた。

僕は婆さんっ子だから、少しでも長生きして欲しかったし、快方して家に戻ることを期待した。しかし、それは叶わず痩せこけて死んでいった。亡くなった後でガンと聞かされた。知っていたならば、17歳とはいえ自分の解答こたえは変わる。結果、弟が正答だったと思った。僕には後悔だけが残った。

『最後の最後に好きなものすら食べさせてあげられなかったのか…』

と。

きっと婆さんは自分が死ぬことを分かっていたんだと思う。ゾウやネコだって死を悟れば居なくなるというじゃないか。ヒトもきっと同じ。確かに親方は死ぬ直前まで、色んな人の所へ挨拶回りに出掛けていた。葬式でそれが話題になった。変な時間にいつもと違う様子でひょっこり現れたらしい。妻も自分の死を分かっていた。亡くなる少し前の元気だった頃から、『変なこと言うなぁ』と思われた節が何度もある。

本人が死を悟った時点で、いや、それは3日後か30年後かの違いでしかなく、いずれ死を迎えることが分かっている以上、どう残りの人生を過ごすのか、は本人が決めればいいことだ。『長生きして欲しい』という周囲の声に、応えるのも応えないのもその人の自由。好きな酒やタバコ浴びようと、冒険や紛争地等どこへ出向こうと、それで死んだとしても本望。逆にみんなの期待に応えて、ありとあらゆる先進医療を受けて僅かな期間を延長して生きながらえる事を選ぶ人がいてもいい。

ほっするままに好きな事して、悔いなく楽しんで最後を迎えよう』

婆さんが死んだあの時から、今もずっとその想いは変わっていない。最終的な意思決定は自分にあり、また、その責任は自分が持つ=それが覚悟だ。つまり、《死にたくない》ではなく《生きる》。

さて?。僕に、あなたに、あとどのくらいの時間が残されているのだろうか。

はて、ガンバラナシませう。

*テテナシゴ…父親のいない子供。聞きかじりでしかないけれど、昭和初期のそういった差別は酷かったと思う。

*お針子さん…着物などの縫い物をして生計を立てること

#生きる #死にたくなった時に #死を考える

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