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【検察求刑7年】池袋暴走事故事件、飯塚被告人は死刑にはできない?(今後の判決予想)

今年9月に判決の出る池袋自動車暴走事故事件、飯塚被告人の処分について、さまざまな意見が飛び交っていますね。先日出た検察の求刑についても「甘すぎる!」「二人轢き殺して反省もないんだから、命で償うしかない」と死刑を主張する声まで聞こえてきます。

今日はそんな池袋暴走事故事件について、予想される判決の方向性も含めて、解説してみたいと思います。

1:この事件が注目を浴びる理由

この事件はいわゆる「自動車のペダルの踏み間違い」で起こった不幸な自動車死傷事故なのですが、どうしてここまで注目を浴びているかというと、事故後、やや特殊な経緯をたどっているからなんですよね。

被告が「自らの運転ミスを否定」し、「自動車の機械的な暴走」だと主張したことで、自動車の記録装置の解析や、被告の主張する様な暴走が起こりうるのかの技術的な検証が必要になって、一昨年の事故から今年の裁判まで、ずいぶんと長い時間がかかってきているのです。

そしてその間、被害者遺族(松永さん)が宙ぶらりんの状態になっている姿が報道上どうにも痛ましく、また事故後、逮捕されなかったのは元通産省キャリアの「上級国民」だからという憶測まで出て、ときには「家族まで死刑にしろ」なんていう、すごいバッシングになっているんですよね。

2:逮捕がなかったことは「おかしい」の?

まず、逮捕がなかったことについて触れておくと、刑事事件が起こった時に、裁判までの間に逮捕・勾留が行われるのは、放っておくと「証拠隠滅をされてしまう」「容疑者が逃亡してしまう」可能性が高い場合で、そうでないケースでは、身柄は拘束されないのが通常なんですね。

なので、証拠隠滅の余地のほとんどない交通事故事件では在宅処分が多いのです。むしろ捕まえてしまうと、法律上、20日以内に起訴/不起訴の判断をしなければならず、起訴する前に証拠集めを充実させたい警察/検察にとってはジレンマになってしまうということもあります。

被告人の飯塚さんは90歳を越えたおじいちゃんですし、国外逃亡とかは考えにくいですからね。なので逮捕されないことのといわゆる「上級国民」である事の間には、何ら関係がないと思っていただいていいと思います。

3:「無過失を主張したこと自体」が悪い?

そして「ペダルの踏み間違いがなく、車の暴走だった」主張についてですが、確かに、事故車であるプリウスの製造元であるトヨタが主張している通り「今の自動車の技術水準では考えにくいこと」である様にも思えるのですが、刑事処分を確定させるために「それがどうだったのか」をじっくり検討するために刑事裁判があるわけですから、「主張したこと自体」が問題になっている今の状況は、裁判のルール的にはやや異常事態です。

刑事裁判のタイミングでは「どんな主張だって出てくる可能性」があるし、「それが許されている」処分未確定の段階/フェーズなんですよね。被告人が自分の行為や過失を認めている事件などでは、そのことが判決上有利に働くこともあって、先行して「反省の言葉」が出てくることがあり、そのせいで裁判は「有罪の人が反省を示す場」のイメージがあるかもしれませんが、原則から言えば、裁判は「そういうタイミング」ではないわけです。

4:でも、被害者遺族にとっては・・・・

難しいのは、それでもこのタイミングで裁判に参加している被害者遺族が求めるのは「被告人に刑事責任があることを前提」にした、主として「心情的な部分での償い」だということなんですよね。

これは被告人が「法的な刑事責任をすでに認めている」のであれば、さらに遺族が道徳的な反省、道義的な謝罪を重ねて求めることも自然な流れなのですが、刑事裁判の基本ルート通りに、被告人が「刑事責任を争う」場合は、被告人側からは遺族に対して「法的責任はないと考えているが、道義的に責任は感じている」という、何とも歯切れの悪い回答くらいしか、特にこのタイミングでは、矛盾がない形ではできないんですよね。

これは、被害者遺族が裁判に参加できる様になった平成16年以来、問題とされていることでもあるのですが、被害者や遺族の意向と裁判のフェーズが合うのは、被告人が「事件に関する事実を争う気がなくて、先行して反省を示している場合」だけなんです。

そうでない場合は、被告人は当然、自分の立場を守る主張をすることになるわけで、そうなると被害者や遺族の期待は裏切られて、裁判の中でかえって傷つく恐れも出てきてしまうことになる。この点は、現在の裁判の「設計上のズレ」なんですよね。

なので、今の裁判制度を前提にすると、今のタイミングで飯塚被告人の態度が非難されていることの実質的な意味は「こんな犠牲者の出ている事故で、そもそも争うな、最初っから全面的に認めろ」っていう意味を持ってくるコトになってきてしまうのです。

ただそれだと、主張や立証を尽くし、刑事処分を慎重に決めようとする「刑事裁判の基本設計」さえ否定してしまうことになってしまうんですよね。

5:検察の求刑について

さて、そんな微妙な状況の中で行われた検察の求刑は「禁錮7年」でした。

速報動画でもお話ししましたが、他の事件とのバランスである求刑相場をほぼ無視し「法律上の最大限」を請求してきたということで、検察は、厳罰を求める遺族の心情にできる限り寄り添ったものと言えるでしょう。世論は「軽すぎだろ?」という意見も多いみたいですが、流石に検察が法律まで無視した求刑はできませんしね。

なので、その意見の実質的な意味は「法律上の制限自体がおかしい」ということになるかと。

死傷結果を伴う自動車事故に対する「上限7年」、命を奪う事故への懲罰としては軽いでしょうかね。被害者ご遺族となれば、そう思うのは理解できますが、ご自身や身内、友人が事故を起こした場合でも、そう思うでしょうか。ワザとやったわけではない運転ミスなんですよね。

現行法の基礎となる考え方は、

・ わざと人を殺した様な事件は、最大限に非難されるべき。死刑もやむを得ない。そういう人間の悪い意思には、最大のブレーキを掛けなくては社会が守れない。

一方、

・ ミスによって人を殺してしまった事件は、わざとやったものと同じ様には非難できない。とにかく厳しい懲罰を課せば、社会を守れるというものでもない。

というもので「故意」と「過失」の扱いが全然違うのです。

刑罰の意味も、人を意図的に殺したことへの懲罰と、運転ミスをしたことへの反省では、全く内容的にも違うものですからね。

むしろ「ワンミスで人生が終わってしまう様な刑事処分」がある社会というのは、司法権力が時に悪用されることを思うと、逆に恐ろしい感じがしないでしょうか。

6:裁判所の判決についての予想

そして、9月には裁判所の判決が出るわけですが、私は、世論の期待ほどそこまで重くない判決になるのではないかと思っています。というのも、検察が汲み取って求刑を重くした、世論が求めている飯塚さんへの厳罰というのは、主に「事故を起こした後の彼の態度」に起因しているからです。

裁判というのは「事故時の過失の大きさ」や「結果の重大さ」を問題にするもので「その後の裁判での態度」や「被告人の生き方」を裁くものではないんですよね。二人の命を奪い、多くの人を怪我させたという死傷結果はとてつもなく重いし、アクセル・ブレーキの踏み間違いという自動車運転上の初歩的なミスも重大です。

けれど、基本的に法律が裁けるのはそこまでで。「真摯に反省し、謝罪を示している」ことを量刑上「プラスに考慮する」ことはあっても、「事実を争っている」ことを、量刑上「マイナスに評価」することはあり得ません。

つまり、世論は「事故後の飯塚さんの行動とそこから想像される人となり」を見ているのですが、裁判所は「事故そのもの」を見ているので、そこに大きなズレがあり、それが判決にも現れてくるようにと思うんですよね。


7:事件報道が終わった後に

最後に、少し個人的な感想も。制度論、建前論だけでは、終わらせたくない事件ですしね。

私は、こういう事件があるたびに「司法制度が担える役割は限られている」と思うのです。刑事裁判の中で少しでも「被害への償いがされて、遺族の心が癒えたらいい」とは思うのですが、現実にそれができるケースや程度は限られているし、そういう制度設計にもなっていない。

先程「争う事件」ではタイミングがずれてうまくいかないと説明しましたが、もっといえば、事実や過失を認めている事件の場合に「たまたま運良く両立する場合がある」にすぎなくて、「その場合は被害者にもっと裁判に参加してもらったらいいだろうね」というのが、刑事裁判の被害者参加制度の元々の構想だし、できることの限界なんだろうなと思っています。

逆にいうと「司法の外側で何ができるか」を考えることが大事だと思うんですよね。

社会の中で起こってしまった不幸な事故の加害者と被害者。加害者の法的な刑事責任については、その取り扱いを司法機関が引き受けて、裁判で処分を決めることになります。ただ司法ができるのはこれだけで、経済的な損失は多少保険等でカバーされるかもしれませんが、被害者や遺族の大きな心理的な喪失などは、埋め合わされることがありません。

これは、裁判で加害者が罪を認めて、長く服役してくれたから、もっといえば死刑になってくれたから、どうにかなるものではないと思うんですよね。被害者や遺族は事故による喪失を抱えて、裁判の後も生きていくことになります。9月の判決が過ぎた後、池袋暴走事故事件のことを、その後も覚えていて、被害者に思いを寄せ続ける人ってどのくらいいるんでしょう・・・。

報道は裁判が終わると行われなくなりますが、不幸な事件や事故の被害者、その余波に影響されながら生きている人たちは、報道が無くなってもいなくなるわけじゃありません。むしろその後にこそ、喪失の苦しみはやってくるともいえると思います。

目の前のニュースや裁判を見て、盛り上がるのも時には有意義ですし、その時の多くの人の共感は、被害者にとってその時は助けになるだろうと思うんですが、事件が終わった後も、そういうことが続けられるのか、ニュースにもならない声をあげない静かな弱者の存在も忘れずに想いを寄せたり、できる限りで手を貸したりすることが続けられていくことが、苦しみを抱えて生きる人を支えられる社会であるためには大事なことだなと思うのです。

もちろん、みなさん、ご自身の生活もあるし、いろいろと大変な時代ですから、他人のためにできることは、それぞれにとって可能な範囲でということなんですけどね。

ということで、今回は池袋自動車暴走事故のまとめでした。判決内容も気になりますが、引き続き、遺族の方たちへの関心を、社会全体で持ち続けていけるといいだろうなと思っています。

動画バージョンはこちらになります。


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