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公徳心(15)純粋理性批判~道徳

NHKオンデマンドで”100分de名著”をよく観ます。今回は#392-395のカントの “純粋理性批判”がとても面白かった。特に最終話がとても興味深かったです。(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07ZQDD3XP/)

前号で、その番組の中で解説された「自由」について触れました。今回は「道徳」について触れたいと思います。

この記事の公徳心シリーズ、今更いうのもなんですが、道徳って堅苦しいですよね。「社会の一員として従わなければなりません!」と行動規制するような、得も知れない”圧”を学校の道徳や倫理の授業に感じていました。まぁ何と言っても”授業”な訳ですから、先生の言うことが正しくて、それに従って身につけなければならない、と考えますから仕方ありません。

しかしカントに言わせると、先生のような権威が道徳的な行動を説いても、それに無批判に従うことは”道徳的ではない”ようです。「自分を成長することとは何か?」「他人に貢献することとは何か?」を自分の頭で考えて行動する、という自分の理性に基づく行動こそが道徳的と言います。

次の例です。ほぼ満席状態の電車で腰掛けていると、目の前に荷物をいくつも背負った高齢の方が目の前に来て、手すりにつかまりました。このとき「かわいそうだな。席を譲ろう」というのは、カントに言わせると(←クドい笑)道徳的ではありません。”かわいそう”という自分の感情を鎮めたい欲に基づいているから、自分の頭で考えたとはいえないようです。

「かわいそうだから席を譲る」は欲に縛られていて、「先生に教わったから席を譲る」では権威に縛られています。ではどのようにすれば善いのでしょうか?なにが道徳なのか?カントは純粋理性批判の続編にあたる実践理性批判のなかで、道徳法則として以下のように説いています。

汝の意志の採用するルール(格率)が、つねに同時に普遍的立法の原理としても妥当しうるように行動せよ

格率とは、上記の例でいうと「かわいそうだから」とか「先生に教わったから」という自らの行動の根拠となるルールを言います。人それぞれ違うルールなので道徳的であるとは限りません。

どの格率を採用するかを自らの意思が決めますが、自ら採用した格率が、他のいかなるケースや他人においても採用されうる普遍的立法であるか否かが問われます。それに妥当な行動であれば道徳的と言えるようです。

具体的には番組では福祉を例に説明されました。この詳細は次号で。


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