見出し画像

自己の「体癖」の自覚のむつかしさ

自分の体癖が何種であるかについては、その自覚はむつかしい。
本人は、1種と思っていたのに、5種だと言われ、捻じりもはいっていると言われ、ついに9種だと思うと言われると、そんな気もしてくる。

もう一度読み返してみようと、丹念にメモをとりながら読み返すと、いちいちもっともだと思え、いずれにも該当すると思え、そしてわからなくなった。
ことは左様に自分のことはわからないものなのだろう。
他者に指摘されて、はじめてそうだったかという気づきもある。

いったい何を言っているのかというと、野口晴哉に『体癖』(ちくま文庫)という本があって、そこで人は体の使い方に癖があるというもので、それを12種類に分類したものだ。
一読しても野口晴哉の「体癖」分類は、むつかしくて、わかったようでわからなくて、言語で理解しようとするとよけいにわからなくなる。野口整体は氣を送る愉氣と体癖論で成り立っているように見える。

体癖の分類は、基本的な構造は、上下型、左右型、前後型、捻じれ型、開閉型、それぞれに二種類があり、それに、それぞれの過剰反応型と反応遅鈍型を加えて、十二種としたのであった。

表にすると次のようになる。

上下型 一種 二種
左右型 三種 四種
前後型 五種 六種
捻れ型 七種 八種
開閉型 九種 十種
過敏反応十一種 反応遅鈍十二種

体重の重心のかけ方かと思うとそれだけではなく、もっと複雑だ。
それぞれの体癖に各論があるが、これは整体協会道場での講義を録起こしたものであるようで、記述が統一しておらず、五種の話をしていたら六種の話になり、また、六種に入るとあちこちに話が飛んだりで、ノートを取りながら読み進んでいてもわけがわからなくなる。
野口本人はわかっているのだろうけれど、第三者が読むとよくわからない。
分かったような、わからないようになるのだ。
おそらく、野口の周辺のお弟子さんなどがわかればいいという話し方なのだろうと思える。
また、他の心理学的な体系とのつながりの記述がないので、ほとんど孤立無援であるようだ。

つまり、体癖論でありながら、それぞれを要約することが出来ない。
そこで、冒頭の記述となったというわけだ。

じゃぁどうすればいいんだろう。
それぞれのイメージを自分なりに確立することが必要なのかもしれない。
もう一度、具体例に接して、それぞれのイメージを固めなくては使えないかもしれない。

自分への反省的分析に戻してみると、はっきりしているのは、私の体癖は奇数だということだろうか。

ところで、この概念化できない分類は、おそらく野口晴哉の中では明瞭に存在するのだろうが、それを他者が利用することはむつかしいということではないか。
なにがむつかしい?

まずは、1種から9種までの概念を名称化できない。それを言葉で説明できないのだ。いや伝えきれない。そこがだれもが使える分類にならない原因なのだ。事実、野口の死後この分類が発展し展開したという話をしらない。

技術は二宮式整体などに引き継がれている。
しかし、体癖論自体は誰に引き継がれているのだろうか。
寡聞にしてよく知らない。

もう一つの原因は、先にも触れたように体系化されていないというよりは、既存の体系に寄り添って述べたものがないという事だろうか。例えば、クレッチマーの体型論に言及があれば、その距離感から推測できるのだが、それもないので分かりにくい。野口晴哉以前に野口晴哉なしという、孤高ともいえるものだろう。これが既存の心理学でなくとも武術でも体操でも寄り添えば、そこからの類推として理解することも可能なのであろうが、それができない。

概念としてとらえることができない。なぜなら実体としてのものがないからだろう。実体がなければ学問にならないように分析はできない。その実体というのは、概念化してその言葉を実体ととらえて論述していく方法であったから、まずは概念化しないとあつかえないということ。それゆえ共有できない。

ここに、『体癖』から、7年後後に書かれたと思われる『整体入門』(ちくま文庫)がある。こちらにも体癖論が四章、五章にあり、こちらの方が幾分か概念的に書かれているのでそれを参照してみよう。
その「体癖」と呼んでいるのは、その人の持っている身体上のクセだという。人間を分類しようとしたわけではなく、またいい悪いという善悪とは関係がない。
歩き方のくせから、箸の持ち方、はたまた風邪をひくと下痢をする人、しない人、高熱の出る人でない人まで、反応は様々で、それらを含めての現実態として現れる〈身体〉のことだったのだ。おそらく、一人として同じものはないだろう。

それを、あえておおざっぱなグループに分けて分類したものではないかとおもう。
ここも、各ページを読んでいくと、なんとなくイメージが湧くが、それでもって各人にわりあてるといずれか一つの種にあてはめるのはむずかしいようだ。むしろ混合のように見える。奇数番号と偶数番号の違いは、奇数が緊張すると濃く出るものをさし、偶数番号は弛緩するとその特徴が濃く出る者との違いだとある。そこで、1種2種、3種4種、…とセットになっているのだろう。ということは、緊張するときの種と弛緩した時の種は違うかもしれない可能性がある。

私自身は緊張型のような気がするので、奇数に違いないが、必ずしもそうとは言えないかもしれない。しかし、体癖が丸出しになるのは咄嗟のときで、びっくりしたり怒ったり、言い訳したり、失敗したときなのですとあるので、やはり緊張のときであるようには思われる。

こんな風に言語表現では理解ではあいまいになるというので、体量配分計を考案したとある。立ち姿に人間の特徴が一番現れるというので、親指と小指そして踵の三点の体重のかけ方を測ってみようというものだった。現在そんな機械があるのかどうか知らないが、当時考案された写真が掲載されている。
これなら確かに科学的でデータとして集めることが出来るだろう。

―現在では、この体量配分計はつかわれているのですか?
「見たことないですね」
―じゃあ、私が五種だというのは、どうして確定できるんです。
「だって逆三角形の体型をしているじゃないですか」
―でも、考える前に行動とはなりませんよ。私は。
「そうですか。でも、咄嗟の時はそうなんじゃないですか。長い時間がかかる時は考えているでしょうがね。そう見えるんですけれどもね」
―うむぅ。ラジオを聴きながらテレビを見ながらのながら族ではないですよ。むしろ、静かでないと作業ができない。自動車の運転もオーディオもFMも付けていませんからね。
「そうだとすると六種ですね」

整体の会というグループでの会話だったけれど、この会では二宮整体を中心にしていて、最近活元運動なども取り入れているので、野口整体とのミックスなってきているが、どちらも面白くて、いずれかに傾く必要はないんじゃないかとおもっている。
そこでの、先生との会話だった。

最近この「体癖論」に関心があつまり、議論するのだけれど、すればするほどあいまいになっていくような気がする。

―ねじれが混じっているというのはどうですか?
「鳩尾が硬いじゃないですか。それに衝動的になってやりすぎてしまう。」
―ええ、たしかにそういうところがありますね。
「でも、そんなときは重心側の足首を寝る前に振ればいいと言われています。そうするとねじれ型の良い部分が保つことができるとあります。でもどちらかというと九種が混じっているんでしょうね。」

とここで、九種に移っていくが、その前に、困難に出会ったら、逃げ出してしていくか、巧妙に回避するという上下型、あるいは前後型に比べると、捻じれ型は猛然と立ち向かっていくというのは当たってなくて、やはり前後型で巧妙に回避していくタイプだと思う。

―それじゃ、九種かもというのは、どういうことですか?
「いつまでも、若いというか、いえ、心がですよ。強情なところもある」
―確かに強情なところはありますね。でもいつまでも枯れなくて、好々爺にもなれません。そこはそうだと思いますが、基本的には九種じゃないと思うんですが。
「本人はわからないものなんですよ」

というわけで、茶話会での会話は終了したが、やっぱりよくわからない。

野口晴哉の本は、これ以外にも膨大なものがあって、かつ講演や講義の録音テープが残されていて、手つかずのものもあるらしい。しかし、それらをすべて読んだ人はいなくて、又読んだとしても、体癖を理解できるのだろか、疑わしいと思える。

本の解説を書いている加藤尚宏は、ただ細いから神経質で四角だから粘液質などという区分だけでは実際の個人に当てはめることは困難だとする野口の記述を引用する形で、生きた人間を相手にしていると強調している。まさに、これがクレッチマーの体格論だったのだけれど、そこから考えるなら、解剖学のように死んだ人の観察ではなく生きた人間の観察だったということがわかる。
そして、人間を類型化しようとするものではなく、「生きて生活している人間の体癖」(整体入門七三頁)と引用している。
じゃあ、なぜそのような分類をするのかというと、「いつどこでどんな働きをしても疲れない元気な活動人をつくることこそ吾らの目標だからである」(全集第五巻上三九五頁)と引用している。

そうだとすると、自らの体癖を自覚して、修正する『整体入門』の五章「整体体操と体癖修正」はがぜん重要になってくるであろう。

五種はどうなんだと、慌てて読んでみると131頁にある。
おお、これってよくやってるやつだぜと思う。
修正されるかなぁ?

結論
自分の体癖への自覚は困難だけれど、他者の眼を通しての意見も参照しながら、修正体操をして、変わったかなと思えば、それが正解ということだろう。言葉からより体の方から逆に探してみるのも手ではないだろうか。
ここまで来てやはり感じざるを得ないのは、心というのは身体の別名であり、心と身体そして癖は生きた人間のまさに〈身体〉だということだ。今ここにある〈身体〉だという認識は間違いではなかったと改めて確認した。(〈身体〉論は別途記載する)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?