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【科学者#063】貧困と病気に苦しんだ若くして亡くなった科学者【ニールス・アーベル】

短い人生の中で、その後の科学界に多大な影響を与えるくらいの研究成果を残すということは本当に奇跡に近いのではないかと思います。

短命な科学者としては、第21回目ではブレーズ・パスカルを紹介したのですが、パスカルは39歳のときに病気により亡くなってしまいます。

さらに、第44回目で紹介したエヴァリスト・ガロアは、20歳のときに決闘により亡くなってしまいます。

そんなガロアは、第45回目で紹介したオーギュスタン=ルイ・コーシーに論文を提出するのですが無視されてしまいます。

実は、同じようコーシーに論文を提出するものの無視され、短命だった科学者がいます。

今回は、貧困と病気に苦しんだ若くして亡くなった科学者であるニールス・アーベルを紹介します。




ニールス・アーベル

名前:ニールス・ヘンリック・アーベル(Niels Henrik Abel)
出身:ノルウェー
職業:数学者
生誕:1802年8月5日
没年:1829年4月6日(26歳)


業績について

アーベルの業績としては、アーベル方程式、アーベル積分、アーベル関数、アーベル多様性などのアーベルの名前が付いたもが多数あります。

さらに、のちの数学者に500年分の仕事を残してくれたと言われる「超越関数の中の非常に拡張されたものの一般的な性質に関する論文」を書き、アーベルが亡くなった後に高い評価を得ます。

ちなみに2001年に、ノルウェー政府がノルウェー出身であったアーベルの生誕200年を記念して、アーベル賞という新しい数学の賞を創設することを発表しました。

この賞は、ノルウェー科学文化アカデミーによって任命された5人の数学者が受賞する人物を決定します。

賞金額はノーベル賞と同じくらいの金額で、数学賞としては最高額になります。


生涯について

アーベルの祖父はプロテスタントの牧師で、父親は神学と文献学の学位を取得していました。

父親はノルウェーの民族主義で酒癖が悪く、ノルウェーの独立運動に政治的に積極的に参加していました。

母親は商人の娘で、アーベルは7人兄弟の2番目に誕生します。

1歳の時には祖父が亡くなったため、父親が祖父の後継者として任命されます。

そのためアーベルは13年間、各教区の牧師が居住する牧師館で父親から教育を受けるのですが、この当時ノルウェーは経済危機だったため両親は家族を十分に養うことが出来ませんでした。

1815年には、アーベルと兄はクリスチャニア大学のカテドラル・スクールに入学し、アーベルは数学と物理学の才能に目覚めます。

1817年には、ベルント・ボルンボエ(1795年3月23日ー1850年3月28日)がアーベルが通っていた学校に来ます。

この時期にアーベルは、大学のレベルの数学の教科書を勉強し始め、第19回目で紹介したレオンハルト・オイラー、アイザック・ニュートン、ジャン・ル・ロン・ダランベールなどの著作を読むようになります。

そんなアーベルと出会ったボルンボエは、アーベルが素晴らしい才能を持っていることを確信し、第29回で紹介したジョゼフ=ルイ・ラグランジュや第39回目で紹介したピエール=シモン・ラプラスの研究をするように勧めます。

1820年には父親が亡くなり、学校を修了するお金も、大学で勉強するお金も無くなってしまい、アーベルは母親と家族を養わなければいけなくなります。

しかし、ボルンボエがアーベルが学校に留まり奨学金を獲得できるように支援することで、アーベルは学校を辞めなくてもいいようになります。

1822年にはカテドラル・スクールを卒業し、その後はクリスチャニア大学に入学します。

そこでは、天文学者のクリストフェル・ハンステーンが支援者になり、ハンスティーンの妻はアーベルを自分の息子のように世話をしてくれます。

クリストフェル・ハンステーン

1821年には5次関数を解き、デンマークの数学者であるフェルディナンド・デゲン(1766年11月1日ー1825年4月8日)に論文を提出するのですが、デゲンはアーベルの間違いに気づき指摘します。

1823年には「積分についての論文」を発表し、1824年には「5次の一般方程式の解放の不可能性を証明する代数方程式に関する論文」を自費出版します。

そして1825年には、ノルウェー政府から海外旅行をする奨学金を受けとることが出来たので、ノルウェーやデンマークの数学者を訪問します。

そのとき、数学者の一人からアウグスト・レオポルト・クレーレ(1780年5月17日ー1855年10月6日)への招待状を渡され、ベルリンでクレーレと会い友人になります。

アウグスト・レオポルト・クレーレ

その後、ゲデンが亡くなったことを知り、パリへ行くことを考えます。

そこでクレーレと一緒にパリへ旅行へ行こうとするのですが、クレーレが出国することができなかったので、アーベルはすぐにパリへは行かずに北イタリアを旅行したのちパリへ行きます。

しかしその途中でお金が無くなったり、健康状態が悪化したりします。

1827年1月から1827年5月にはベルリンに行き、お金を借りつつ研究を続けます。

この頃にはアーベルは多額の借金を抱えており、クレーレはアーベルに学術的なポストが見つかるまでベルリンに残るように説得します。

しかしアーベルは自分の家に帰りたかったため、1827年5月20日にノルウェーのクリスチャニアに帰国し、家庭教師として働きます。

その後クリストフェル・ハンステーンの後任として就くのですが、アーベルは健康状態が悪化し続けながらも数学の研究を続けます。

そして1828年に、フロランドの婚約者のもとを訪ねようとするのですが、その旅行中に肺結核と肝機能障害により亡くなってしまいます。



アーベルという科学者

アーベルは幼少期からあまりお金には恵まれず苦しい時期を過ごし勉強を続けることが困難でした。

しかし、アーベルの才能を見いだした科学者たちが支援することでなんとか勉強し、研究を続けることができるのですが、健康状態が徐々に悪化していきます。

そんなアーベルはパリの科学アカデミーに論文を提出するのですが、第45回目で紹介したオーギュスタン=ルイ・コーシーにより論文が紛失してしまいます。

そして最後は旅行中に肺結核になり、さらに肝機能障害を起こし亡くなってしまいます。

もしコーシーが論文を紛失せずに、さらにもう少し長く生きていたならば、アーベルは生きている間に正当な評価をされていたかもしれません。

今回は、貧困と病気に苦しんだ若くして亡くなった科学者であるニールス・アーベルを紹介しました。

この記事でアーベルについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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