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【科学者#057】様々な大学を渡り歩き猫により量子力学を発展させた科学者【エルヴィン・シュレーディンガー】

1900年代に急速に発展していった学問として量子力学があるのですが、その始まりのひとつとしては第33回目で紹介したマイケル・ファラデーによる1838年の陰極線の発見があります。

その後、第27回目で紹介したニールス・ボーアや、第32回目で紹介したヴェルナー・ハイゼンベルクが発展させていったのですが、この2人のほかにも量子力学の発展に多大な貢献をした科学者がいます。

今回は様々な大学を渡り歩き猫により量子力学を発展させた科学者であるエルヴィン・シュレーディンガーを紹介したいと思います。



エルヴィン・シュレーディンガー

エルヴィン・シュレーディンガー

名前:エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger)
出身:オーストリア
職業:理論物理学者
生誕:1887年8月12日
没年:1961年1月4日(73歳)



業績について

シュレーディンガーは、量子力学の基礎方程式であるシュレーディンガー方程式を1926年に発表します。

シュレーディンガー方程式の解は、一般的には量子系の状態を表す波動関数と呼ばれています。

ルイ・ド・ブロイ

もともと、1924年にルイ・ド・ブロイが電子の波動説を提唱し、電子は粒子であり、そして波の性質を伴うと主張し、1923年から1927年にかけて電子線の回折が確認され、電子が波としてふるまうことが実証されます。

ポール・ディラック

そしてシュレーディンガー方程式が提唱され、その後ポール・ディラックがシュレーディンガー方程式を相対論的に拡張します。

1933年には、シュレーディンガーとディラックは『新形式の原子理論の発見』によりノーベル物理学賞を受賞します。



生涯について

シュレーディンガーの父親はバイエルン王国出身で、広い教養を持った人物でした。

一人っ子だったシュレーディンガーは、父の影響を受けて、少年の頃から多方面に興味を持っていました。

ギムナジウム(中等教育機関)時代は、自然科学や古典言語の文法、ドイツの詩、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの作品を好みました。

アルトゥル・ショーペンハウアー

1906年にはウィーン大学に入学し物理学を専攻し、物理学者のフリードリヒ・ハーゼノールから教えてもらいます。

フリードリヒ・ハーゼノール

そして、ボルツマンの学説に強い影響を受け、理論物理学者を目指すことを決めます。

後にシュレーディンガーは、「ボルツマンの考えた道こそ、科学における私の初恋と言ってもよい」と言います。

1911年には、ウィーン大学物理学研究室のフランツ・セラフィン・エクスナーから実験物理学を教わりながら助手を務めます。

その後は、1914年から1918年まで第一次世界大戦により砲兵の士官として戦線に出ます。

1920年にはアンネマリー・バーテルと結婚し、同じ年にはフリードリヒ・シラー大学イェーナでドイツの物理学者マックス・ヴィーンの助手を務めます。

さらに同じ年の9月にはシュトゥットガルト大学の准教授を務め、翌年の1921年にはシレジアのブレスラウ大学にて教授を務め、同じ年にはスイスのチューリッヒ大学の数理物理学教授を務めます。

同僚にはオランダの物理学者、化学者のピーター・デバイや、ドイツの数学者ヘルマン・ワイルがおり、特にワイルと親しかったです。

ピーター・デバイ
ヘルマン・ワイル

ちなみに、このチューリッヒ大学時代に固体比熱、熱力学、原子スペクトルを研究し、ドイツの生理学者、物理学者のヘルマン・フォン・ヘルムホルツの影響を受けて色の生理学的研究を行います。

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ

1925年から1926年には、フランスのルイ・ド・ブロイが発見した物質波の概念をもとにして量子力学の基礎方程式である、シュレーディンガー方程式をハミルトン–ヤコビ方程式などを用いて導出し、波動力学を発展していきます。

ルイ・ド・ブロイ

さらに、第32回目で紹介したドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの提唱した行列力学と自身の波動力学が数学的に同等であると証明します。

これらの業績によりシュレーディンガーは量子力学に貢献し、第27回目で紹介したニールス・ボーアの提唱した量子論を完璧なものにしていきます。

1927年には、フンボルト大学ベルリンにて教授を務めるのですが、1933年にヒトラー政権になるとユダヤ人科学者の弾圧に反対しベルリン大学を辞職してしまいます。

その後は、イギリスに渡ってオックスフォード大学のフェローになります。

1933年にはノーベル物理学賞を受賞し、1934年にはアメリカに渡りプリンストン大学で講義を行います。

1935年には、シュレーディンガーの猫の思考実験を提唱し、量子力学の欠陥について指摘します。

1936年にはオーストリアのグラーツ大学の教授になり、1937年にはドイツ物理学会からマックス・プランク・メダルが授与されます。

1938年にはオーストリアがドイツに併合されたことで教授を解任されたので、イタリアに亡命し、その後はベルギーのゲント大学の教授になります。

翌年の1939年には第二次世界大戦が始まり、アイルランドに亡命し、ダブリン高等研究所で研究を続けます。

1944年には、「生命とは何か?」を書き、分子生物学への道を開きます。

その後は、1948年にアイルランドの市民権を得て、1955年には定年退職します。

そして、1956年の第二次世界大戦後にオーストリアに帰国し、ウィーン大学の教授に就任し、1961年1月4日にウィーンで結核のために亡くなってしまいます。




シュレーディンガーという科学者

シュレーディンガーは、小さい頃から父親の影響もあり多方面に興味を持ち、2度の戦争を乗り越え、色々な大学を渡り歩き研究を続けました。

そして、シュレーディンガー方程式やシュレーディンガーの猫などにより、量子力学の発展に大きく貢献します。

さらに、1983年から1997年までに発行されたオーストリアの1000シリング紙幣にシュレーディンガーの肖像画が使われます。

今回は、様々な大学を渡り歩き猫により量子力学を発展させた科学者であるエルヴィン・シュレーディンガーを紹介しました。

この記事で少しでもシュレーディンガーについて興味を持ってらえると嬉しいです。

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