【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第8回|場踊り|石躍凌摩
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第8回|場踊り
日暮れも随分と早くなったものだと、すっかり暮れ果てた家路を辿っていると、何の変哲もない普段はひと気もない公園にひと集りができていて、何事かと見れば皆一様に、夜空に視線を注いでいる。どうやら月が、そうさせているらしかった。さっき月白(*1)から出たときに見た月が、果たして皆既月食のどの段階にあたるのか、月白へと向かう道にはすでに、赤々とした満月が夕空に浮かんでいるのを目にしていたが、ひとしきり話をしてから外へ出て見ると三日月のようになっていて、それが食われている最中なのか、それとも食われ尽くしてからまた回復していく最中なのか、どちらにせよ珍しいと聞こえた今日の月を、珍しいからと見ているのか、見るといっても目を奪われるというよりは、多くがスマートフォンを月に翳している。撮ってどうするのか、といつも思う。月というのは、見ているそのときが花ではないか。それに月というのはいつ見てもあたらしく、まるで古びないということのほうが、今宵は442年振りの皆既月食に惑星食で、これを見逃せば今生はもうお仕舞い、つぎに見られるのは322年後になる、かの織田信長も見ていたかも知れない、とひと通り聞いていたことよりも、私にはよっぽど珍しいことに思われて、ハレの月の満ち欠けに、ケがケであることの不思議さが、かえって明かされるようだった。
社会に振り付けられている、と公園を通り過ぎてから、昔に読んだ本の一節が思い出された。このところ、踊りについて見たり聞いたりすることのたびかさなっていたせいで、見るものすべてが踊りづくようで、普段は見馴れない集団の、その場に馴染まない身の振りは、月の夜にひと気ない公園に集まって、揃いもそろって月の写真を撮るという振り付けの、フラッシュモブでもやっているようだった。またフラッシュモブにはかならず外野があるが、この夜は月の光の照らす先、至るところにそのような奇異な光景、月にもまして奇異な光景が広がっていたのかも知れない。月に振り付けられるなら、あるいはそれも悪くはないか。
と、家に帰ってから本棚を探ってみると、哲学者の佐々木中による講演録『仝』の、「夜の底で耳を澄ます」という講演を要約する註記に、その一節は見つかった。ここで語られている藝術とは、さらに次のようである。
不意の疫病の襲来という、言わばピュシスの叛乱に抗して、人類が生き延びるために案出した術が、他者との間合いを取り、マスクを身に着け、手に消毒液を吹きかけこすり合わせる身振りであったことは、記憶にあたらしい。どころか、それは今なお続いている。そうして日々、これほどまでに一様に揃って振り付けられている人びとの姿に、私は今でも驚き続けている。しかしこれもダンスと見れば、またすべてのダンスは奇形的であることを思い合わせてみれば、腑に落ちるものがあった。自分にとっては普通のことでも、側から見れば随分と奇形的な仕草というものは、存外至るところにあるのかも知れない。そう思えば、ひとが生きていることの、すべてをダンスと見ることも、あるいは可能なのではないか。すべてと言うと、弾みが過ぎるだろうか。つまり、すべてを藝術と捉えてみることは。しかし、それでも、この身の振りはダンスで藝術で、あの身の振りはダンスでも藝術でもない、とそうきっぱりと分けられるものだろうか。
私は自分が日頃行っている庭仕事について、それをダンスだと思ったことはこれまで一度もなかった。他方でかねてから、庭とそれをつくりなす園藝は、私にとってはまぎれもなく藝術であると、常々そう考えてきた。そうしてそれが、生きること自体に関しては二次的な装飾物であり贅沢品でしかない高踏的なものとしてのみ理解されていることへの拭いがたい違和感こそが、私を庭師へと駆り立てる原動力でもあった。そう思えば、庭における日々の明け暮れもまた、もはやダンスと区別する必要はないのかも知れない。むしろ身体の活用のヴァージョンの多種多様さそのものであるダンスには、主にはひとでないものの身体をあつかう園藝にも通ずるものが、それこそ多様にあるのではないか。
皆既月食の二日前に、『名付けようのない踊り』(*5)という映画を観た時にも、同じようなことを思った。最近どうも踊りが気になる、と月白で話をしていると、ちょうど明日こういうのがあるから、都合が合うなら観た方がいいかも、とテレビか何かで見たことのあったような、てっきり俳優とばかり思っていた田中泯さんが実はダンサーで、その彼についてのドキュメンタリー映画が、月白から歩いてすぐの福岡市科学館で一夜かぎり上映される、その後には泯さんと監督とのトークショーも予定されているとのことだった。
"Dance of the beginning 始まりの踊り"と題された章の冒頭近くで、サンタクルス州のある街中での踊りの様子がひとしきり映し出されたあと、池袋の雑踏へとシーンが切り替わる。そのアングルが徐々にズームされていくと、浴衣を着て歩いている田中泯の姿にピントが合う。彼が歩いているだけで、何か異様な空気が漂うようだった。それに感じてか、次第に彼の周囲にひと集りが出来はじめる。と、辺りがそこだけ静まった、その間合いをはかったかのように、また踊りがはじまる。それから、「田中泯の踊りの多くは"場踊り"と呼ばれる。同じ踊りはなく、ジャンルにも属さない。今まさに居る、その場所と踊る」と、踊りを締めくくるようにキャプションが入る。
上映から二日後の皆既月食の日に、このシーンを月白で振り返りながら、泯さんの踊りは、ダンサーが踊るところすべてが舞台になるというような自己本位の表現ではなく、場踊りとはあくまで場が主体であり、それは庭仕事にも通ずるところが大いにあると感じた、とそう言うと、この上映会の始まる前のとあるインタビューのために、泯さんがまさにこの月白を訪れたそうで、彼はその中で、踊れる場と踊れない場があると語り、それから月白の展示室の、普段は本屋として開かれている空間に入ったときに、ここは踊れそうだ、と呟いたという。
そう聞いて、思えば私にも、踊れそうな場所がひとつあったと思い出す。この七月から、月に一回手を入れるという約束で、気付けば二度も三度も足が向いてしまう、佐賀は三瀬の山あいの、元は棚田であったところに、あるとき栗の木や柿の木が植えられてからは故あって長らく放置されていたようで、その木々の多くもいまでは草々に呑みこまれてしまって、いまだその全貌が見えないような場所。施主は福岡で子どものための絵画造形教室をされている方で、この広大な土地を、いつかは子どもたちのために、そうして広く多くの人びとに向けても開きたいという漠然としたイメージはあるものの、詳細な計画がある訳ではなく、そもそも全体を草に覆われているせいで見通しを立てようにも立てられないということから、私に白羽の矢が立ったのだった。
六月のある日に、はじめてここを訪れた際の打ち合わせで、以前にも一度、業者さんに草刈りをお願いしたのですが、草の勢いがあまりにも凄くて、いまや跡形もなく、ご覧の通りの有り様で、と施主は話された。つくづく草の速度には、このような仕事を生業としていても、いつも舌を巻かれる。しかも辺鄙な場所ということもあり、お金も時間もそう掛けられない中で、闇雲に草を刈り続けるというのでは、勝ち目のないイタチごっこをするようなものだった。そもそもが、草に勝とうとするから負けてしまう。むしろこれほど草のある場所が他にあるだろうかと考えてみれば、山にも、町にも、田畑にも、そうそう望めるものではない。そう考えてみれば、耕作放棄地と呼ばれる場所には、人間と自然の関係の、新しい可能性があるのではないか。むしろ積極的に、ここで草を育んでみてはどうだろうか。一見したところ、全体を芒と背高泡立草に占拠されているが、こうしたものをある程度取り除くことからはじめて、残すものは適宜残しつつ、そうこうしているうちに植生も変わっていく、その動きを見ながら、折々で種や苗を追加していくというのはどうだろうか、と提案した。こうして、放棄でもなければ占拠でもない仕方で、野のような庭を育むという方針が定まった。
七月の背高泡立草は、文字通り、私の背よりも高かった。芒もその葉を四方八方に、牙を剥くように所を占めていた。そのような草の海の中を、泳ぐように、溺れないように、取り除くつもりのものについては根っこから抜いてしまうと土地が傷むので根本から刈り、あらかたは風の吹くように撫で刈るようにしていく。こうすることで、草の勢いは次第に落ち着き、根の出方も細かくなって、地上だけでなく地下の空気と水の循環もよくなるのだという。こうした手法を風の草刈りと言うのだと、映画『杜人』(*6)の中で、環境再生医の矢野さんは語っていた。それを観る以前から、YouTube(*7)でも彼が草を刈る動画を何度も観ていた。この仕事に臨むときにも、さらに観た。
「この払いをやっていると、あぁ、風がこうやって、吹き抜けながら削いでいってるなというのが、これを通して分かる。自分の鋸鎌が、風になっているのが分かる」と、草の小気味よく刈られていく音と、そのリズムを刻む彼の身の振りは、見ていてとても気持がよく、これも今にして思えば、踊りや舞いのようにも見えてくる。もしかすると踊りとは、何かになることなのかも知れない。『杜人』の中で、矢野さんが土中の空気と水の循環を促すために庭に穴を掘るのだが、そのときは猪が穴を掘るようにするのだとも語っていた。それからどういう風の吹き回しか、うちの畑が猪に掘られたけれど、おかげで環境が良くなった、と映画を観た後に方々で、直に聞くこともかさなった。ここは元が棚田ということもあって、水が幾分溜まりやすくなっている。様々な草をここで育むには、私もまたしばらく風になったあと、今度は猪にもならねばならない。彼らのように鼻が効くかどうかはとうてい心許ないが、それでもその時々で、ひとでないものになろうと試みることが、庭師の藝術なのだった。
「自分じゃない身体っていうのを、僕ら年がら年中見ているわけじゃないですか。それも踊りを踊ることの間口の中には絶対に入ってるんだ。極端に言えば、すべての身体と一緒に踊っているということが、自分の心の中で成立していないと駄目なんじゃないか」と、ある講演のリハーサルに向かう車中で、泯さんがそう話していた。このとき話された自分じゃない身体、すべての身体とは、そこに人類のみならず、生類全体の身体をも含み込んでいたのではないか。震災による津波で人家の多くが流された福島県双葉郡浪江町の、復旧活動を除いては他にひと気もないようなところにまで足を運んで、崩れかかったトタン屋根の下に巣を張る一匹の蜘蛛を見つけて嬉しくなり、私の手足は四本で、彼の手足には足りないけれど、心意気だけでも模写しよう、と蜘蛛のアルスを夢中で踊った泯さんの言う「身体」だから、きっとそうに違いない。私は庭師になる以前とは比べようもないほどに、自分じゃない身体を見たり、それに触れたりすることが格段に増えた。肉体労働というのは乾いた言葉のようで、こと庭においては生しい内実をそこに含んでいることを知った。庭とは端的に、ひとでないものたちの身体と遭遇する間口であるのだと。それがまた泯さんに言わせれば、踊りを踊る間口でもあった。つまり庭をつくり育むということは、ひともひとでないものも、そこでより生きて踊れるような場をつくるということではないだろうか。またそうした場をつくりなす園藝そのものがひとつの踊りでもあるという、果てしもない入れ子の藝術の、庭とは温床なのではないか。
お菓子をつくるのがとても上手なひとがいて、そうかと思えば、ひと頃は踊りに打ち込んでいたそうで、他にも刺繍をしたり、モデルをしたり、その時々でいろんなことをやってきたけれど、そうしたすべての軸になっているのは踊りだというひとに、三瀬での仕事について話してみると、私も以前に麦畑で踊ったことがあって、そのときはもう、麦になっていた、と言った。
「踊りとは、何かになろうとすること?」
「そうね、なるというモードもある。それから、全部外すときもある」
「外すというのは、何を?」
「人間、かな」
「人間であること、自分が誰であるとか、そういうこと?」
「そう。それがうまくいったときには、踊っていたときの記憶がない。周りとの交歓があったことは、なんとなく覚えているけれど、自分がどのような動きをしていたのかはよく分からない。こう動こうとかも考えない。終わってからそれを観たひとに、凄かったよ、と言われて、そうだったんだって」
そういうことなら、私にも身に覚えがあった。三瀬の山あいまで来ると、田んぼに手のかかる時期でもなければ、周囲にひと気が絶えている。そこに踏み入ると、一人というよりも、一匹になるというのか、そこにいるいきものからすれば、私が誰であるかということなど何の意味もない。そこでひとつ、外れるものがあるような気がする。そうしていつものように風になったり猪になったり夢中になっているところに、ふいに疲れがおしよせて、息をするのも忘れていたようでそこで手を止めて、気付くと、庭が出来ている。まるではじめからそこにあったかのような道があらわれて、丈高い草々に覆われて見えなかった地を這う草々に日がさして、木々もまた息を取り戻したかのように風を受けている。ここでは、すべてが動いている。それからひと息ついて、こう思う──これは本当に私がやったことなのか、と。
どの庭でもそういうわけにはいかないけれど、あそこでは知らずに踊っていることが、側から見れば景色そのものになっているような時があるのかも知れない、とそう言うと、もうみんな踊っている、と彼女は笑った。
不意の疫病の襲来にあって、人びとの挙措は明らかに変わった。間合い、マスク、消毒という、社会からのあからさまな振り付けもあったが、それだけではなかった。これまでそんなことには一度も興味を惹かれなかったのに、どうしてもそんな気がして、と園芸店やホームセンターに種や苗を買い求めては、それぞれの庭やプランターで植物を育て始めるひとが、当時は大勢いたようで、かつてこれほど種苗が売れた年はなかったのだという。何がそうさせたのか。家に居ろとは言われていたが、植物を育てろとは言われていない。また育てるには至らなくても、これまで何でもないと思っていた道辺の花に、思いがけず目を惹かれたということを、当時を境に経験したひとは少なくなかったのではないか。おそらくは、ひとは危機に際して、植物に目ざめるということがあるのかも知れない。いずれにせよ、新しい身体が、新しい挙措が、新しい所作がそこで花ひらいたことは事実であった。そうして目ざめたひとたちが、今でも植物を育て続けているのかどうかは分からないが、危機といえば、外からやってくるものにかぎらず、内にも外にも、のべつある。つまり至るところに、庭の、踊りの、間口がある。もうみんな踊っている。だから、あとはどう踊るかの問題だ。それがいつともどことも知れない間合いに身の振りを間違えた私たちに、疫病のもたらした宿題ではないだろうか。
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