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第12回(最終回)誰よりもイギリス君主制を愛した男、ルイス・マウントバッテン|本田毅彦(京都女子大学教授)

EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。
※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。

 ルイス・マウントバッテン卿は1900年にヴィクトリア女王の曾孫として生まれ、その生涯を通してイギリス王室に関わり、また、それに強い影響を及ぼした。彼のそうした影響力は、20世紀に入って急速に成長した視聴覚メディアが、君主制と社会一般とのコミュニケーションを飛躍的に高めるだろうことに、早い段階で彼が気付き、しかも、その活用の仕方に長けていたことで発揮された、と思われる。
 第一次世界大戦後、王太子時代のエドワード八世の随員としてインド・日本への公式訪問に参加したことが、そうした展望をマウントバッテンが手にするきっかけになった。またマウントバッテンは、その死に際してすら、テロリストによる王室の縁者の暗殺という強烈な話題を、マス・メディアのために提供した。
 本来、立憲君主制の原則から、イギリス王室のメンバーには政治的言動を慎むことが求められる。しかしマウントバッテンは、準王族とでも呼ぶべき立場にあり、制度上の王室メンバーではなかったために、外見的には王族であるかのようにふるまい、社会からの注目を浴びながら、自らの意思と判断にもとづいて活動することができた。
 最終回は、20世紀の第3・四半期において、帝国から福祉国家へとイギリスが様変わりしていく中で、マウントバッテンという、その正体をつかみづらい人物が、何を考え、どのような足跡を残したのかをふり返ることにより、一人のイギリス人として彼が「こだわっていた」ものを明らかにしたい。

最後のインド副王・総督として

 日本の降伏により第二次世界大戦が終結し、また、東南アジア戦域での戦後処理に一定の目途が付くと(東南アジア各地で独立運動の火の手が上がる前の、束の間の平穏だったが)、マウントバッテンは連合国軍東南アジア戦域最高指揮官の任を解かれ、1946年5月にイギリスへ帰還した。本人はイギリス海軍での勤務へ復帰することを望んでいたが、アトリーの率いる労働党政権から、最後のインド副王・総督となることを要請される。同政権は既に、イギリスによるインド統治を終了させることを決定しており、従ってマウントバッテンに対してアトリーが期待していたのは、可能な限り手際よくインド側に権力を移譲することだった。
 イギリス国王=インド皇帝ジョージ六世も、この人選を歓迎した。イギリス君主制にとってとりわけ重要なインドとの関係を損なうことがない形で、王室の縁者であるマウントバッテンが英領インド帝国の歴史に幕を降ろすことを、ジョージ六世は望んでいた。
 マウントバッテンはスピードを重視しており、また、すべての利害関係者を満足ないし納得させることはできないと、割り切っていた。従って、1947年3月にインドに着任した際に彼が求めたのは、事後に一定の安定をもたらすはずの落としどころだった。ただし彼は利害関係者に優先順位をつけており、その最上位にあったのはイギリス君主制とイギリス海軍だった。
 そうしたマウントバッテンの現実主義、冷徹さが明確に現れたのが、長く英領インド帝国の忠実な同盟者だった、インドの藩王たちの切り捨てだった。藩王たちはマウントバッテンと同様に「王族カースト」に属する人々だったが、マウントバッテンの優先順位表では劣位に置かれていた。インド独立後も藩王たちの主権を維持することを嫌うジャワハルラル・ネルーの意向をマウントバッテンは重視し、藩王たちを巧妙に誘導しながら、マウントバッテンの目の中では無用の長物になっていた彼らの運命を、ネルーの率いる独立後のインド政府に委ねることをためらわなかった。

第一海軍卿、そして全イギリス軍の統率者として

 インド/パキスタンを分離独立させた後、イギリス海軍に復帰したマウントバッテンは順調に昇進を遂げ、念願がかなって1955年に第一海軍卿の地位に就いた。第一次大戦開戦当初、やはり第一海軍卿だった彼の父親が、ドイツ人であることを理由にその地位を追われた屈辱を、40年後に息子が代わりに晴らしたことになる。
 就任翌年、1956年のスエズ戦争に際しては、イギリス政府がそれに関与することに当初は反対していたが、イギリスの参戦が決まった後は、海軍の作戦実施に関して、お決まりのスピード感をもって手際よく対処した
 次いでマウントバッテンは、1958年に全イギリス軍の制服組のトップである国防参謀総長に任命された。しかし1964年にハロルド・ウィルソンの率いる労働党政権が誕生すると、引退することを求められた。ウィルソンによって自分は退官を強いられたのだとマウントバッテンは受け取り、彼に対して恨みを抱くようになる。ウィルソンは二度にわたって首相になったが(1964~70年、74~76年)、実は彼はソ連のスパイなのだ、とのうわさに付きまとわれた。そのせいもあって、イギリスの軍情報部(MI5)や右派マス・メディアの経営者たちの中には、ウィルソン政権へのクーデタを企む者がおり、彼らの間では、クーデタの成功後はマウントバッテンを政権のトップに据える、との案が語られていた。マウントバッテン自身も、そうした計画に関心を示した、とされる。

日本の皇室との和解をマウントバッテンが拒んだ理由

 また、マウントバッテンは、日本の皇室との和解を拒否する姿勢を変えなかった。昭和天皇が1971年に訪英した際にも、日本軍と戦ったイギリス人元兵士たちと同様にマウントバッテンは、それをボイコットしている。マウントバッテンには、そのような態度をとるのに十分な理由があった。
 マウントバッテンの指揮下でアジア・太平洋戦争を戦ったイギリス人元兵士たちは、日本軍が捕虜に対して行った残虐な取り扱いを主な理由として、日本国/昭和天皇を憎悪し続けていた。マウントバッテンは、そうした人々(退役軍人会)を自分の主要な支持団体にしていたため、彼らに歩調を合わせる必要があった。また、インド独立は、マウントバッテンの目から見れば、彼のキャリアにおける最大の「成功」であり、その根拠は、「アジア・太平洋戦争においてイギリスとインドは協力して戦い、日本を打ち破った。その結果、インドはイギリスから独立するのにふさわしいことを証明し、実際に独立したが、それが可能となったのには、東南アジア戦域の連合国軍最高指揮官、次いで最後のインド副王となった自分(マウントバッテン)のリーダーシップが大きく貢献していた」というものだった。従って、今になって日本国/昭和天皇と和解などすれば、そうした彼の成功譚の価値が下がる、と考えていた。

イギリス王室長老の暗殺

 マウントバッテンの引退生活は、それなりに華やかだった。マウントバッテン自身がプレゼンターになり、自らの経歴と重ねる形で20世紀の世界史を回顧する、というシリーズもののテレビ番組が制作され、1969年に放送された。また、イギリス王室の非公式の長老/相談役として振舞い、インドへも複数回にわたって赴いて、歓迎された。
 毎年夏には、アイルランドのスライゴーで休暇を過ごした。同地には、富豪だった妻エドウィナ(1960年に亡くなっていた)が残した別荘があり、娘二人をはじめとして、身近な人々がマウントバッテンを囲む形で集まった。しかし、1960年代以降、北アイルランド紛争が深刻化しており、それにも関わらずマウントバッテンがアイルランドでの休暇を続けたのは、彼の自己過信(インドを「解放」した自分を、アイルランドのナショナリストたちが狙うはずがない)が作用していた、と考えられる。
 結局1979年8月27日に、マウントバッテンは、スライゴーの別荘の近海でヨットの操船を楽しんでいた際、IRA(アイルランド共和国軍)によって同船に仕掛けられた爆弾が破裂し、複数の近親者を道連れにして死亡した。年老いたマウントバッテンをIRAが標的にしたのは、彼らの犯行がマス・メディアによって大々的に報道されることを期待したからだった。
 マウントバッテンの葬儀は、彼が生前に希望し、計画していたとおりに、マス・メディアの広報能力を存分に発揮させる形で、ロンドンにおいて大々的に行われた。王太子時代の現国王チャールズ三世が、彼のメンター(指導者、助言者)だったマウントバッテンの劇的な死から受けたショックはとりわけて大きく、優しく彼を慰めるダイアナ・スペンサーとの結婚を決意するほどだった。

マウントバッテンの三つの「こだわり」

 現代イギリス王室のありようを背後からデザインしたとも考えられる、マウントバッテンの生涯を理解するためには、彼が抱えていた、以下の三つの「こだわり」に注目することが有用なのでは、と思われる。
 第一に、彼は、王族カーストのメンバーであることについて、強い「こだわり」を感じていた。厳密に言えば、マウントバッテンはイギリス王室の正規のメンバーではなかった。しかしマウントバッテンは、第一次大戦期以降、消滅の危機に瀕していたヨーロッパの王族カーストを、視聴覚メディアという新たな広報装置を活用し、君主制の機能を現代社会からの需要に適合させることで、維持しようとした。そうした意味でマウントバッテンは、まさしく「国王よりも王党派的(être plus royaliste que le roi)」だった。彼の宿願がかなって、と言うべきか、現在のイギリス王家の姓は「マウントバッテン=ウィンザー」である(チャールズ三世の父親である故フィリップ公の姓が、マウントバッテンだったため)。
 マウントバッテンの二つ目の「こだわり」の対象は、大胆さとスピード感だった。第二次大戦中にマウントバッテンが駆逐艦戦隊司令官として乗り組んでいた艦が沈没したのは、同艦に対して危険度の高い作戦行動を行うことを、あえて彼が指示したからだった。また、最後のインド副王として、英領インド帝国の幕引きを彼が急ぎ過ぎたことが、インド/パキスタン分離独立に伴って途方もない数の死傷者を生む要因となった。マウントバッテンには意図して我が身を危険に曝そうとする傾向があり、その結果、彼の周囲も危険に曝された。それはおそらく、彼と同じ世代の多くの若者たちが第一次大戦で命を失ったのにも関わらず、自分がおめおめと生き延びていることへの、身の置き場のないような思いから来ていたのだろう。
 マウントバッテンの三つ目の「こだわり」の対象は、海洋だった。彼は、「イギリス社会の基軸は海洋との関わりにある」との強い信念を持つ、おそらく最末期の世代の人物でもあった(海軍将校としての彼の手腕については、疑念を挟む者が多いが)。ただし、近年、数知れない政治/経済上のデメリットにもかかわらず、ヨーロッパ連合(疑似的な大陸国家)からの離脱を選んだ現在のイギリス人たちも、なお完全には、そうした信念を失っていないのかもしれない。

(終わり)