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【トークイベント】『はじまりが見える世界の神話』原画展@ブックギャラリーポポタム(阿部海太×植朗子)

20人の専門家たちによる各地域の創世神話の紹介に、それぞれの「世界のはじまり」を描いた絵が添えられた書籍『はじまりが見える 世界の神話』の刊行を記念して、東京のブックギャラリーポポタムで、編著者の植朗子氏とイラストを担当した阿部海太氏のトークイベントが開催されました。

それぞれの分野で注目を集めるお二人の語る、「神話を語ること」と「絵を描くこと」の共通性、不完全で辻褄合わないことを受け止めることの意味、神話や伝承を研究することがタブーだった時代、物語と救済、とは‥‥。


■ 辻褄の合わないことを表現する

阿部:
まずは自己紹介からいたしましょうか。絵を描いたり、絵本を描いたりしています、阿部海太と申します。いま神戸に住んでこうした活動をしているんですけれど、ポポタムで展覧会をするのは3回目になります。えーと、(絵を指さしながら)ここまでが今回の本の原画で、ここからが展覧会用に描いたものなんですけれども、今日は基本的には本の原画についてお話しできればと思っています。

植:
この本の編著者を務めました植朗子です。いまは兵庫県の西宮市に住んでおりまして、神戸大学の国際文化学研究推進センターという長い名前の研究所にいます。もともと専門はドイツ語圏と日本の比較伝承学なんですが、そのなかで神話のモチーフについて研究してまして、神話が他の物語のなかでどう再編成・再創作されているのかを研究しております。
もともとの専門は怪談、とくに怖い話ばかりやっておりまして、人が生きたり死んだり、そしてその運命がどのように変わっていくのかということを研究しています。

阿部:
へえー。そういった専門があるんですね。

植:
ちょっとめずらしい(笑)

阿部:
ぼくは個人的に神話に興味をもち始めたのがここ1年前の話なので、あんまり専門的にそういったことを知っているわけではなくて、好きで本を読んでいるぐらいのレベルなんですけれども、今回初めてこうやって実際に研究されている方とお話しできる機会をいただいたので、色々と僕も聞いてみたいことがあるんですけれど。
まず、ほんとに根本的な疑問で、そもそもどういった話を神話と定義できるのかなというのを聞きたいんですけれど。
たとえば昔話、民話、あとは宗教、哲学、思想とか、まぁいろいろ近い距離のものが多分ありますよね。そのなかで明確に区切れるものがあるとしたらどういったところが線引きになるのかなと思いまして。

植:
はい、一番核心的な質問ですね(笑)。神話研究者の中でも神話の定義をどうするのかっていうのはいつも問題になるところで、私は伝説の研究をしているんですけれど、えーと、むずかしいですね。いちおう文学ジャンル的にいうと、神話と伝説とメルヒェン、この三つをもって民間伝承という区分になるんですけれど、この三つは同じような位置づけで並んでいるんじゃなくて、伝説とかメルヒェンの根源にあるものが神話で、人びとが一番最初につくった物語、神を語るもの、あるいは神々がつくったものについて語るものが神話の定義ということになっています。他の伝承はそこから派生したものだと。

阿部:
じゃあ簡単にいうと、いろんなものの中でも一番古い物語、といえると。

植:
そうですね。神そのものか、神的なものを語っている、ということが必要になります。

阿部:
なるほど。伝説とかメルヒェンとかには一概に神が出てくるわけではない。魔法なり見えない力みたいなものが書かれていたとしても、神が書かれているわけではない。

植:
そうです。神が書かれているものもあるんですけれども、それを語ることがメインではない。

阿部:
わかりやすいですね。じゃあそういう風に分けられるとして、それぞれ役割がちがってくるかと思うんですけれど、神話というものは当時それを語っていた人たちにとってどのような役割だったんでしょうかね。

植:
そうですね。神話の役割というものは、つくられた当時と、それぞれの国が近代化して発展していったときとで意味が変わっていくかと思います。もともとたぶん神話が生まれた根源としては、人が生きて、人が亡くなって、まじめに親切にやさしく生きているからといっていつも幸せな結末を向かえるわけではないという、やるせない怨念、みたいなものを慰めていくために元々はつくられたんではないかと思っています。

阿部:
いま「思っています」と仰っていましたけど、けっこうその(神話の生まれた意味についての)解釈というものは人によって分かれるものなんですか?

植:
分かれますね。とくに近代以降の研究者にとっては。とくにドイツもそうです。
自分たちが生きていくにあたいする生き物なのだ、人間なのだ、守るべき大地なのだといった理由づけ、権威づけのために利用されてきたっていう部分がもちろんあるので。
語りの目的と読み手の心のズレっていうのは、どうしてもあるかな、と思います。

阿部:
うーん。今回の本の物語を読んでても思うんですけど、創世神話っていうくくりで今回神話を取り上げているんですけれど、世界が生まれた瞬間と、あと国ができたときと、やっぱり差があるというか、読んでてだいぶ印象が違うなっていうのがありました。それもそれで面白かったんですけれど。それはつまり、それぞれ語られた時代が違うっていうことですよね。

植:
そうですね。保存された時期が違うので。あとは文書化されて、それがいったん他の国の侵略とかがあったときに消滅してしまうこともあったので。

阿部:
まえがきにも書かれてましたけど、やっぱり神話というもの自体、完璧な状態っていうものがたぶんありえないわけですよね。その完璧じゃないものを読み解く面白さっていうものが神話にはすごくあるなって思っていて。けっこうそういうところも絵と近いなって思ってるんですよね。
なんていうか絵のなかって辻褄のあわないことを表現できる場所としてすごく有効だなって思っていて。どう描いたらいいかも自由だし。昨日たまたま絵描きさんと話してたんですけど、その人がいうには、光を描くときに、普通の場合は、光源がひとつあるとしたら影はおんなじ方向に伸びる。だけど絵のなかではこっちに伸びてる影もあるけど、あっちに伸びてる影も必要だっていう絵があって、それを両方描くとなんか違和感が残るんだけど、でもそれは絵のなかでは逆に辻褄があってる、絵はそっちの方がいいんだよねって話をしてて。なんか僕はそれがすごく分かるなって思ってて。
今回もそれぞれの神話に一枚の絵を描いてるんですけど、いただいた神話の物語って、ひとつにまとまった物語というよりは、こういった物語もあったし、ああいう物語もあったしという、それぞれがあんまり関係してたりしてなかったりとか、わりとバラバラな状態のものがあって。ここの部分を取りあげたらいいのか、それともこっちの部分を取りあげたらいいのか、ちょっと最初迷ったんですよね。でも結局、特定の部分を単純に取りあげるよりかは、もうすこしそれぞれのお話の部分をうまく寄せ集めて、ひとつの絵に作りあげた方が、どっちかというと神話的なイメージを伝えやすいかもしれないなって思って。たぶん物語の内容には沿ってない絵もけっこうたくさんあって、そういう意味では正しくないっていう言い方もできるかもしれないんだけど、それは自分のなかでは「絵でやる神話」っていうイメージをもって描いたりしたんですよね。

植:
すごく今のお話、分かります。絵になるっていったときに、どのモチーフ、どの題材を取りあげるんだろうっていうのが、自分のなかですごく楽しみであり不安でもあったんですけれど、完成した絵をみたときに、あ、そっかと思いました。
私は伝説研究をしているんですけど、伝説って物語のなかでひとつすごい大きな特徴があって、世の中の人たちに真実だと伝えたいことを語りで書くっていうのが伝説というジャンルの絶対の条件としてあるんです。どこどこの場所にいついつに存在した人、あるいは真実として伝えたいことを書く、という。
で、そこと神話との共通点というのを考えていて、それが絵になったときにこれはそうではないよっていうのが出てきたらどうしようっていうのがあって。

阿部:
えっと、そうではないよってどういうことですか。真実ではないってこと?

植:
うーん、なんていうんでしょうね。感覚的にしかいえてないんですが。
えーと私にとって神話っていうのはその世界を切り取ったものなんです。伝説もそうなんですけれど。

阿部:
自分が思っている世界とズレてしまうという感覚?

植:
いやー、この世に存在しているものとズレてしまったら嫌だなという感覚っていうか。なんていったらいいか分からないんですけど。

阿部:
それはつまり植先生が感じる感覚ってことですか。パーソナルな。

植:
そうですね。パーソナルかどうかは分からないんですが……。


■ みんな、それぞれの真実を見ている

阿部:
その、なんか神話自体はものすごく個人的だなって思うんですよね。やっぱりいろんな神話を読んで、それぞれの国や地域の環境だとか地形だとか、ちょっとすすむと政治だったりとか、状況が異なると神話も異なってくるっていうのは読んでて分かる。やっぱり問題っていうのはそれぞれに異なるというか、水がすごく少ない地域では水が神聖視されたりとか、こっちの人はそれが神様みたいにみえても、逆にこっちの人には見えないっていうのが全然起こりえる。すごく感覚的なものというか。
さっき真実っていう言葉が出てきましたけど、真実っていうのは僕の中では確固としていない、ふわふわしているというか、みんなそれぞれの真実があってそれを見ているのかなって僕はぼんやり感じてるんですけど。
(植先生的には)真実っていうのは、もっと確固としたものとしてある、という感覚ですか。

植:
うーん、そうですねえ……。むずかしい。

阿部:
あの、環世界っていう概念をご存知ですか。人間が見ている世界と虫が見ている世界とでは、ほんとに同じものといえるのだろうかっていう考え方が環世界なんですけど。
たとえばダニがいて、ダニは世界を感知するために二つぐらいしか信号をもっていない。たとえばダニが木のうえにいてその下を哺乳類が通ったとして、そのとき哺乳類がだすガスというか匂いみたいなのがあってそれをダニは感知する。それから、それを感知したら手を放して木から落ちる。落ちて皮膚の上にのって、今度は柔らかいところを探す。で、柔らかいところがみつかったら血を吸う。つまり、この「ガスを感知する」のと、「柔らかいところを探す」っていう二つの信号だけで世界をみている。で、要するに二つの信号で見ているダニの世界と僕たちがみている世界とは、はたしておんなじ世界とはいえないんじゃないかっていうのが環世界の考え方。
ぼくらは一つの世界のなかでいろんな人間といろんな動物が共存してるっていう風に考えている。けど、じつはそうじゃなくて、みんなそれぞれ別個の世界があって、そうした別個の世界のなかでたまに重なるところがあって生きている、という考え方で、ぼくはこの考え方がけっこう好きなんですよね。
で、ちょうどその考え方を知った時と神話に興味をもった時が近くて、神話にすごいそういう印象があるんですよね。つまり、その人たちにしか見えない世界がある、というか。
けっきょく前提として、世界がはじまった瞬間は誰も見ていないわけですよね。見ていない瞬間を語るのが前提。でやっぱりそのときに見ているものっていうのは、みんながおんなじ物を見ることはできないって思っていて、環世界的なというか、ひとそれぞれのビジョンみたいなのが反映されて語られているんじゃないかな。そこがすごくおもしろいなと僕は思うんです。
なにを言いたかったか忘れてしまったんですけれど(笑)。あ、真実の話。

植:
そうですね。たしかに神話という世界はたくさんあって、それをむりやり統合する、むりやり共通性を一個みいだすっていうのは非常に危険な思想で、それを他人に強要するようになってしまったら終わりなので。内側にいろんな指針があって、世界がたくさんあるっていうのは、それは必要だなって思います。


■ 目を開けばなんでも飛び込んでくる世界で、どうやって何もないところを見るか

阿部:
ちょっと絵のことを話したいんですけど。神話とかをモチーフにした美術ってたくさんありますよね。そういうのご覧になられたりするんですか?

植:
はい、見ます。

阿部:
どうですかね、(僕の絵と)比べて。(会場笑)

植:
それは二つ目のむずかしい質問ですね。(会場笑)

阿部:
学者の人がどう見るかなっていうのは気になっていて。ふだん僕の絵を見る人は、ふつう神話とかに精通していない人の方が多いと思うんですけど、でも実際にいろいろ研究している人たちはどういうふうに僕の絵を見るのかなっていうのに興味があります。

植:
阿部先生の絵にはちゃんと真実が写っているなと感じます。絵を見るときもいつも思うんですけど、あ、これは真実、これは真実ではないって、いつもそれが基準になっていて。だから阿部先生の絵を見たときに、もしそこに真実が見られなかったらどうしようって心配も正直あったんですけれど、今日この場で絵を前にして改めて、ちゃんとそこに真実があるなぁと思いました。

阿部:
それはよかったですね。

植:
絵から温度を感じることっていままであんまりなかったのに、今日ここにきて温度があるって思ったというか。温かいもあるし、冷たいもあるし、暑いもあるし、寒いもある。

阿部:
やっぱりいろんな地域の神話を描くっていうときに、最初に考えたのはそれこそ暑いとか寒いとかなんですよね。その地域の。
神話の美術っていうのはそれこそ宗教美術的なものとか、神様の造形をつくるものとして昔からあるんだろうなっていうのは最初にこの本の仕事をするときに思って。はたしてそれをちゃんと調べてふまえてやるのか、それをいったん置いといて自分でやるのかっていうのは、最初の一つの大きな決断ではあったんですよね。
でそのときに思ったのが、今回20個も神話がある。で一個一個しらみつぶしに研究する余裕はないなっていうのが正直あって。本の体裁としても、なにかを深く掘り下げていくっていうよりは神話の入り口を開くような本にするっていうのは最初の目的としてあったので、そうやって調べていってドツボにはまるっていうのは、自分の仕事ではないなって思って。たとえばこの時代はこういう洋服を着ていたとか、こういう造形が主流だったとか、そういった要素は置いといて、それとは別の神話の要素というか、もう少し内面的な印象を拾いあげることでなにか新しい神話のイメージを提示できれば、それが僕の仕事になるかなって最初に決めたんですよね。
ただやっぱり完全には無視できないっていうのは物語からそういう世界観とかを感じるからであって、たとえば読んでて、あ、ここは樹がいっぱいあるところなんだなとか、綺麗な泉が湧いてるところなんだなとか、そういうことが神話のなかに出てくるので、周りの環境という要素はどうしても無視できないっていうか、無視すべきものではないなって思ったんですよね。やっぱり暑い地域に生えてる植物とか寒い地域に生えてる植物とか、そのへんは具体的なイメージをもって描いたりしたんですよね。そうしたときに温度っていうのは大切な要素ではあったかもしれないですね。

植:
五感のどこかに訴えかけてくる絵で、そしてそれが神話の絵なんだって。阿部先生が描いてくださったんだと思うと、ほんとにうれしい。

阿部:
(本の)まえがきにも書かれてたんですけど、神話って完成されたものではないというか、たとえば文学的に読んで、なにかディテールが語られて、すぐに絵が浮かんでくるものではない。

植:
ないですよね。矛盾もありますしね。

阿部:
そうですよね。だからやっぱり最初に神話を文字だけで読むっていうのはハードルの高い行為ではありますよね。

植:
今回も、神話に絵を添えていただいたのではなく、絵と神話が一緒にあるというイメージで私はこの本をみてるんですけど。神話に添えられた絵っていろいろあると思うんですけど、そのときに文に添えられた絵のはずなのにチグハグなものとかもあるときがあって、それは阿部先生が仰っていたように底にあるものをうまく拾い上げられないものがあったのかなって。

阿部:
神話って、やっぱりサラッと読めないところがおもしろいなって思うんですよね。ちょっとコツがいるなって思うんだけど。ぼくは最初、中沢新一さんの『最古の哲学』(『人類最古の哲学カイエ・ソバージュ(1)』)っていう神話に関する本を読んで、これは神話の読み方を教えてくれる本だったんですよね。それを読んで、あぁ面白い世界だなって思ったんだけど。でもそのあとに自分でただ神話だけ読んだりするとちょっと難しいなっていうのがどうしてもあったりして。

植:
それはやっぱり神話っていうのが物語体系としてきちんと閉じた世界にないというか、断片的なものであって(だから断片的ではない小説のようには読めない)。その断片的に並んでいるものから自分にとって大事なものを拾い上げていくのが(私は)好きな作業なんですけど。

阿部:
そう、だから普通に物語として読むのとは違う感覚をつかうと逆に面白いなって思ってて。たぶん絵との相性はいいんですよね。物語が完成しすぎている状態に、じゃあ絵っているのかなって話になってくるので。でも神話には絵が入りこむ隙間がたくさんあって、そういう意味ですごくやりやすかったですね。

植:
その隙間をみつめられるっていうのすごい(笑)

阿部:
ぼくの関心がそうなのかもしれないけど、なんにもないものとか、なんか見えないけどなんかありそうだなっていうのが絵のきっかけになるんですよね。
たとえばすごくきれいな絶景の景色があって、それを描きたいかっていうと全然描きたくないんですよね。きれいだなとは思うんだけど。花が一輪きれいに咲いてて、もちろんそれをサラッとスケッチするかっこいい粋な絵描きさんとかもいるんですけど、ぼくはなかなか筆をとれないというか、スッとできないんですよ。あんまりスケッチも得意じゃなくて。わりとグリグリで考えて描いたりするので。ただぼくの場合は、ないところ、なさそうなところをじーっと見たり想像したりして描くのが好きなので、それをずーっと続けてきたときにたまたま神話の本に出会って、その神話の成り立ちが完全にぼくが絵を描いてる行為とおなじだって思ったんですよね。
人間が死んだ後の世界とか、生まれる前の世界とかを、見えないんだけど、なんとか見ようとして、なんとかそれに形を与えようとしてるっていうのは、ほんとに絵を描く行為となんら変わりがないなって思って。
だから最初はそれが面白くって、神話をテーマに絵を描いてみようって思って、それがだいたいここ(ポポタム)で2年とちょっと前くらいにやった展示なんですけど。でもまだそのときには本を読みながら描いてて、描いてるうちに読み終わったんだけど、これもう神話ってテーマにならないなって思って、けっきょく絵を描いてる行為がそのまま神話を読んだり触ったりする行為とほんとに同じだとしたら、それはもうどうしてもテーマにならない。神話のなかに絵を描いている自分がいるということになってくるなって、描いてるときに思って。けっきょくその時はもう神話っていうのは自分の中で捕まえきれなかったんですよね。そこから興味をもって自分で色々勉強していったんですけど。
そういうのが大切だなって思うんですよね。けっきょく生きていくうえで。ぼくが個人的に興味を持つっていうのもひとつなんだけど、一方でけっこう切実に社会に必要なことなんじゃないかってずっと思ってるんです。よく言われてることだけど、ものがあふれてて、情報があふれてて、目を開けばなんでも飛び込んでくる世界でどうやって何にもないところを見るかとか、どうやって目をつぶってるときに何をみるかっていうのはものすごく大切だし、そういうことがないとちゃんと息が吸えないというか、そういう感覚があるんですよね。
それはたぶん僕の個人的な気持ちだけじゃないと思ってて、そういうのを望んでる人たちもいるし、望むことも気づかずに息継ぎができないみたいな人もいるかもしれないし、そういうところに届けばいいなって思って描いてるんですけどね。


■ 不完全であることに意味がある

阿部:
神話を研究するモチベーションってどういうところにあるんですか?

植:
私、もともとですね、生まれつき体がすごく弱くて、小さいときから二十歳まで生きられないってずっと言われてて。で、なんでだろうって思ってたんですけど。親が遠藤周作さんがすごい好きで。
最初に思ったのが、まっとうに、と言ったらおかしいんですけど、自分の心をつくして、生きて、そして生きてくことを終わりたい。そうしたらきっと長くても短くても構わないって思ったんですよね。これ、伝承の研究用語でいうところの救済になるんですけど。
私、節目節目で大きな病気を何回かしたことがあって、そうしたときにじゃあ自分は何から許されたいのかなって思ったときに、ひとつは運命の痛みから逃れたい、許されたいっていうのがあって。もうひとつは目に見えない形に残らないものであっても、そこにある真実を見たいっていうのがあって。でも私ピアノもやってたんですけど、ピアノの才能もなくて。絵も好きだったんですけど、絵の才能もなくて。じゃあどうしようって思ったら、世の中の美しいものが集まったものをみて、そしてそれが素晴らしいものであるんだってことを言葉で説明することができるじゃないかって思って。
そこが研究のきっかけでモチベーションですね。神話につながることが、救済だった、という。

阿部:
救済って言葉って、どっちかっていうと宗教で使われる言葉ですよね。ぼくはいま宗教にも興味があるんですけど、どう違うんですかね。神話の救済と、宗教の救済と。

植:
それ、神学研究者の先生に聞かれて、答えられなかった問いですね(笑)

阿部:
僕が読んだ中沢新一さんの本によると、これ分かりやす過ぎるから本当にこんな分かりやすくていいのかなって思うんですけど、宗教には熱狂がある、でも神話はもっと慎ましいものだって仰ってて。たぶん救済してもらいたい人たちにとっての求め方が違う。たぶん神話の方はもっと力が大きくて、自分たちでコントロールできないものにたいしてなんとかちょっとでもいいから救済してくれっていうものと、宗教はもうすこし強く熱狂的にお願いします絶対に私を救ってくださいっていって、それにたいして宗教はちゃんとこたえる(ことが求められてる)っていうのがちょっと違うところがあるのかと思いました。

植:
そうですね。答えの具体性があるないは、ありますね。

阿部:
あぁ、たしかにそれは言葉として明快ですね。

植:
私は救済の答えが形としてほしい、と思わないでいられるようになりたいです。

阿部:
なるほどー。でも、わかります。それは逆にいうと神話とか芸術が答えられるっていうことですよね。答えというものがはっきりとした形じゃない形でちゃんと提示できるっていうのが。
そっか、答えが明確になってくると、求める力も強くなって、熱狂がうまれやすいってこと(で、そのことを植さんは避けたいということ)ですね。

植:
はい、でもそうした強い願望をもてるほど自分の生き方に自信がないっていうか(笑)、熱狂できるっていうのはうらやましいなって思うんですよね。そこに向かって突きすすんでいくだけの確信が自分のなかにないと。

阿部:
やっぱり宗教の方がロジカルですよね。実際に起こってなくても観念のなかでちゃんとロジックが組み上がっていて、それを洗練させたり、うまく整理できたり発展できたりする先生たちがいたりして。
神話っていうのは発展というのはないと考えていいんですかね。

植:
そうですね。ないし、なくてもいい。

阿部:
すごく印象的だったのは、神話の本をつくるときに、最初の原稿をいただいて、もうすこし読みやすい形になった方がいいかもしれないって話をしていた時もあって、でもそのときに神話というものはそもそも不完全なものだから、それを文学的に読みやすいものにすると神話が壊れるっていうことを伺って、それはすごい納得したんです。衝撃だったというか、たしかにそうだって。それでまた神話の理解が深まったなって思いました。

植:
それはうれしいですね。

阿部:
そのときの話があって、絵も変わっていったんだと思います。絵の役割がはっきりするというか、じゃあそこは絵がやることなんだなっていうか。

植:
文章が洗練されてないから神話とか伝説とかっていうのは文学として価値が低いんだっていう意見の方が一定数いらっしゃるんですけど、そうではなくて、役割が違うんだと、断片であること、不完全であることに意味があると思うんです。不完全なものを洗練して作りあげてしまうとそれは別の作品であって神話そのものではないと。そこを汲んでいただいたのは、とても嬉しい。

阿部:
なるほど。やっぱり不完全さを残すっていうのは絵の中でもすごい大きな問題なんですよね。問題というか、そこをどう作家が選び取るかっていう話で。ようするに描こうと思ったらいくらでも描けるんですよね。ぼくもデッサンの勉強とかをしたので、何かを忠実に描けっていわれたらできるんですけど、それをやったとしていい絵になるかといえば全然別問題だっていうのはみんな分かってるんです。でもどうやって完全さっていうところから離れて、不完全さを残して、留めておけるかっていうのは、ものすごく勇気がいるんですよね。手放す勇気というか。
いろんな捉え方があるけど、ある意味、絵というのは自分の何かが出てきてしまっているので、不完全さを見られたときに、苦しさとか、恥ずかしさとか(を感じるのが)いまだにあるんですよね。もちろんいい不完全さを見つけられたときは全然苦しくないんですけど。
なんかそういう完全にはおぜん立てされていない状態っていうのがいいなって最近はよく思うんですよね。なんでもそうですけど、ものすごく社会全体がおぜん立てする方向にどんどん進んでるっていうか。

植:
そうですね。進んでいってますね。

阿部:
手ぶらでいけば何か楽しいことが待っていて、帰りもすっと帰れて、なんの苦労もなく「楽しかったね」っていって終わる。こういうのは、もうすごく危ないんじゃないか。なんで危ないかっていうと、想像力を失うっていうことだと思うんですよね。つまり想像力を失うっていうことは、自分たちよりもっと激しくて強い大きな存在たちのことを忘れてしまうってことで、それはもちろん自分たちの被害でもあるし、子どもたちが生きていくうえで障害になっていくようなことでもあるんですけど。そういった想像する余地みたいなものを与えることは僕たちの使命だと思うんですよね。それは仕事って意味ではなくて、芸術がもっているもともとの使命っていう感じがある。それは神話(の役割)と全く一緒というか。
ぼくは絵と神話はなんでこんなに似てんのかなってやっぱり思うんですよね。僕の中では、どっちかというと神話の方が大きいんです。神話の方が大きくて、その中に絵が入ってるというイメージをもってしまうんだけど。そんなことないですか?もっと(芸術と神話は)分かれてますか。絵をそういうふうに見たことはないですか?これ神話と同じだって。重なる部分というか。

植:
うーん、重なる部分はあるんですけど。どうでしょう。神話をモチーフにした絵や芸術作品はいろいろみたことはあるんですけど、私にとって神話って自然そのものなんで。

阿部:
あぁそうなんですか。

植:
そうなんです。自然の息吹を感じる神話の作品っていうのは阿部先生が初めてかもしれない。私、博士課程の時に美術館の受付していたんですけど、そのときに神話的なモチーフの作品がたくさん並んでいたことがあって、でも神話的なモチーフなのに人、というか個人を感じることの方が多くて。

阿部:
そうなんですね。まぁ絵もいろいろあるから。ぼくにとっての、ということなのかな。でもすごい共通するものを感じるんですよね。
僕は最近神話のことを知ったけど、もっとみんな神話読んでほしいなってすごく思うんですよね。こんな面白いものあったんだっていう。他の人とも一緒にいろんなことできるし。近いことやってるし。良い先生、良い見本ではないけど、(神話を読んでると)昔からみんなこういうことやってんだっていう気持ちになる。
どうしても神話って形骸化しやすいというか、イメージが強すぎるんですよね。神様がいて、アダムとイブがいて、みたいな(笑)。ものすごくステレオタイプな見方があって。ぼくはたまたま人から阿部さんの絵って神話っぽいよねって言われて、それから気にするようになったんだけど。それでももうちょっと身近にあっていいものだって思うんですよね。


■ パーソナルなイメージが普遍性を帯びる瞬間

植:
神話研究してると、日々、神話のダメなところばかり指摘されるんですよね。

阿部:
たとえば?

植:
たとえば歴史研究の方にいわれるのは、神話と歴史には親和性がある。だけども神話はダメだ。神話は人のメンタルを動かして、政治的にもなにかを扇動したりとか、支配者側の思いを押しつけたりすることがある。あとは文学研究の方も、一部ですけど、文学として洗練されてないから(よくない)と。そうじゃないんだって思うんですけど。

阿部:
言葉とか歴史とかに精通している人がどうしてそういうふうに神話を捉えちゃうのか不思議ですね。

植:
それはナチスの問題が絶対あるんですよね。私(の専門)が19世紀のドイツなんで余計そうかもしれないですけど。ナチスが国をまとめたりするときに(神話を)使ったという事実があるので。人の心を揺さぶって、その土地に対する愛着を掘り起こして高めていく作用があるのは間違いのないことなので。それが間違った方向に使われていくことへの危惧っていうのはある。ドイツとドイツ周辺にはとくにですけど。

阿部:
シビアな問題として。

植:
シビアですね。私が研究をはじめたころはまだタブー的なところがあったというか。

阿部:
やっぱり単一の民族が語る思想みたいなものは危ないって思われてしまう、という。

植:
そうですね。郷土愛が間違った方向にいかないかっていうのが(危惧される)。

阿部:
昨日たまたま札幌から寄ってくれたお客さんがいて、お話を聞いていたら、アイヌの話になって。自分の遠い先祖がもともとアイヌを迫害する側だった、そういう歴史があって今の自分がいて、自分が子供のころは(アイヌとの歴史を展示した)美術館とかも全然なくて、大人になってから美術館ができて、そういう文化とかが研究されるようになった。本当に最近のことなんだと。で、これはたしかではないけれど、自分が思うには迫害した側の負い目があったんじゃないか、外から価値を教えられて、時間が経過したことで、やっとそういう文化をちゃんとみることができるようになったかもしれないっていう話。すごく印象的な話だなと思って。
なんかそういう非科学的なことをやっているっていうのが野蛮だったり、現実をみてないっていうことを言われるのが、まだまだ根っこにあるって感覚がある。

植:
地元を愛するっていうか、自分の文化を愛するっていうのが、他の国や地域と比較して優劣を決めるってことでは絶対にないと思うんです。今回いろんな地域の神話があつまって一冊の本になって、それは優劣を競うことではないんだってことは、この本を手に取っていただいた方には絶対伝わるかなと。

阿部:
そうですね。世界にはいろんな考えがあるっていうのは知るべきですよね。
個人のイメージや思想を弾圧するっていうのは、結局大きな思想の中に入るってことになっちゃうから、本末転倒しているように見えるんですよね。僕も絵を描いていて、それはものすごく個人的なことをしているっていう自覚はもちろんある。あるんですけど、でもそれを個人が本気でやるとそれは個人の物ではなくなるっていうのは学生のころから考えてやってることで。つきつめることでパーソナルな問題やイメージとかが普遍性を帯びる瞬間があるっていうのは自分では体感としてもっていて、それをやっている。
いまは逆にその個人の体感だったりパーソナルなものっていうのは感じられない方向にいっていて、そういう意味で神話っていうのは訴えかけるものをもっているなって思うんですよね。いまの時代にとって。もう科学や便利さが行き過ぎてしまっただろうって思っている人は多くって、でもそこからどう抜け出るかってところはあんまり。だから何にもない時代のイメージをもつっていうのもいいことなのかなって。

植:
絵はそれを体感できるのが、いいですよね。

阿部:
ほんとは語り部の人から神話を聞けたらいいですよね。どれだけ違うんだろうって。この本の中には実際に語りで聞いて書かれた方の文章もありますよね。

植:
ありますね。

阿部:
それがいいですよね。「あとがき」にも書いたんですけど、文章だけでは伝わりにくいっていうのが、一番神話のウィークポイントっていうか、そこをもうちょっと一緒にやれたらもっと伝わるし、面白いものが作れるなって思うんですけど。
たとえば神話を研究している人たちは神話をどういう風に世の中に伝えていく手段をもってるんですか。本を書くとか。

植:
そうですね。それぞれが小難しい書き方で本を書くんですけど。(会場笑)
神話のその断片性っていうのはちょっと弱点ですね。語りで聞いたときに、ある年齢層の人にはすごく分かりにくかったり、偏ったイメージをもってしまったりとか。
私は配列研究をやっていて、どんな風に並んでいて、どんなふうに語っていたのかっていうものを研究するんですけど。その時に語り手の気持ちを解説したりするんですけど、配列研究はそれができるからいいって言われてて。
でも、今回の本は絵があるじゃないですか。配列研究では、私が小難しくあれやこれやとこねくり回して、この順番ならこういう効果が生まれてってやってるのを、本では目でみることができるんだって。

阿部:
なんかこういうのが盛り上がってきたらいいですね。相性は本当にいいなって思う。
でももともと僕らが気付かないなかに神話の構造をもった物語っていうのがあるんでしょうね。ドラマとか漫画とかもそうですけど、神話の恩恵をうけているってのが分かってきてて、そういう所からの再発見とかがされてきたらもっと面白いのになって思うんですけどね。

■ 質疑応答

Q:
タロットカードや占いと神話にはどのような関係があるか

植:
神話と占いは、全部を説明しきらないという点では共通性があると思います。神話は、こういうことがあって、こういう結果になるんだよって、辻褄を合わせて全部順序だてて説明してしまうと、論理的な破綻がぜったいにおきるので。たとえばその人の気持ちを何かしらで動かして作用させたいというときに、間の言葉を全部埋めるということは悪い方に作用します。
占いというのも、占いの言説研究というのがあるんですけど。たとえば星座占いがありますが、星座って12星座じゃないですか。この12星座にすべての人が当てはまるかっていうとぜったい当てはまらないですよね。で、その12星座に人を分類して、この星座の人に適しているであろうキーワードをいくつかピックアップして、それを相手に与えると。そしたらそのとき、占いとしての原石となる要素は伝わって、そして解釈は相手にゆだねられますよね。そこに占ってもらった方のそれぞれの人格であったりとか人生であったりとかがあって、それを自分なりに解釈して引き出す。
それぞれに石を投げかけて、そこからなにかの答えをそれぞれに解釈して引き出すという作業としては(神話と占いは)非常によく似てるなって思います。
あと神話と占い、どちらもそうなんですけど、神話の語り側、占いの語り側は、聞いている人を自分の思い通りにコントロールしたりしようとするのは危険っていう意味でもよく似てるな、と思います。
タロットについては、神話もそうですけどモチーフがあって、このときに描かれているこの絵柄について、たとえばハトとかにはこういう意味があって、そういうものイメージとして与える、すべて説明するのではなくて、相手の意識に石を投げかけて、波紋を広げさせる作用として共通点がある。

阿部:
神話を読んでて思うのは、むちゃくちゃなシーンはでてくるんですけど、わりと都合のいいシーンが出てこないなって思うんです。なんでもいいようにならないというか、苦しさにも理由をつけるというか。それがいいなって思うんですよね。

植:
そこで辻褄をあわせたり、救済を完全な形で与えてしまうと噓になるので。

阿部:
富とか権力とか、そういった欲望をまだもちえない時代の話なんですかね。

植:
欲望にたいする答えを与えきらない話というか。

阿部:
欲望はあるけど、それが叶わないことも知ってるという感じですよね。たとえばこの本のマヤの神話とかも、もともと人間はものすごく遠くまで見る力を神から与えられてたんだけど、あまりにもそれは神とおんなじ力をもちすぎてるって言って、けっきょく与えた神がもう一回霧を吹きかけて視力を奪うって話で。まぁむちゃくちゃな話だなと思うんだけど(笑)、でもやっぱりそれは自分たちがもう見えないってことを受け入れるわけですよね、そこで。なんかそういうところは占いとかとは違う、神話の魅力だなって思うんですよね。

Q:
心理学と神話との関連について

植:
もともとは別ジャンルですが、ユング、フロイトが出てきたあたりからは心理学の解釈に神話的なモチーフを見出すっていうのはあるので。私は専門ではないですけど、かならず心理学の本もみますし、神話的なモチーフの解釈に関する心理学、精神医学の最新の研究はチェックします。
それを見たうえで自分の研究をするのではなくて、自分が神話を解釈して出してきた結果と、別ジャンルの科学としての心理学や精神医学の方が出してきた結果が、一緒なのか齟齬があるのかっていうのはいつもチェックする、という感じです。
で、なにかしらの確信がすごい強いと、別ジャンルの研究者の方と、なぜか同じ時期に同じ結果が出ることがあって、それは興味深いなと思います。

Q:
それはたとえばどういう一致が出たのか

植:
たとえば不気味さについての研究ですね。フロイトの研究で、偶然の反復があることが人に不気味さの感情を思い起こさせるという研究があって、そのフロイトの理由づけがちょっとおかしいのでそのあとわりと心理学研究の人から流されてるんですけど。でも、ほぼ同時期に宗教学研究の人であったりとかグリム研究の人であったりとかが、反復性といったものが不気味さを気持ちのうえでおよぼすと。だからメルヒェンであったり神話であったりとかでも同じような文体が繰り返しありますね。そういった研究がほぼ同時に出てきたりします。19世紀の終わりから20世紀のはじめに。

Q:
表紙の絵がすごく好きなんですけどモチーフはあるか

阿部:
とっかかりは、もらった原稿とは別に自分が好きで読んでた北米の神話があってそれをベースに描きはじめたんですけど、描いてるうちに別のイメージが出てきて、それを更新する形で描いたんですよね。表紙の絵は、これはちょっと本のなかでは異質な絵で。本のパッケージをつくるっていう目的意識も影響してて、単純にあんまり暗い絵にしないようにしようとか、すこし鮮やかな色を使いたいなとか、そういうデザイン的な志向もはいっています。
あともともと絵の描き方として、ぼくはあんまり下絵を描かないんですね。描きながら、描いてる絵となるべく対話みたいなものをしながら、どういう風に絵をつくっていくかってのを考えるタイプで。今回の本は原稿があったんで、一つ方向性があるなかで、いろいろ実験をしながら描いたんですけど。表紙の場合はそれが無い状態で。なので、最初のイメージだけはその北米の神話から持ってきて、そこからこの本の表紙の絵としての役割を考えて、空に神話の世界が投影されているようなイメージに後半はシフトしたんですけど。
もとになった神話自体が、世界がはじまったときに水色の神様と、黄色の神様と、闇の黒の神様という、空の色の変化に由来する神様が出てくるシーンで、それを最初はきっかけにして空を描いたんですよね。
ひとりだけ小っちゃいのがいるんですよね。あれは、ちょっとこの絵だけ客観的な感じにしたかったんですよね。神話の世界っていうより、僕らの世界から神話を見てるっていうか。

Q:
ユダヤ教とイスラームに共通の神話があるように、ある神話がべつの地域ではちがう神話として語られたりすることはよくあるか

植:
よくあります。ただ、よくあるものとして残っていくのはやはり大きな力をもっている宗教の教典として使われる規模のものであったりとか。
あと天候に関わったり、洪水とか自然災害に関する神話については地域に類似性があったりします。

Q:
古代イスラエル神話の絵について

植:
私もこの絵について質問したいなって思っていて。
これすごいイブですよね。

阿部:
でも僕これ描いてて、嫁に「アダムとイブってこんな子供なの」っていわれたんですよね(笑)

植:
でもこれすごいイブですよね。

阿部:
なにをもってそう感じるんですか。感覚的な話しですか?

植:
うーん。アダムの肋骨からイブができるんですけど、このイブがアダムのことを全然気にしてなくって(リンゴを)食べてるじゃないですか。その無関心っぷりというか。

阿部:
物語を読んだ感じだと、完全にイブの方が大胆というか、奔放というか。まずイブが食べちゃうっていう。

植:
わがままというか、女の人の原罪みたいなものをイブに象徴させる絵って多いじゃないですか。だけどもっとこう自由というか、マイペースというか。

阿部:
知らないがゆえに描けたのも(笑)

植:
イブだなって思って。大きさもいいなって。部品から生まれたはずなのに一人の人間になってるんだなと。好きです、すごく。


(2018年6月9日 ブックギャラリーポポタム)
(対談構成=内貴麻美、浅山太一)

■ 植朗子編著/阿部海太イラスト『はじまりが見える 世界の神話』創元社
商品ページはこちら→https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3861


■ 登壇者プロフィール

植朗子(うえ・あきこ)
ドイツ語圏の伝説・説話研究者。神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。1977年和歌山県新宮市生まれ。大阪市立大学文学部国文学科を卒業後、大阪市立大学大学院文学研究科の修士課程を修了。その後、神戸大学大学院国際文化学研究科で博士号を取得。2016年に「未来を強くする子育てプロジェクト・スミセイ女性研究者奨励賞」を受賞。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー――配列・エレメント・モティーフ』(鳥影社)がある。現在、兵庫県在住。

阿部海太(あべ・かいた)
絵描き、絵本描き。1986年、埼玉県生まれ。東京藝術大学デザイン科卒業後、ドイツ、メキシコに渡る。2011年から東京にて絵画や絵本の制作を開始。本作りから販売までを行うアーティストとデザイナーによる本のインディペンデント・レーベル「Kite」を結成。Kite刊行の絵本『みち』が全国のセレクト系書店で人気を博し、新装改訂版『みち』としてリトルモアより出版される。その他著書に『みずのこどもたち』(佼成出版社)『めざめる』(あかね書房)がある。2016年夏より兵庫県在住。