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第8回|散歩と犬友

行動分析学を取り入れた「犬との暮らし方」にまつわる連載。犬と生きていくこととは、犬を飼うとはいかなることか。保護犬はると行動分析学者ボクの生活から、そのヒントをお届けします。*マガジンページはこちら

◎第8回◎
那須高原育ちのはる、都会のお散歩に挑戦!

 「はるちゃん、はるちゃん!」散歩していると近所の犬友さんが声をかけてくれる。はるも尻尾を振って近寄っていく。「はるちゃん、ほんとにかわいいですね」なんて言われると嬉しくてたまらないのだが、表情に出すのは恥ずかしく、あえて平静を保とうとしたりする。定年退職したオジサンの地域デビューは難しいというが、きっとこういうところなんだろうな。

 犬同士の相性と人との相性は別らしく、犬には近づいていって匂いをかぐのに飼い主さんには無関心なこともあれば、飼い主さんに近づいていってわんちゃんには関心を示さないこともある。

 片想いもある。はるが近づいていっても無関心だったり、怖がって飼い主さんの後ろに隠れる犬もいる。最初からがんがん吠える犬もけっこういる。飼い主さんは目を伏せて、犬を引きずるようにして去っていく。「すみません」と謝る人もいる。「オスですか?メスですか?」と聞いてきて「メス」ですと応えると「うちの子はオスだと吠えるんです」といいながらリードを緩める人もいる。吠えないのが意外みたいで「あれ、うちの子はメスには吠えるんですけど」と言う人もいる。この手の判断が当たるのはせいぜい五分五分で偶然の域をでないと心の中でつぶやいている。こういうところは地域デビューの妨害要因になりそうだ。

 向こうから近づいてきてくれるのに、はるが無関心なときもある。匂いをかごうとしたり、見つめ合おうと視線をあわせてくるのに、逆方向を向いたりする。ツンデレのツンである。不思議なもので、こういうときにはわんちゃんにも飼い主さんにも、なんとなく申し訳ない気持ちになって「ほら、挨拶しなよ」と言ったりする。もちろんはるに言っているようで、飼い主さんへの気配りだ。ボクだって来るべき地域デビューに向けて、できることから練習しているのだ。

 散歩中に出会う人や犬に対して今でこそ積極的に接しているが、うちに来た直後、はるは人も犬も怖がるビビリ犬だった。那須高原という自然豊かな環境で育ったせいもあるだろう。うちの近所は、住宅地とはいえ、人や車が行き交う都内の道路である。これまで嗅いだことがない匂いや聞いたことがない騒音に怯えていたのかもしれない。散歩に出た瞬間に尻尾はお尻の下に丸まり、道の脇にへばりつき、とにかく足早に、脇目もふらずに前進していく。なにかから一目散に逃げているようにも見える。リードはIの字にピンと張ったままになる。

 山本先生の教えに従い、ボクは茹でたササミを用意した。半歩先を歩き、はるがそのあとについてきたところにササミをちぎってあげるという作戦だ。ところがはるはササミに目もくれない。家の中なら喜んで食べるのに。 犬がリードを引っ張っても、引っ張られてはいけない。引っ張ってもいけない。そうすると、犬がリードを引っ張ることを学習してしまうから。だから、犬がリードを引っ張ったら、人は頑としてその場から動かないようにして、犬が引っ張るのをやめるまで待たなければならない。おなじみの「消去」の法則だ。

 理屈はよくわかっていて、その通りにやってみるのだが、まず、引っ張るのをなかなかやめてくれない。しまいには喉元のカラーの圧力で苦しそうに咳込み始める。それでもまだ引っ張る。我慢して待っているとリードが一瞬緩むので、ワンテンポ待ってから歩きだすのが、すぐにまた脇目ふらずの前進開始でIリードが完成してしまう。
 これを十数回、時間にして十数分繰り返して、進んだ距離は50mくらい。これではいつまでたっても散歩が終わらない。仕方なく、ボクは山本先生の教えから逸脱し、はるの前進速度に合わせて早歩きすることにした。こうすれば少なくともはるがリードを引っ張るという状況にはならない。リードは夏の電線くらいにたるんでいる。ときに早歩きよりもジョギング、さらには全力疾走して散歩を終える。そんな日が2週間くらい続いた。
 そうこうするうちに、はるも都会に慣れてきたのか、散歩中にゆっくり歩けるようになってきた。車やバイクはほぼ通らず、人通りも少ない散歩コースをいくつか見つけることができたことも大きかったかもしれない。電柱や植栽があると立ち止まって匂いを嗅ぐようにもなった。

 ある朝、きれいな花を咲かした植え込みで朝露が光る花びらをくんくんしてからこちらを見たときには、嬉しくて泣きそうになった。まるで「東京でも花が咲くのね」と言っているようだった。あとから考えると、あれは朝露ではなく他の犬のおしっこだった可能性が高いのだが、感動は薄れない。


 散歩中におやつも食べられるようになり、山本先生が教えてくれた練習も、ようやく再開できるようになった。とはいえ、今度は匂いをあちこちとかぎまくるようになり、ボクが行きたい方向とはるが行きたい方向が一致しないときがIリードタイムになった。なんだかんだでこれは今でも続いているが、散歩中、100%、はるがいつでもボクの斜め後ろをついてくる、いわゆる“つけ”のような状態になることは望んでいないので、これはこれでいいのかなと思ってもいる。

 同じ頃、散歩中に出会う犬や人にも、はるは少しずつ興味を示すようになってきた。犬と犬が匂いを嗅ぎあうときに「おはようございます」と挨拶し、嗅ぎ終わると「ありがとうございます」とお礼を交わす、飼い主同士の謎の習慣も学んだ。そうこうするうちに、犬同士がさらに仲良くなり、じゃれあったり、公園でかけっこする友達もできてきた。そうなると、飼い主同士も挨拶以上の会話をするようになる。犬友誕生である。この頃、夕方になると近くの公園にそういう犬友と犬が集まり、犬同士を遊ばせていた。はるは他の犬を追いかけることは全くしないのだが、追いかけられることは好きなようで、ボールで遊びたい犬がいると、自分のボールを見せびらかして、追いかけてくるように仕掛け、ボールをくわえて逃げ回るという遊びを延々とあたりが真っ暗になるまでやっていた。

 少し離れたところにある都営公園にも出かけるようになった。子どもや子連れの家族が「犬にさわってもいいですか」と近寄ってくると、おやつを手渡し、手を広げてはるが食べに来るのを待つように手本を見せてから同じようにやってもらった。はるは少しずつ子どもに近づき、手のひらからおやつをもらうとさっと後ずさりするということを繰り返していたが、これにも少しずつ慣れていった。

 ドッグランにも行ってみた。最初は完全にびびってしまい、尻尾も引っ込めてほぼ動けなくなってしまっていたが、声をかけてくれる飼い主さんにおやつを渡し、食べさせてもらう作戦を続けることで、やはり少しずつ慣れていった。当時を知っている飼い主さんには「はるちゃん、ほんと見違えるようになりましたね」と今では言われる。

 最後まで苦手だった作業服を着た中高年男性も、今では怖がらず、なぜか靴の匂いを嗅ぎに近寄って行ったりもする。そんなときは「知らない人だよ」と言いながらリードで止めるのだが、学習する気配はない。いつか蹴飛ばされやしないかと不安である。

to be continued…

★プロフィール
島宗理(しまむね・さとる)[文]
法政大学文学部教授。専門は行動分析学。趣味は卓球。生まれはなぜか埼玉。Twitter: @simamune

たにあいこ [絵]
あってもなくても困らないものを作ったり、絵を描いたりしています。大阪生まれ、京都在住。instagram: taniaiko.doodle