ある日の考えごと 蛞蝓 namekuji

  なぜそんな話になったのかはとんと記憶にない。
  父親の59の誕生日と、それから両親の結婚25周年の祝いを兼ねて少し豪華な昼食に出かけた日。ディスタンスな配置で、趣向を凝らした季節の料理を口に運びながらする話でもなかった。
  とにかくなぜだか蛞蝓の話になって、そうしてふと思ったのだ。

「蛞蝓って、自分と外との境界が曖昧そうだよね」
「蛞蝓に自我はないよ」

  私によるファンタジックな問題提起VSリアリスト父。一刀両断である。
  そうなんだけど、いやわかってますけど。

  想像してみてほしい。あ、ヌメっとしたアレ嫌いとかご飯中とかだったらごめんなさい。
蛞蝓は、その身体の大部分を構成する水分を塩から守れないほどに脆弱な組織を持つ。身体からは常に粘液が分泌されて、彼らがのっぺりと身を預ける地球にキラキラとした軌跡を残す。
  その粘液は少し前までは蛞蝓の表皮に付着していたもので、そのさらに前には彼らの体内にあったものである。
  そんな粘ついた体液と体の表面積の半分弱でもって地球と一体化して、弱々しい組織を持って。
  蛞蝓は小さいけれどとても大きな存在なのではなかろうか。私が蛞蝓を見る時、それは1匹の軟体動物を見るのではなくて、もしかしたら地球にできた1つのおできみたいな組織を見ているのではないか。彼らは自然の中にあって、自然そのもので、そうしてそこに混ざりこんで途方もなく広がる自我を持っているのではないか。いや、ないんですけどね、自我。

  粘液と身体の違いはなにか。自分の中と外の差はどこにあるのか?人間の口内は中か、外か?

  そんな話をするうちに気づけば食事は進み、甘味の桃ミルク寄せが出てきていた。うんまい。

  結論は未だに出ていないし、出すような類の話でもないのでこの文章はここで尻切れトンボ気味におわるしかない。そこで有益な情報を1つ。
  蛞蝓をWikipediaでひくと、蛞蝓がどうやったら死ぬのか、具体的な方法が列挙されています。悲しきかな害虫。蛞蝓害でお困りの方はぜひどうぞ。



  そうして蛞蝓は生死までも人間様に簡単に左右されて、余計に体内(生)と外(死)の境界をあいまいにして生きていくのかもしれない、と思ったり。

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