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わたしの旅行記/東京


いつもと変わらない平日の朝。東京駅は今日も人であふれかえっていた。通勤の人々は、目的地に向かって脇目もふらず、きびきびと歩いている。私もその流れに入って歩調を合わせた。ペースを乱さないように、慎重に。

今日は朝からミーティングだっけ。眠いな。コーヒーを買っていこう。そんなことを考えながら歩いていると、楽しそうに笑いあう家族連れが目に入った。大きな赤いスーツケースがよく目立つ。これから旅行なんだろう。もしかすると海外に行くのかもしれない。

思わず小さなため息がこぼれた。そういえば私の有給休暇、あと何日残っていたかな……。





ある日、東欧の友人から突然こんな連絡が入った。ーー「桜が咲くころに日本に行くよ!」。

彼女とは学生時代に言語交換サイトで知りあった。名前をケイトと呼んでおこう。私たちは英語で文通をするようになり、気がつけば約10年もの月日が流れていた。ケイトは出会ったときからずっと日本に来たがっていたけど、その夢がついに叶うのだ。
東京で一緒に桜を見よう。桜の絵文字つきで送られてきたメッセージからは、ケイトのわくわくした気分が伝わってきた。





英会話の練習に励んでいるうちに、その日はとうとうやって来た。

3月も終わるころ。私は上野駅の公園口に立っていた。空気はまだ少し冷たくて、冬の気配が残っている。無意識にコートのボタンをとめたりはずしたりしていた自分に気がつき、ポケットに両手を突っこんだ。

ふと顔を上げると、ブロンドの女の子がこちらに近づいてくるのが見える。ケイトだ。私は大きく手を振った。私たちは言葉にならない声を上げて、初対面をよろこびあった。





上野公園はこの時期たくさんの人でにぎわう。手をつないでいるカップルも、手を引かれている小さな子どもも、みんな桜を見上げてゆっくりと歩いていた。立ち止まって写真を撮っている人も多い。風が強く吹くと、花びらが舞って歓声が上がった。ケイトは感心したように言った。

「日本人は本当に桜が好きなんだね。聞いてはいたけど、こんなにたくさん人がいるなんて!」
「たしかに、この時期は桜が咲いているところはどこも大混雑だよ」

ふと思う。それって結構ふしぎなことじゃないか。ひとつの花を、国中の人々がこんなに愛しているなんて。しかもそれは今に始まったことではなくて、平安時代からの長い歴史がある。そんなことを考えていると、桜も桜を見てよろこぶ人々も、なんだか新鮮に見えはじめた。





お昼はとんかつ屋に入った。とんかつを食べながら、ケイトは素朴な疑問をたくさんぶつけてきた。招き猫と狸の置物はラッキーチャームだと聞いたけど、効果がちがうの? 招き猫は上げてる手とか色で意味があったりする? これ、何に使うもの?(ケイトが指したそれは、すり鉢だった)  日本はなんでどこにでも人形が置いてあるの?

「えっ、どこにでも人形が置いてある? そうかなあ」
たじろぎながらなんとか質問に答えていた私は、思わず聞き返した。たくさん見たよとケイトは言い張る。そのあとも、「人形」を見かけるたびに教えてくれた。干支の置きもの。スーパーのマスコットキャラのぬいぐるみ。パンダ、パンダ、またパンダ(これは上野だから……)。たしかにケイトの言うとおりだ。

あんみつみはし





ふたりで東京をたくさん観光した。上野の下町風俗資料館でけん玉をしたり。ケイトは「こんなのできるわけなくない?」と言いつつ、むきになって何回も何回も遊んだ。歴史ある銭湯に行って、熱々のお湯でのぼせたり。お風呂文化を予習してきたケイトはお風呂上がりの牛乳を熱望していたけれど、あいにく牛乳は売り切れだった。2人でカラオケに行ってお互いの国歌を披露したり、新宿まで足を伸ばしてゴールデン街をふらついたり……。

ごみごみしていていやだなあと思うような路地裏でも、ありふれた道路標識でも、ケイトは目を輝かせて写真を撮る。そんな姿を見ていると、私の中の「東京」も次第にかたちを変えていく。好奇心いっぱいのケイトの目を借りて見た東京は、おもしろくて、ちょっと変で、美しかった。

ほろ酔いの私たちは、夜の花園神社に立ち寄った。ふたりとも寒さで震えていたけれど、解散するのも名残惜しくて。神社には同じような酔っぱらいたちがいて、みんなでそろって夜桜を見上げた。





「東京駅に着いたときに、実はうれしすぎて泣いちゃったの。ずっとずっと夢見てた場所にやっと来たんだって、感動して」
ケイトは別れ際にそう言った。声にぐっと力を込めて。

ケイトと過ごした東京は、私にとっても新しくてふしぎにあふれていた。そう、それはまぎれもなく「旅行」だった。

ふと考える。遠くに行くだけが旅行ではないのかもしれない。きっと、好奇心が旅を旅にするんだ。旅って、意外と身近なところにあるのかも。





平日の朝。東京駅は今日も人であふれかえっている。私も会社へと急ぎながら、辺りをなんとなく見やった。あっ。こんなところにポストなんてあったんだ。


今週末は私も、東京を旅してみようか。


(2023年3月)

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