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能登半島地震について(前書き)

 

(1000字程度)

 
 能登半島を中心に、列島は元旦から大きな地震に見舞われた。こんなことが起こるなど、誰が想像することが出来ただろう。このタイミングで、こんな悲しい出来事が起こるなどとは。
 明けましておめでとう、の一言が憚られた。以前から、お正月と誕生日だけは、誰にとっても分け隔てなくやってくる、無条件にめでたい日だと確信していたのに。

 これだけのことが起こった訳だから、私も何事かを書こうと思った。書かなければならないと思った。
 言葉の何と無力なことか。いや本当は無力なんかじゃないはずなのだ。分かってはいるのだが、のどの渇きと空腹で自らをすり減らしている人がいる一方で、いつも通りに満ち足りた生活を過ごしている自分を考えると、並べられた言葉の空虚さを前に途方に暮れるしかなかった。
 普段からどうでもいい話を好き勝手に書き散らしている一方で、こんな事態になった途端に黙り込んでしまう自分がいる。
 それも、どうなんだ。
 もちろん、こんな事態だからこそ、何かを書いて残すということにも、勇気が必要にもなってくる訳で、そもそも、私には、震災について書かなければならない理由も、義理も、何もない。
 それなら、何も触れずにほかのことを書けばいい訳だ。
 そう、もちろん、その通り。しかし結局のところ、それが、私には最も難しいことでもあった。
 ああでもないこうでもない、と長い一人相撲を経た後、やっと気持ちが固まった。何でもいい。書かなくては。それがとりあえずの結論だった。
 何かを書くことで、この袋小路から抜け出し、この場所から一歩先の位置から新しい光景を眺めることが出来れば、きっとそれで満足なのだ。逆を言えば、何も書かないうちは、私はどこにも行くことが出来ない訳で、きっとその非常に個人的なわだかまりを解くために、震災について、何事かを書こうとしている訳だ。
 何にせよ、そう考えて、自分の尻を叩いた。書く動機は、ねっとりとした、醜いエゴだ。自己満足だ。
 それでも、書くには書く。自分なりに眼差しを送り続けることで、何かが少しでもいい方向に向かえばと、そう願っている。
 放たれた言葉は、たとえ一時混乱を生むとしても、他の意見とぶつかり削がれていく中で、妥当な声となり、きっといい方向へと導いてくれるはずだ。
 言葉こそ、大きな力の源と、そう信じたいのだ。



   (つづく)




 
 

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