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稲田七浪物語――とあるモラとの出会いと別れ――⑰

※初回から読んでいない方のために…登場する人物は全て実在であり、エピソードは全て実話ですが、モラハラ男稲田については仮名を用いており、他はイニシャルなどです。そして写真には特に意味がありません。

17. 共依存、欺瞞

1. たった一日の蒸発旅行
 「行こう」と、突然晴れやかな笑顔で言われて、はっきりそうとは告げられていないものの、なんとなく一緒に死のうのお誘いであることは理解していた。
 今考えれば、人生オール暇つぶしで健康と体力を持て余している癖にやりたいこともない稲田の分際で、持病を抱えながらも必死こいて生きている私の命を粗末にしようとしたこと、散々家に上がり込んで面倒をかけている母からその娘を奪おうとしたことを考えると、やっぱり稲田はアイアン・メイデンの刑に処されるが相応しいだろう。自分の人生に不満だからって、人を巻き込むんじゃねーよクズが!!である。稲田は、文豪に憧れていたから、太宰治みたいな心中騒ぎに恐らく憧れていたのである。まあ、実際には、必死に生きる勇気もないし、一思いに死ぬほうの勇気もないわけで、ちょっと心中気分を味わってみたい程度の気持ちだったのかも知れない。私の方も、本当には死なないであろうことを腹の底ではわかっていたような気がする――私がその誘いに乗ったのは、これまで私の感情をきちんと顧みなかったこの男が、どこまで私の為に自分を犠牲にできるかを確認したかったからだと思う。この頃は、兎に角自分が支払った犠牲が報われるかどうかばかりを見ていたのだ。自分でもこれは良くなかったと思うけれども、病みに病んでいたので、正常な判断が難しかったのだと思う。正常な状態だったら、「お前には私に説教する権利も代役探しを強要する権利も私を道連れにする権利もない」と吐き捨てて別れていたに違いないのだから。多分、歪んだ共依存とだったのだろう。さっさと捨てるが正解で、愛情などとっくに薄れているのに、自分に贖罪してくれるまでモラハラ加害者と離れないのなら多分そうだ。
 私自身の体験からは少し離れるが、この連載(笑)を書き出したころと今の私では少し変わってきていることがあって、それが多分、この共依存といおうか、「抜け出す気のないモラハラ被害者」に対する見方である。私はモラハラ加害者をこの世から一匹残らず駆逐したいし、あるいは子供を作れない体にするとかの路線でもいいのだが、モラ夫モラ彼氏モラ父は悪即斬でも削除削除削除…でもとにかく漫画みたいな力があればガンガン消していきたい所存だし、被害者にも悪い所が……とよくある二次加害的思考を持っている訳でもない。でも、まさに「家畜の安寧」を受け入れているモラハラ被害者をツイッター上で見ている内に、ちょっぴり考えが変わってきた。愚痴ってもいい。ツイッターはそういうところだ。離婚したい、いつかするけど今は我慢……当然だ、離婚は簡単ではない。わかるよ、わかるとも。私は生涯独身のつもりだが、母の離婚もなかなか大変だったから。特に経済的に男に依存する形態を選んでしまった女性は(そのこと自体、正直愚かだと思うけど若い時は色々気づけないものだ、私だってバカ男と付き合ったのだから偉いことはいえない)、なかなか独立するのが難しい。日本で女性が、しかも子持ちで働くのはなかなか厳しい。わかるよ、わかるけどぉ……!モラ夫から子供が庇ってくれた話とか、モラ義実家の嫌味に耐えながらうまくやりすごした話とか、そういうのさ……ちがくね??奴隷状態を甘んじて受け入れて、共依存でやっていく覚悟をした家畜にしか見えない。逃げ出せるのに逃げ出さない程精神状態をやられてしまっていて、分別がつかない状態なら分かるのだ。誰かが手を差し伸べなければいけない。でも、愚痴っていて、モラのやり口が卑怯で下種で〇んでしまえ!って思っているのに、反旗を翻さないのならば、それはうまくやっている奴隷以上の何ものでもない。だから、正直に言うと、ちょっと軽蔑する。モラハラ加害者が100%悪いに決まっているが、逃げる算段も立てる気なさそうな人が、愚痴で人の同情を買うのもちょっとどうかと思っている。最近巷であふれかえっているエッセイ漫画にも、正直、モラハラ夫にちょっと物申してやったとかうまく掌の上で転がしてやってうまいこと取り計らったみたいなドヤ顔オチみたいなのが多いけれど、ちっとも格好良くないよ。「私は人形ではありません」と言って出ていくノラの足元にも及ばないよ。(読んだのだいぶ前なので実はうろ覚えだけど!)
 そういう訳で、ここで「これまで散々私を苦しめてきたこの男がいかに私の為に犠牲を払えるか」の確認をした私のことも嫌いだ。ノラと違って、格好悪すぎる。
 兎も角、私は一旦家に帰り、突然だがお泊りに行くと母にモニョモニョ言って少ない荷物を持った。母はこの時奇妙に思ったらしく、ひょっとして死ぬ気かなと実は思ったらしいのだが、彼女は彼女でやけっぱちな人なので、そうなったら自分も死んで自由になれる…くらいの考えだった、と後々言われたような記憶がある。ともあれ、稲田と合流し、高尾の辺りまでいって、歩き回ったり足取りがおぼつかなくなるくらい酒を飲んだりして、なぜか最終的には横浜にいた。ただ、どこでだったか……当日は劇団の練習日で、私は病欠、稲田は急用ということにしていたが、稲田の携帯に電話がかかってきたのか彼からかけたのか、いずれにせよ演出である稲田に確認しないといけないことがあったらしく、後輩と電話をしている時間があった。指示をしている彼を見て、私の中に湧いた感情は――いや、感情は湧くのではなく、すーっと落ちていく感じだった。私が見たかったものとは違う。彼は、サークルにまだ出ている私を、自分の都合で呼び出して顰蹙を買わせても何とも思わなかった。つまり、私が周囲にどう思われようとかまわなかったのである。だから、彼にも、顰蹙を買って欲しかった。大切な呼び出しにも応じず、私に対してそうであったように、周囲に対しても無責任になって、私の痛み苦しみに寄り添うのに全力を注ぐべきだと思っていた。なのに、彼は、体面を捨ててくれない!私の体面はいくらでも足蹴にするのに、自分は立派な人物に思われていたい――そういうところが、あまり意識しないようにしていたが、透けて見えてしまったのだと思う。
 重ね重ね言っている通り、モラハラ加害者は体面を大事にしている。概ね、多少個人差はあれど内弁慶だと思って良いだろう。あるいは、強きに弱く、弱きに強いといっても良い。だから、稲田が体面をなげうってくれなかったのは当然のことで、期待した私がアホだったのだが、当時からモラハラという言葉やその特質が有名であったならばよかったのにとつくづく思う。

 さて、これだけ稲田を悪く書いておいて何だが、このたった一日の、心中気分の旅行については、そこまで酷く後悔はしていない。若い時分に、全く何も馬鹿なことをやっていないというのも多少寂しい気がするし(いや、主に中学生くらいから黒歴史は色々あるが……)、ああいうのは虚しいなと体感できたのは意味がないでもなかったかも知れない。それに、稲田は、この時ばかりはちっともケチではなく、彼なりに勇気とお金を出して、散々移動しまくって酒に酔ってヘトヘトに疲れて眠った翌朝、ベーカリーで朝食をとることにした際は有り金下ろしてパンを沢山食べさせてくれた。なんというか、お互い、これで色々な蟠りが晴れたような、これをけじめとして再び前を向いて手を取り合って歩いて行けるような気がしたのだと思う。実際は何一つ解決していないのだが、ある意味情熱的?な時間を過ごしたことで、やっぱり互いが必要なのだと錯覚するわけであって、そんなところにも安物の愛ならば見出せるだろう。私も、稲田も、そんなチープなまやかしに縋るくらい、自分自身が心もとなかったのだろうから、あの時点では結局悪い意味でお似合いだったのかも知れない。いわゆる共依存に近い状態で、色々欺瞞があり、何一つ真実に触れないまま、自分自身の足で立つことを拒んでいたのだ。
 書いていて思い出したのは、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』である。私はあの作品を、稲田と付き合いだして間もなくか、大体そんな頃に読んだのだが、読んだ後酷く憂鬱な気分になり、三日間くらい酷く厭世的になった。自分が化粧をしたり、装いを凝らすことはいやらしいと感じたり、兎に角男女に纏わるあれこれを薄ら寒く思い、しかしこれは正常なことではないとも感じた。しかし、若い頃遊びまくり、妻に散々子供を産ませて家のことをさせておきながら、突然著作権放棄したり賢者モードになったりしたトルストイ本人は如何なものか、いいご身分ですねーと思わざるを得ないけれども、この小説は実際のところかなり真理を抉っている名作だと思う。お互いを尊重出来ていない、特に男が女を人間として、一人の生きた個人としてみなしていないような夫婦関係はありふれていて、うまくいかなくなると取り敢えずなし崩しにセックスして、和解したかのような錯覚を起こすという描写は優れた観察と理解に基づいていると思う。どれだけ多くの男女が、そういう欺瞞に満ちた関係を築いていることか。本当は憎み合っているが、表面だけ取り繕っていたりする。男は女を家庭内奴隷か、せいぜいよくて自分のケア係とみなしており、女は女でご主人様に捨てられては困るのでご機嫌取りに勤しむ――勿論、そんな夫婦ばかりではないだろうが、この男尊女卑大国ニッポンではありふれた組み合わせだろう。昨今、あのシンキローの辞任だなんだも今更感があるが、森と似たり寄ったりの考えの男は五万といる。『クロイツェル・ソナタ』に戻れば、主人公が、妻を生きた一人の人間だと理解するのは、自分が刺した傷によって彼女が「あなたを憎みます」と憎悪をぶつけながら息を引き取るその瞬間なのだが、それまで彼女を人間だと思っていなかったという書き方はすさまじいリアリズムだと思う。実際、多くの男にとってはそういうものだろうし、女性自身もそう思われている現状を受け入れていると思う。

2. 本番へ向けて

 あれこれと寄り道をしたようだが、兎に角、私と稲田は、互いに困難な局面を乗り越えたような錯覚を起こしたまま、翌日にはそれぞれの家に帰った訳である。
 この年、確かマリインスキー劇場の『眠り姫』の来日公演があり、私はそれの学生向けの安いチケットを持っていて、仮に自殺していたらそれを観ることはなかったわけだが、予定通り鑑賞した。とても綺麗で良かったが、私はどうもプティパ的なものにあまり痺れないようで、現代ならエイフマンがいいなーと思うし、願わくばバレエ・リュスを実際に見てみたかったものだが、まあこれも寄り道なので程ほどにしておこう。
 なんやかんやで、錯覚も役に立って、実体のない気力が湧き上がり、私はどうにか頑張ることができた。芝居を頑張ること自体は良い経験だし、色々と意義はあったと思うのだが、今思うと、稲田の頑張りゲージはこの時減りだしていたように思う。というのも、後輩の健康や、芝居の細部への配慮みたいなものがあまり見られなくなっていたのだ。
 例えばだが、『ヴァルプルギスの夜、或いは総督の足音』というのは、なかなか暴力的な芝居で、テクスト上においては殴る蹴る注射ブッ刺すのシーンが色々とある。『カッコーの巣の上で』と実際、色々似ている所のある作品なのだが、映画やドラマの暴力シーンはなるべくリアルに見えるように演出されているが、演劇においてはそういうリアリズムは常に議論の的である。馬上で戦うシーンがあるとして、舞台上に本当の馬を連れてくるのが良いのか、魚を捌くなら生の魚を持ってくるべきなのか、なんなら肉体関係を現すのに本当にヤらせればいいのか……と、キリがなくなってくる(阿部定を題材にした某映画では実際にセックスしているのだそうだ。それが良いか悪いかをここで論じる気はないけれども)。実話かどうかよく知らないが、モスクワ芸術座の俳優か誰かがチェーホフに「今度の芝居では川がさらさら言って、蛙が鳴くんですよ!」的なことを言ったら凄い微妙な顔をされて、芝居ってそういうもんかな~うーん……的空気になったなんていう話もあって、スタニスラフスキー的な「第四の壁」(舞台と観客を仕切る見えない壁があり、舞台の俳優は実人生のように生きるというあれ)を馬鹿正直に捉えれば、極限のリアリズムを志してしまうのかも知れないし、或いは舞台の上は虚構であり見世物であり、そこにはそこのリアルがあるのだという考えに基づいて、例えばブン殴るという動作は飽く迄も観客に伝わればよく、実際に殴っているように見えなくても構わないという考え方もある。私は基本的に後者のほうが舞台芸術の表現を豊かにすると思っているけれど、こういうのは簡単に結論が出る話ではない。

 あ、やっべー言いたいことの前にまた寄り道しちゃったよ!あ、でもちゃんと繋がってるからね?!

 話をぐいっと戻すと、兎に角暴力的な芝居だったが、実際に殴る蹴るをやっていたら大変なことになるので、そこは技術を磨いてカバーしようというのが最初の方針だった。顧問のN先生が教えたやり方は、例えば、腹をゲシゲシ蹴られる患者役は舞台に背を向けて転がり、蹴飛ばす極悪看護師は観客席を向いて足をガンガンと動かす。その度、腹ではなく、床を蹴る。その音に合わせて、患者役はビクンビクンと体をはねさせれば、これはなかなか蹴られているように見えるのである。
 しかし、そうはならなかった。そうはならなかったんだよロック……(この唐突な漫画ネタはBLACK LAGOONから拝借)
 そもそも、プロの劇団でもないわけだから、殆ど全員にわか仕込みの役者であって、元々ソ連で演劇人として活動していた先生とは面構え……じゃねーや、戦歴が違う(時々進撃もぶっこみます…)。とはいえ、戦歴がなくとも、必要なことはやるしかない――が、この余裕のない学生劇団で、なるべく皆が健康で怪我をせずに練習に臨めることというのはあまり必要なことと思われなかったらしいし、そういう風潮を後押ししたのはいくらかは稲田の方針ではないかと私は薄ら思っている。前にも書いた通り、『罪と罰』主演が心身ともに疲弊しきって見るからに具合が悪そうだった時、彼はそのことを心配して言った友人に対して、笑って「ラスコーリニコフらしくなっていい」と言ったその人なのだから。その稲田も、最初の内は、殴る蹴るの暴行シーンも何とか顧問が教えた通りにやらせようと多少は試したようだが、結局稽古を進める内になあなあになってしまい、蹴られまくる主演女優と話をしたら、「実際にガンガン蹴られていて痣ができている」ということで、衝撃を受けた(勿論、なんとかならないのか色々話してみたが、当人がそれを受け入れてしまっていた)。仮に私が殴る蹴られる側の役者だったら絶対に役を降りるが(意識が低いからではない。間違っていると思うからだ)、ある時には次のようなやり取りを稲田とした。稲田が蹴られる側の役者と一瞬代わって、ここはこんな構図でやりたい、と試してみた時のことを私に話したので、その流れの中でのことだ。「M(蹴る看護師役)さ、俺には手心を加えるんだよね(笑)」と稲田が笑うので、私は少し困惑した。なんとか蹴るフリを上手にやるようにさせるべきではないかと勧めた記憶があるが、稲田はけだるそうに笑って、「あーいい、そういうのはもう…」といった調子で、殆ど興味がないようだった。自分の名義で演出する芝居の出来栄えが良ければ構わないのであって、参加者が多少病もうがどうしようが大して気にならないらしかった。今考えればとても稲田らしい。そんなこんなで、本番当日は主演女優は熱を出しながら文句も言わずやり遂げたのだけれども、これが美談だったとは思えない。
 他にも、稲田が役者への思いやりを欠いていたと思うことは色々あるのだが、その一つは私に対するもので、これを悪く書かれるのは、彼が知っていれば不服だろうけれども書いてしまう。本番当日、ダブルキャストである私にとってはたった一度のプローホロフ役で出演する日の直前。突然、稲田が小さなノートを渡してきて、結末のシーン(今思うと少々クサいが、死んだ患者たちがこの世の地獄から解放されていくという幽霊シーンみたいなもの。ショパンの曲を背景に、なんだか感動的な最後をやりたかったらしいが、これで原作の凄絶みは大いに損なわれたと思う)にて、「このノートをどこかに隠しておいて、最後にみんなの前で書いてみて」と突然要求されたのだ。そこには、彼の私に対する想いとか思い出みたいなものが色々書かれていて、もう当日大変で本当はそれどころではなかったはずなのだが、私は「いきなりやること増やすなボケ!っつーかそういうのを私物化ってんだよバカ!」と怒鳴りつけるべきところを、困惑気味のままホイホイという事を聞いて、ノートを物陰に隠しておいた。正直、最後にそんな意味不明な行為をしたくはなかったのだが、稲田に異議を唱えたり逆らうことをしない習性がついていたし、思考停止状態だったのだ。そして見事というか、今考えれば有難いことに、そのノートは見つからなかった――終演後の片づけまで。後輩の一人がそれを見つけて、あの……と気まずそうに渡してきて、中のベタベタと気持ち悪い睦言を読まれたのだろうから大恥をかいたが、お陰様で私はそのくだらない身振りをせずに済んだのである。
 稲田は、そのことによって、これはボクと君で作り上げた二人の芝居なんだよ!とでもいうメッセージを伝えたつもりかも知れない。一緒にケン・ラッセルの『マーラー』を観た時、彼は最後にマーラーがアルマに「あの音は君だよ!」と告げるシーンで激感動して泣いていたので、影響を受けたのかも知れない。が、自ら作り上げた作品に思い人への想いを芸術的に昇華させて織り込むのと、皆で作っている芝居で自分が演出だからって、リアルな生の自分の恋愛に巻き込むのとは全然違う。私も、数日前にこのことを頼まれていれば、冷静に考える時間を持って、これはおかしいのでは?と言えたのかも知れないのだが、もういっぱいいっぱいになっている本番前の役者にそんなことを突然投げる人だから、おかしいと楯突いたら、俺の想いをわかろうとしないなんて!とキレさせてしまったかも知れない。
 そんなこんなで、色々ありすぎて、あまりにも辛い日々ではあったが、どうにかこうにか本番を終えて、終わってしまうと不思議なもので、大変なこともあったけど素晴らしいことをやれた!という魔法にかかる。これは奇妙なもので、あらゆる正常な感覚を麻痺させる。実際、ある程度芸術にはそういう側面があるかも知れないが、何かを美的に表現することの創意工夫とそのための技術と、なんでもかんでも美化してしまう欺瞞は別物だ。そこを取り違えると、魔法が消えた時に、何をやっていたんだろう?という感覚に愕然とする。もしタイムスリップできるのなら、私はその時の私に、全員で話し合いをする機会を設けるべきだと説得してみたいし、稲田に、お前は演出として無責任で不適当な人物だ、と突き付けるようにさせたいが、当時の私も相当未熟なバカだから、私のことをこんなに愛してくれる彼くんにひどいこと言えない!みたいになってしまうかも知れない……が、背中を押してくれる存在さえあれば、稲田に正面から反抗する気概はあったはずだと思いたい。そう思わせていてほしい。

 ★随分長くなってしまったので、一旦区切り、次回は終演後に稲田とまた一緒に歩いて帰ってみたときのことなどから色々書きます。


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