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【祝・20周年】SOLO BANTONインタビュー

こんにちは。音楽ライターであり、デザイナーでもあるSOLO BANTON(ソロバンタン)と申します。私は主にレゲエフィールドを中心に活動するライターで、多少突っ込んでこの音楽が好きな人ならどこかで自分の文章を読んだことがある、あるいはSNSをフォローしている、という人も居るかも知れません。
実は、今年2021年で、ぼくはレゲエ界に足を踏み入れて“丸20年”になりました。単なる音楽業界の裏方の半生だけど、まぁまぁ、ひとつの節目だし記録に残しておくことも大事なんじゃないかと思い今この文章を書いています。
MIGHTY CROWNも三代目モンスターのJUMBO MAATCHさんもインタビューしたことある自分だけど、さすがに自分で自分をインタビューする訳にも行かないので、友人でありレゲエ界の先輩でもあるKITAMANJAROさんにインタビュアーをお願いして、今回記事にまとめました。ぼくも自分のことなんで小っ恥ずかしいし、呑みながらやってるんで居酒屋トークみたいになってる点はご了承ください。

では、しばしのお付き合いのほどを♪

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はじまり〜レゲエDeeJay時代

●こんなん初めてやしどうしていいか分からんわ……とりあえず今日はよろしくお願いします(笑)。

はい、よろしくお願いします。何でも聞いてや!(笑)

●ええ、じゃあまずはレゲエに出会ったきっかけから。

きっかけは……もともと地元・福井にSING J ROYっていうもう30年以上音楽活動を続けてるレゲエアーティストが居るんやけど、『ハートランド』っていう福井のCDショップに行ったらその人がバイトしてて。“君もレゲエ好きなの? 俺たちのイベントに遊びに来ねや! 歌ってみねや!”と言われ、16歳でレゲエDeeJayを始めたのが全ての始まりです。実は最初ラッパーになりたくて。レゲエなんかボブマーリーぐらいしか知らんかったけど(笑)、とりあずまぁ、そう言ってくれてるんだしやってみることにしました。
早いもんで今年でそれからもう20年です。

●“ソロバンタン”っていう名前はその時からなんかいな?

そうやね。おれがその時歌いに行ったダンスにゲストで来てたのが『LADY Q』っていう女性レゲエDeeJayの人で。その人は当時『クレヨンしんちゃん』のオープニングテーマとか歌ったりしてた人なんやけど。『横浜レゲエ祭 2000』に出てビデオにも映ってる人。その人がつけてくれました。UKにも同名のDJが居るけどおれの方が早いはずやで。
由来? ああ“君なんかソロバンとか上手そうだよね! 「BUJU BANTON」好きだし「SOLO BANTON」にしたら?”って言われてそうなりました。でもおれその時ブジュの曲なんか一曲も知らんかったしね。とりあえず雑誌で見てカッコ良い感じがしたからノリで言っただけ。10代なんて適当なもんやね(笑)。

●(笑)。何からこんなにレゲエにのめり込むようになったんや?

最初に一番大きかったのは浪花マンの『ダディー関西人』かな。DJ始めたばっかりの、16歳だった自分に先輩のモーションマンが『ダディー関西人』と、コンピの『HARD MAN FI DEAD』を貸してくれて。浪花さんのゲリピーの歌とか聴いて“こんなこと歌ってもいいの!?”って子供心に凄い衝撃を受けた。

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後は同時期にSING J ROYがくれた昔のSTONE LOVEがやってるSTUDIO 1縛りのテープ。ダビングにダビングにダビングを重ねたようなテープで、音があまりにも悪くて、後ろの“シャーッ”って音がひどすぎて、もうラジカセの音をMAXにしないとまともに聴こえないようなひどいブツだったんだけど(笑)、ある日手持ちのミックステープとかも聴き尽くしちゃって、しゃーなしで聴いてたら何かこれが意外に良くて。だから最初はオールドスクールからレゲエにはまっていったんよね。

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●で、楽しかったんかいな? DeeJayは?

うーんまぁ、ちょうど第三次ブームの頃やったからねー。おれがDJ始めたのがちょうど『LIFETIME RESPECT』が出た年で、『横レゲ』とか『ハイエストマウンテン』が年々規模を拡大して行って、最終的に野球場に何万人を集めて……とか、そんな時代。
おれも北陸の田舎で月に一、二回レギュラーイベントに出て、20歳を過ぎた頃からちょくちょく北陸以外にも行けるようになって、って感じ。

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初めて大阪に呼ばれたダンス。のちに東大阪在住になるとは思いもよらず。
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今はなき横浜の伝説的なレゲエ箱『Bodega』に呼ばれた時。『NICE TO BE NICE』は当時ずっとフライヤーを制作させてもらっていたダンスでもある。
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初めての東京営業。

でもDJは全然あかんかったねー。そうこうしてるうちにブームも去って、出てたレギュラーも終わって、そのままフェードアウトしました。

結局歌ってたのは合計7年ぐらいかな? 今じゃ“その後”のレゲエ人生の方が倍ぐらいに長くなったけど、自分の中では逆でもうDJ時代の方が15年ぐらいの長さに感じる。やっぱりそれだけ10代の頃の記憶って強烈に残るんだなぁと思う。特におれ高校もドロップアウトして、それからのレゲエDJやったからね。

だからここまでレゲエの世界にしがみついたのかも知れないね。

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デザイナーのこと

フライヤーとかを作り始めたのはまだDJだった時から。“いかにも〜”な、昔のジャマイカの手書きのフライヤーあるやん? あれが描きたくて。でもどこにもお手本的なものがないから最初どう描いていいか分からんかったんやけど、ある日レコード屋で“ボルケーノの本”(※『Reggae Inna Dance Hall Style』。著名なアーティストのインタビューと当時の手書きフライヤーの掲載を交えて80年代のレゲエダンスホールを伝える伝記本)を見つけて、それに載ってるササフラスのフライヤーを真似てひたすら描いた。おれもともと高校も美術系やからね、絵描くの好きやねん。

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今でも覚えてるけど、自分の描いたフライヤーを写真撮って、携帯ホームページ……ワードが古すぎて嫌になるけど(笑)、まぁいわゆる『魔法のiらんど』みたいなやつに載せてたら、鹿児島のサウンドマンの人からDMがあって“描いてくれませんか?”って言われた。ギャラなんかどう設定していいか分からなかったから、とりあえず“3000円で”って返信したら本当に口座に3000円振り込まれてびっくりして。フライヤーでギャラをもらったのはその時が初めてかな? 凄い、嬉しかったよ。

あと下北にあった『PHI WI SPOT』の広告を描いて『Strive』に載った時も嬉しかったな。東京行った時買い物に行ったんやけど、“ぼくこんなの描いてるんです!”って自分の描いたフライヤー見せて直談判したのよ。“もし機会があったらやらせてもらいます”って言われて番号交換だけして。まさか本当にかかってくるとは思わんやん。
当時ネットもSNSもないからさ。MIGHTY CROWNの出してる全国誌に自分の描いたものが載るなんて感動でしかなかったよ!! 嬉しかったわー。

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でも地元の先輩とかやと、そもそものレゲエ界の上下関係があるから、もう“命令”みたいな感じで来る訳やん? もちろん金もくれんし。逆らうといじめられるし。
ある時先輩の●●●●●が“コンピ作るからジャケ描いてくれ”っていうからすぐに描いて送ったんやけど、ボランティアなのはもちろん出来上がったCDを見たら「Special Thanks」の欄におれの名前すら書かれてなくて本当に憤りを感じた。

「ああこういうことなんや。おれって今のままじゃギャラはおろか“ありがとう”のひとことすら言ってもらえないんだ」

って凄い思って。そーいうのもあってDJ辞めようと思ったな……。今でも原稿書く時の資料で昔の雑誌読み返すと、たまにあのCDの広告出てきてムカついてたまらんわ!

●分かった分かった。落ち着いてくれ(笑)。

すいません(笑)。

まぁそんな感じでね。最初は手書きから始まったんだけど、今ではパソコンも使えるようになりまして。趣味が高じて後に印刷屋にまで就職しまして。
今でもデザイン仕事は楽しみながらやらせてもらっております!

一時、HOTTIE CATのめぐさんのイベントフライヤーを良く作ってたんだけど、やっぱり男と女の感覚って全然ちがうからさぁ、最初は全然感じが掴めんくて大変だった。でもやってるうちにコツが分かってきて、カラフルなお菓子みたいなビジュアルを作るのが楽しかったよ。自分でも「おれこんなの作れるんだ」と思った。

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あの人がダンサーの『努(オンナマタヂカラ)』のバースデーバッシュをやった時なんやけど、朝方えりかさん(RUDY-E)が“このフライヤー可愛いから持って帰る!”って、おれが作ったのを壁から剥がしててびっくりしたよ。お金をもらえるのももちろん!嬉しいけど、やっぱりそーいう何気ない瞬間を見た時に凄い嬉しくなる……。

ここ(WHATEVER)でやってるキタマンさんのダンスのフライヤーもいつも作らせてもらって、本当にありがとうございます。

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皆様からのご厚情に支えられて私がおります! 感謝しかないですよ本当!!

●お前本当そーいうとこだけはしおらしいな……(笑)。

ワッハッハハハハハ。

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音楽ライターのこと

ライター仕事はね〜、どこらへんが始まりなんかな? まぁ一応今日持って来たんやけど、初めて自分が書いた文章が紙媒体に載ったのは2000年代のレゲエ系フリーペーパー『SKY LOVERS』。2009年のこの号はめっちゃ若い頃のOGAちゃんとおれの新連載が始まってる。当時の号の余りをまだ数冊持ってるんやけど、オガラジファンの人にあげると“本当にもらっていいんですか!!”ってすげー感動されるよ(笑)。

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でもその前からブログはずっと書いてたから、それになるんかなぁ? 今でもSNSフォローしてくれてる人とDMで喋ると“実は昔ずっとブログ読んでました!”とか言われる。まぁ本当はその前に携帯ホームページで書いてた日記もあるんやけどね。
キタマンさんとかその頃からおれの書いた文章読んでるんやもんな。凄いよな。えっ最初は何で知ったん??

●いやもう昔すぎて覚えてない……。何か気づいたらその、携帯の日記のやつとか、ブログとか読んでたなぁ。“何やえらいひねくれたヤツやなぁ〜”と思った。

ダハハハハ! この前久々に自分のブログ読み返したらウンチクばっかでえれー理屈っぽいし、何かやたら皮肉めいたこと書いて人をDissってるし、確かにこりゃ印象悪いなと思った(笑)。
でもまぁ……
“大筋ではけして間違ったことは言ってないな”
と思った。自分で自分をフォローしてるけど(笑)。キタマンさんはおれのブログ何の記事が好きやった?

●えっ!? いやなんか、パッと出てけーへん。逆に書いてた本人は何の記事が印象に残ってる??(笑)

まさかの質問返し!(笑)頼むわー。
うーん、そうやなぁ……(※しばし考える)やっぱ、あれかな……転機となった記事は『ママがレゲエダンサーってありですか?』かな?

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CHERRY BLOSSOM”っていう東北のレゲエダンサーの人がダンスの大会で優勝したからインタビューすることになったんだけど、何か普通にインタビューしても面白くないなーと思ったんよ。大体みんな一緒やん。お決まりの受け答えのテンプレで。
ちょうど“小さなお子さんが居る”っていうのは聞いてたから、じゃあ「子育て」っていうワンテーマに絞って“頑張る女性への応援歌”みたいにしたら面白いんじゃないかと思って、試しにそれでやってみたら予想外にTwitterで跳ねてビックリしたんよね。それまで自分の書いた記事が100以上のRTを受けて、色んな人から感想を書かれるなんてなかったから。

やっぱ雑誌で育った世代やから、自分で何かをやるのはダサい、レゲエだったら『Riddim』とか『Strive』とか『ROCKERS channel』 みたいな有名な媒体でやらなきゃ!っていう固定観念があったんだけど、
“もう今ってそーいう時代じゃないんだ。自分が本当に面白いと思ったことをやれば誰かが見ててくれて勝手に評価してくれるんだ!”
って、凄い実感として感じれた。
あの時おれの思いつきに付き合ってくれたしーちゃん(チェリーブロッサム)には今でも感謝しています。

後はあれかな。『はじめてのワイニー』かな?

●あーあったな〜。

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『ママがレゲエダンサー〜』の時にインタビューは何かテーマを絞ったら面白くなるんだ、っていうのは学習したから、じゃあもっと絞ってやろう!と思ったわけよ。でも何かウケるテーマというか、レゲエっぽいネタって何やろう?と考えた結果、“ワイニー”っていうレゲエならでは!の踊りにフォーカスしてみてはどうかと。まぁ……今思うとノリがいかにもおれっぽいよね。
でもなんだかんだ20回近く続いて。みんなワイニー好きやなと(笑)。

レゲエ好きなラッパーでもあるNONKEYさんが出てくれた時はバッチリはまって、SNS受けも凄い良くてマジで“神回”になった。懐かしいわ……。

まぁそーいう地道な活動が「ロカチャン」(※有名レコ屋『 ROCKERS ISLAND』が運営したレゲエ情報サイト『ROCKERS channel』。約10年に渡り継続)への登板に繋がったよね。

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あの時のロカチャン懐かしいわ。ライターで、PAPA B、I-VAN、OKAMAI、BADGYAL MARIE……とか錚々たる面子が集められて、その中の“誰やねん枠”でおれも。って布陣だったんだけど、フタを開けたらおれが圧倒的に強いという謎展開になって、後半は人気記事ランキングBEST10の半分をおれの記事が占めるという事態になったからね。逆に自分だけ目立つの気まずくなってきて、その頃はまりえさんの記事のネタ出しとかもしてたもん(笑)。

●凄いよな!

でもそれって当たり前というかさ。あの人らはほら、むっちゃ有名な人たちだけどこれが専門な訳じゃないやん。こっちはずぅぅぅ〜っとレゲエの記事書いてきた、言わばセミプロみたいなもんやからね。なんぼ素人の個人ブログとはいえ。
だから、“だいたいこーしたら跳ねる”みたいのも肌感覚で分かってるし、その違いじゃない? 使ってきた筋肉の違いというか。

……けど、嬉しくなかったのかと言うとそれは嘘になるよね。
やっぱボンさん(PAPA B)なんて、おれが生まれて初めて行ったダンスのスペシャルゲストだった人で、自分がレゲエDJを始めてからもずっとずっと雲の上の存在だった人。おれなんかあの人がラバダブで歌ってる時に恐る恐るマイク取りに行ったら、後で先輩から“お前がでしゃばるな! みんなボン君の歌が聴きたいんだ!!”って怒られてたから。
それがここではそうじゃないんだ、おれあの『PAPA B』と同じ土俵に立ってタメ張れてるんだ、って思ったらそりゃあやっぱり嬉しかったよ。
落ちこぼれDJだったおれとしてはね。

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何か面白い話? うーんロカチャン以降はけっこう怒涛やったからねー。
まぁでもやっぱりMIGHTY CROWN25周年記念トークショーに呼ばれたのは“お約束”で言っとかんとあかんよね。当時MIGHTY CROWNが雑誌の『WOOFIN'』で連載を持ってたんやけど、インタビュアーに指名されてトークショーの記事も書いたからね。まさか30過ぎてMASTA SIMONさんとの2ショットがコンビニにも売ってるような雑誌に載るとは思わんて!(笑)おれDJもとうの昔に引退してるのに。

ちなみにその時トークショーの司会を務めたのがまだブレイク前夜のチョコプラ松尾さん。
まさかあんなに有名になるとは思わなかった。びっくりした!!! この前Twitterに松尾さんの動画載せたらけっこう跳ねたんでその後本人がフォローしてくれて。慌ててフォロー返したけど、松尾さんおれのこと覚えてるのかね??(笑)

あと『WOOFIN'』関係で言うとBAD GYAL MARIEさんのインタビューをやったのも思い出深いね。
これ前後の流れがけっこう複雑で……もともと、あの人この時NYのサウンドの『SOUL SUPREME』に一緒にサウンドやってる黒人の旦那さんと二人で入るハズだったのよ。ところがフタを開けたらその話が流れて……旦那さんは残留したんだけど何かあの人だけが弾かれる形になって。
ビックリしたもん。“今年はSOUL SUPREMEでヨーロッパツアーがあるから日本帰れないんだよ〜残念〜”とか言ってて、おれも“そうなんですねー会いたかったのに残念です〜”とか言ってたのにさぁ。いきなり一人でジャパンツアーします!とかTwitterで発表してたから。

理由? わからん。おれも恐くて聞いてない(笑)。かなり昔からやってるサウンドだから恐らく“女にターンテーブルを触らすな!”みたいのでもあったんかも知れん。よう分からん。

ただまぁ、帰って来る以上は何らかこっちも援護射撃せなあかんやろ!と思ったから、『WOOFIN'』の編集長に直談判したらインタビューOK出てさぁ。しかもカラー1ページ。“キタコレ!!”やで(笑)。

●やるやん(笑)。

せやろ。“おれも一人の男として格好ぐらいつけさせておくれよ”やで。テンズユニークやで(笑)。

でもあの姐さんのインタビューだからおれ死ぬほど緊張しててさぁ。
前の日、全く寝れんかったんやの。そんなんでインタビュー終わったらおれビール一気とかさせられて。ゲロ吐きまくってもう死ぬかと思った……。しかもその時まーちゃんっていう、まりえさんの妹でもう狂ったように可愛い子が居るんだけどその人も同席しててさぁ。おれ恥ずかしすぎて死にたかったってマジで!!

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●どないもならんな……

どないもこないも(笑)。まぁでも、そーいう経緯を知ってるから、あの人がその後ジャマイカでサウンドクラッシュ世界一になったのはやっぱり感動的だったよ。『SOUL SUPREME』じゃなくて旦那さんとの『NOTORIOUS Int'l』でね。また“勝手にいらんこと言うな!”とか言われるかも知らんけども(笑)。

やっぱあの人が女性セレクターとして、また一人の音楽人として意地とプライドを貫き通した結果やからね。

俺たちの世代ではほんま“永遠のアイドル”の人やから。
やっぱりいくつになっても輝いていてくれてるのは嬉しいし、おれもいくつになっても応援してるよ!

●マリエT着てな(笑)。

マリエT着て(笑)。

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後はなんやろね〜、あーあれかな。レゲエザイオンで書いた小室哲哉の記事かな。『WOR WAR TONIGHT』がちょうど出てから25周年だったから、“『WOR WAR TONIGHT』は元祖ジャパニーズレゲエじゃ!!”とか大風呂敷広げて。

あれもだいぶバズった記事だったけど、本当おれはサブカル的というか、あーいうレゲエ小ネタを書かせたら右に出るやつは居ないな、と思う。我ながら(笑)。これは記事UPされた当日に小室哲哉の音楽活動復帰が発表されて。全くの偶然なんやけど、それもあってかなり跳ねた。びっくりした。ちょうどコロナが発見された年でさ。おれもいちおう人並みに悩んでたんだけど、“お前はちゃんとレゲエの記事書き続けろよ”と。何かそーいう天からの啓示なんかな?と思った。あの時ばかりはJAHの存在をいたく感じたわー。

だってこれどんだけ跳ねたかというと、浜ちゃんの息子のハマ・オカモトがやってるラジオ番組から出演依頼が来たぐらいやからね。マジでびっくりしたって!! なのにそれ、おれのメールアドレス宛に来たもんだから、おれ見落としてて結局出れなかったんだよ!!

もう令和なんだから、せめてSNSのDMとかにしてくれや……あの時一週間ぐらい凹んだわ。神様は本当に居るのかも知れないけどなかなか厳しいなと(笑)。

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昨年末に出た『ミュージック・マガジン』では、毎年恒例の年間ベストの選考に、ぼくもレゲエ部門で参加させてもらいました。『ミュージック・マガジン』は一時書いてたこともあるんだけどね、編集長変わってから疎遠になってたから再び呼んでもらえて嬉しかったよ! しかも鈴木孝弥さん、大石始さんなんて自分もずっと本を読んでた人で、そこに並んでおれ、だからね。
自分でもよく買っていた“日本一長く続く音楽誌”で本当に貴重な経験をさせてもらいました。ありがとうございました。

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まだまだ話したいことは山ほどあるんですが、何せ20年分あるんで、仕事の話はそろそろこの辺で。興味の湧いた方はぼくのツイッターなりインスタなりフォローしてください!!

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ZUNGGU ZUNGGU

●ソロバンから見て、注目の若手とか居てんの?

今日も来てくれてるけど、ズン様かな。
EMPERORのフォンデーション担当のセレクターで、DRUM&BASSのスタッフでもある子。

LOVERS ROCKが大好きで、最近は日本語ラバーズのプロデューサーとしても頭角を現してる。ラバーズの本も出版して、音楽ライターとしても注目の存在やね。

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後輩、というか普通に仲の良い友達やからさ。一緒に居る時間が長い分日に日に凄くなって行くのを肌で感じる。
“ランキンさんが横浜の小さなライブハウスでサウンドシステムを鳴らし始めた時”も、“マイティクラウンが初めてワールドクラッシュで優勝した時”も、おれは「その場」に居れんかった訳やけどさ。

でもその代わりに今、大阪という街でズン様がやってることをこんな間近で見れてる。“歴史”が動く瞬間に立ち会えてるのは嬉しいよ!

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あきらめたらそこで

●最後にメッセージを。

あきらめたらそこで試合終了”って有名なマンガの言葉があるけどさ、おれ何かアレはちょっと勘違いされて広まってるような気がすんのよ。
別に、あきらめてええやん。あきらめたらそこで試合終了かも知れんけど、新たな“試合”を始めたらええだけやん。
おれも、レゲエDJ辞めた時はそりゃ一応悩んだよ。“おれは夢をあきらめたダサい人間なのかな?”ってすっげぇ思った。高校中退してまで飛び込んだ音楽の世界やったし。でも今はそれで良かったと思ってる。
たとえば、ひとくちに“レゲエ”と言ってもそこには色んな形がある訳やん。

“野球場で何万人も集めてフェスをやるのもレゲエ”
“誰もが知るヒット曲を出してオリコン一位になるのもレゲエ”
“武道館でワンマンやるのもレゲエ”
“本場ジャマイカで活躍するのもレゲエ”
“サウンドクラッシュで世界一になるのもレゲエ”

それは素晴らしい偉業やし、誰にも真似できないことやと思う。
でも、それ以外にも“レゲエ”の形はいっぱいあると思う。
“100人居たら100通りのレゲエがある”と思う。

少なくともおれはそう思って20年のレゲエ人生を生きてきたから、さ!


……と、まぁ思い切りカッコつけたことを言ったところで! とりあえずインタビュー終了ー!(笑) ナルさんすんませーん、全員にビール出してくださーい!!



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取材協力・ロケーション
Reggae Bar Whatever
大阪府東大阪市足代新町9-11

写真撮影
TIGER BALM


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